人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

禅語を愉しむ ーー拈花微笑ーー

2020-06-17 14:57:00 | 日記

『無門関』では六則に世尊拈花として載っています。

世尊、昔、霊山会上に在って花を拈じ衆に示す。この時、衆皆黙然たり。惟だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊云く、「我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す」。

お釈迦様が花を捻っただけで迦葉尊者だけがすべてを理解し、正法を授けられたという伝灯の起源となった禅語です。悟りは言語的な理解によって伝わるものではなく、師と弟子との心が一つになった時に共有されるという意味です。禅宗においては、言葉というものは不要なものとする考え方を基本としていますが、これがどう考えても理解できないでいます。ところが先日ネットニュースを見ていますと、現代ビジネスに京都大学の山極総長の書いた『スマホを捨てたい子供たち』(ポプラ新書)を一部抜粋してまとめたコラムがありました。実は山極総長は、京大の霊長類研究所でゴリラの自然観察をしてきた方です。コラムのタイトルは「ゴリラと一緒に暮らした京大総長が、人間に覚えたある違和感」というものです。そのなかゴリラ世界のコミュニケーションの方法を書いた個所が、まさに「拈花微笑」の世界でした。私の勝手な解釈なので悪しからず・・・。

ゴリラの世界は、心を許してはじめて身体をくっつけあう、満員電車のなかのように全くの他人がお互い身体をくっつけあうなんて信じられない。身体を寄せ合ってきたときには、もう仲間として気持ちが通じ合っている状態で、そばにいても安心感がある。ゴリラと人間の違いの一つは言葉。彼らが心を一つにする方法が、ハミングでの同調やお腹をくっつけあうことなど。そのとき、目が合ってもお互いに平気です。覗き込み行動も同じ。その見つめあっている時間も数十秒程度。この間に相手の心に入り込んで、自分と相手の心を合わせ、誘ったりケンカの仲裁をしたり、なにかを思いとどまらせたりする。相手をコントロールして、勝手な動きをさせない方法なのでしょう。

人間は進化の過程で言葉を得、文字や記録する方法を発明し文明を発展させてきました。この本を書いた山極総長は、昨今の言葉がつくり出す暴力について危惧されています。SNSを媒体とした中傷やイジメ、それが高じれば自殺に追い込まれる人も出てくるのは、やはり異常な世界です。ゴリラと一緒に暮らした方が書いた言葉、どの言葉より心に響きました。

 

 

 

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紫陽花

2020-06-15 07:46:34 | 日記

この季節になるとやはり紫陽花について載せたくなります。そこでいつもの通り、古のひとの詠んだ紫陽花の歌を探すことになりますが、『万葉集』に二首見つけました。そのなかで今回は巻二十4448橘諸兄の歌を紹介します。ただ歌を載せるだけでは物足りませんから、当然にその歌が作られた時の時代背景を調べることになります。調べていくと、思わぬ収穫がありました。参考にしたのは『日本古典全書 萬葉集五』(朝日新聞社発行)です。その歌は、

 紫陽花の 八重咲くごとく やつ世にを いませわが兄子 見つつ偲ばむ

 安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都與爾乎 伊麻世和我勢故 美都都思努牟

まず橘諸兄が活躍したのは奈良時代聖武天皇の御世。天平九年(737)に天然痘が流行し、当時政治の実権を握っていた藤原武智麻呂ら藤原四兄弟らが天然痘に罹患し相次ぎ死去します。この辺りの話は梅原猛の『隠された十字架』にも書かれていますが、彼は聖徳太子や山背大兄一族の怨霊のせいだと言っています。興味ある方は一度読んでみてください。ところで橘諸兄は、父こそ違え光明皇后と同じ橘三千代の子供なので、いきなりの抜擢で左大臣まで出世し、吉備真備や僧玄昉の支えはあったにせよ聖武天皇の信認は厚く正一位まで昇りつめました。ただ晩年は光明皇后の後ろ盾で藤原仲麻呂が政治の実権を握るようになり、天平勝宝八歳7月(756)に聖武天皇が崩御する年の2月に辞職。翌年の1月に亡くなりました。

さてこの紫陽花の歌ですが、『万葉集』に収録された橘諸兄の七首の歌の一つ。歌の意味は『花ことば辞典(講談社学術文庫)』によりますと、「紫陽花の花が幾重にも重なって咲くように幾代まで健勝にいてください。そのような我が君をみつつお慕いします」というもの。ただこの歌にはもう一つの意味が隠されていると書いてある資料もあります。実は橘諸兄の子である橘奈良麻呂は、藤原仲麻呂との政争に敗れ、謀反の嫌疑で捕らえられ、天平勝宝九歳7月(757)に歿し、一族は滅亡しました。この紫陽花の歌は、天平勝宝七歳5月(755)に右大辨丹比国人真人宅の宴席で詠まれた三首のうちの一首。この宴が謀反の決起の勧誘、計画策定の場だと疑われたわけです。紫陽花という字が出現するのは平安時代からで、古くは集(あづ)・真(さ)藍(あい)と書いたという説もあります。何が正しいかどうかは???ではありますが、妄想はますます膨らみ、際限ありません。

 

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『臨済録』にチャレンジ

2020-06-12 14:50:00 | 日記

円覚寺正続院山門の潜戸を抜け、雲水が禅堂に吸い込まれていきます。その潜戸のそばに「臨済録提唱」と書かれた板が掲げられ、俗世と修業道場を隔てた神聖で近寄りがたい雰囲気を醸し出しています。ガイドをしている時には、国宝舎利殿の説明が中心で、この『臨済録』そのものに注目することは殆どありませんでした。この自粛期間中に岩波文庫の『臨済録』(入江義高訳注)に眼を通す時間があり、その世界を垣間見ることができました。

『臨済録』は唐代末期(9世紀)に臨済慧照禅師の語録を、弟子の慧然が編集し、さらに時代が下り北宋時代(1120年頃)に円覚宗演が重刊したものが現在に伝わっています。『臨済録』といっても、もともと臨済宗の聖典ではありません。臨済が布教した唐代末期は、宦官の台頭や官僚間の派閥抗争で内政は荒廃し、農民や兵士の反乱が頻発するような時代です。政治が安定していた則天武后が治めた時期には華厳経のような崇高な理念をもった教えがもてはやされますが、世が乱れた時代には衆生(悩める人間)を救う教えが必要になります。臨済は過去の教えが書かれた経典や古人の言葉を鵜呑みにすることを否定し、「仏もなく、法もない」、「求道者は、外にも内にも求めるな」、「平常無事」であればよいとし、無依の道人たる君たちこそが、諸仏の母なのであると教えました。『臨済録』にはこういったことが縷々書かれているのですが、俄か勉強の者にとても理解できる筈もなく、「示衆」の途中でギブアップしました。ただ「示衆 八」にあった次の言葉は心に残りました。

大丈夫児、ひたすら主を論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ、色を論じ財を論じ、愉悦閑話して日を過ごすこと莫れ。

この本の訳によれば「いっぱしの男子たるものが、やたら政治むきのことをあげつらったり、世間の是非善悪を論じたり、女や金の話など、むだ話ばかりして日を過ごしてはならぬ」というものです。

つい最近までの新型コロナ禍のなか、政治家はじめタレントや芸人や芸術家と称する人たちが、にわか仕込みの情報をもとに、テレビやSNSなどを利用して話しているのを視聴していると、聞くに堪えません。自分が一度でも発した言葉は謝罪などでは取り消せず、墓場に入る時まで残るものだと肝に銘じてもらいたいものです。

 

 

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禅語を愉しむ - 百尺竿頭進一歩 ー

2020-06-09 10:41:38 | 日記

今朝のNHKニュースでのエレコム葉田順治社長のインタビューからひと言。エレコム(株)はパソコンの周辺機器を扱う会社で創業は昭和61年(1986)、連結売上高は1000億円近くあります。私も10年以上前から同社の製品を使っており、最近も品質がいいと店員に勧められUSBメモリーを買ったりしていましたので、社長がどんな人で会社の現況はどうなのか等、興味深く観ていました。その葉田社長が好きな言葉で「百尺竿頭進一歩」という禅語を上げていました。私も最近『無門関』で知った言葉ですが、その意味をよく理解しないままの流し読みでした。葉田社長とは年齢が一つ上なのにお恥ずかしい限りです。

「百尺竿頭進一歩 十方刹土現全身」というこの禅語は、『無門関』四十六則に、古徳の言葉として「百尺竿頭に坐する底の人、得入すると雖も未だ真と為さず、百尺竿頭、須らく歩を進めて十方世界に全身を現ずべし」とあり、さらに無門は「歩を進め得、身を翻し得ば、更に何れの処を嫌ってか尊と称せざる。是の如くなりと雖も、且く道へ、百尺竿頭、如何が歩を進めん。嗄(さ)」と続けています。

後段の「十方刹土現全身」の意味は、百尺竿頭からさらに歩を進めて、あらゆる世界において自己の全体を発露しなければならないというもの。無門は、一体どのようにして百尺竿頭から歩を進めるのか、言ってみなさいと急かしています。百尺もある細い竿の先まで歩んで来たことすら大変だったのに、これから先の世界がどんな処かも分からないのに、さらに一歩進めと言われたら、あなたならどうしますか?

写真は鎌倉広町緑地で見つけたニホンカワトンボです。このトンボはイトトンボの仲間。何しろ身が軽いので、どんなに細い草木の先端にも難なくとまり、サッと無限の空間に飛び出すことができます。少なくとも、背負っているものが重いと駄目でしょうね。竿がたわみ、折れるかもしれないし、飛び出すときに勢いがつきません。さて、どうしましょうか・・・???

 

 

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故郷への想い ー善照寺砦ー

2020-06-08 05:42:29 | 日記

昨晩の「麒麟がくる」を観て思わず書きました。織田信長が今川義元の大軍を約三千の手勢で破った桶狭間の合戦の放映日でした。それからの日本の歴史を変えたかもしれないこの一戦は、歴史ファンなら誰でも知っています。ただそのなかで私は格別な思いでテレビの前に噛り付いていました。何故でしょうか?桶狭間の合戦は過去の大河ドラマでも定番のシーンですが、とりわけ今回の「麒麟がくる」では、さして有名でない善照寺砦が歴史を変えた場所の一つとしてクローズアップされていたからです。番組最後で現在の様子が放映されたときには・・・。半世紀以上前の記憶が鮮やかに蘇りました。

永禄三年(1560)5月19日(陽暦6月22日)桶狭間の合戦の当日、織田信長の軍勢は善照寺砦に集結し、今川義元本陣の兵力を推し量りながら、信長は決戦の決断を下します。この戦で信長は運を天に任せた無謀な賭けに出たのではなく、ギリギリまで戦況を見極め戦ったと言われています。これは昨晩の「麒麟がくる」の展開や司馬遼太郎が書いた『濃尾三州記』の記述でも明らかです。大げさに言えば、善照寺砦は歴史に名を残す場所の一つとして、ピンポイントで脚光を浴びた訳です。

その善照寺砦があるのは名古屋市緑区鳴海町。かくいう私が生まれ育ったのはこの砦から直線距離で300m位東南の宿地という字名の場所。460年前に織田信長がいたであろうこの高台に小学生だった6年間、集団登校のために集合し、鳴海城近くの小学校に通学していました。さらに『濃尾参州記』で司馬遼太郎が訪ねた名古屋市立緑高校は、もとは3年間通った鳴海中学校のあったところで、毎日桶狭間方面を眺め過ごしていました。これほどまでに歴史を身近に感じることができるとは、なんとも不思議なご縁です。

写真は数年前に写した鳴海町の祭りの様子。故郷を離れ50年経った今、手元にあった1枚です。こんなに熱い思いで語れる故郷がある幸運をしみじみ感じています。

 

 

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