人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー北条政子・実朝と栄西ーー

2016-04-29 13:47:41 | 日記

『吾妻鏡』によれば正治二(1200)年一月十三日に栄西を導師にして頼朝の一周忌が行われました。同年閏二月十二日には、「尼御台所(北条政子)の御願として伽藍を建立せんがために亀谷の地を點じ出さる。」 そして十三日には、「亀谷の地を葉上房栄西に寄付せられ、清浄結界の地たるべきの由、仰せ下さる。午の剋、結衆らその地に行道す。施主(政子)監臨したまふ。・・・同舎(壽福寺)栄作の事始めなり。」 と北条政子の希望で栄西を開山として壽福寺が建立されました。

また源実朝とは、建保二(1214)年二月大四日「将軍家いささか御病惱。諸人奔走す。ただし殊なる御事なし。これもしは去夜御淵酔の餘気か。ここに葉上僧正御加持に候ずるのところ、この事を聞き、良薬と称して、本寺より茶一盞を召し進ず。しかうして一巻の書を相副へ、これを献じせしむ。茶徳を誉むるところの書なり。将軍家御感悦に及ぶと云々。」 栄西が『喫茶養生記』を実朝に献上した行ですが、栄西と実朝の親しさが伝わるエピソードです。

このような栄西に係る記事は、建保三(1215)年6月小五日の「壽福寺長老葉上僧正栄西入滅す。痢病によってなり。結縁と称し、鎌倉中の諸人群集す。遠江守(源親広)、将軍家の御使として、終焉の砌に莅むと云々。」 と栄西の死をもって最後となりますが、随所に出てきます。『吾妻鏡』については元寇以後の13世紀後半に編纂されたと言われていますが、一つ一つの記事を見ると日時、天気、出来事、登場人物が具体的かつ詳細に書かれており、少なくともその土台となる日記は間違いなく存在したと思われます。これだけ栄西のことが記録されているということは、鎌倉幕府にとって栄西が単に宗教上の結びつき以上の存在で、無視できない人物であったことは間違いないでしょう。また壽福寺も北条政子や実朝そして後に執権となる北条泰時もたびたび訪れたサロンのようになっていたのではないでしょうか。

あくまでも私見ですが、栄西がいたこと、栄西の国際感覚を政子や実朝、歴代の北条執権が学んだこと、栄西のもたらした臨済宗により後日、蘭渓道隆や無学祖元といった中国の高僧を招聘できたことが、なにか鎌倉幕府にとって大事なイベントだったと思われてなりません。

 

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鎌倉を知る ーー栄西についてーー

2016-04-27 14:47:49 | 日記

鎌倉の壽福寺を開山した栄西についてもう少し詳しく見てみましょう。栄西の著書である『興禅護国論』(監修 西村信 編著 安永祖堂 四季社)の序に、「師(栄西)は本邦仏心宗の初祖なり。因みに千光祖師と号す。備中州の人。」 とあります。仁平三(1153)年、13歳の時に比叡山に入山し、23歳で叡山を下りました。そのころから栄西の入宋の思いは強く、「久しく入宋の志を懐く。然るに本邦二百年来、喩海(渡海)の沙門なし。たまたま説いて此の言に及べば人嘲らる。而も意屈せず。」 宋への思いは非常に強かったようです。実際、栄西28歳の時、仁安三(1168)年に商船に乗って渡宋を果たしましたが、わずか6か月で日本に戻ってきています。その時はまだ禅宗を日本にもたらすという考えはなかったようで、「彼地の禅宗の盛んなるを聞いて、希有の思いを発す。」 と書かれています。

一度目の渡宋から18年経ったのちは、「爾後十八年を歴たり、称して顕密二門の盟主となす。」 「特に道は後鳥羽帝に契う」 「因って特に葉上の号を賜う」 と顕密二門の奥義は極めていたようです。その後宋に渡るチャンスが到来し、文治三(1187)年に二度目の入宋を果たしました。栄西はインド行きを強く希望していたようですが、「上表して印度に達せんことを請うに許さず。胡に三道有り、其地時に皆蒙古に属して通ずることを得ざるが為の故なり。因って天台万年に止る。在宋五年、三たび蔵経を閲る。」  栄西の帰国は建久二(1191)年です。帰国後数年間九州にいて建仁二(1202)年に「鴨川第五橋の畔に一禅刹を創す。建仁の号を賜う。一に仏信宗を唱う。」 建仁寺開山の行です。

『興禅護国論』には、栄西と鎌倉幕府との関係を示すような記述は一切ありません。一方『吾妻鏡』に初めて栄西の名前が出てくるのは、正治元(1199)年九月大二十六日の箇所「御所で不動尊一体を供養された。導師は葉上房律師栄西である。」 ただ『吾妻鏡』は1196年1月から1199年1月までの間が抜けており、栄西は1199年以前に鎌倉に来ており、鎌倉幕府とのつながりもあったと推測されます。ともかく当時の日本人のなかで栄西は最も宋や宋を取り巻く国際情勢に詳しい知識人であったことは間違いないでしょう。

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鎌倉の寺社 ーー 壽福寺と栄西 ーー

2016-04-22 20:29:28 | 日記

鎌倉駅西口を出て今小路を東に向かって暫らく歩くと壽福寺に着きます。臨済宗のお寺で亀谷山壽福金剛禅寺と言います。1200年(正治二年)、北条政子(開基は源頼家)が栄西を招いて開山しました。壽福寺のあるこの土地は源頼朝の父である義朝の「鎌倉の館」があったところで源氏にとって大変重要な場所です。政子は頼朝の一周忌にこの場所を選び壽福寺を創建した訳ですから、開山のために招いた栄西に対する信頼度は非常に大きかったと思われます。

この栄西(1141-1215)ですが日本臨済宗の開祖として有名なお坊さんです。28歳と47歳の時に二度も宋に渡り臨済禅をもたらしました。1191年に帰国後、京都での布教は比叡山宗徒の反対あい叶いませんでしたが、1198年に『興禅護国論』を著し、ようやく禅宗の創唱を朝廷に奏上し勅許を得ることができました。たぶん鎌倉幕府の強い後ろ盾がなければ勅許を得られなかったと思われます。実際1202年に京都に栄西の開山で建仁寺が創建されました。

さてこれからが歴史の教科書にも出てこない私の荒唐無稽な推論となりますので聞き流してください。私の一番の疑問は壽福寺以前、鎌倉には鶴岡八幡宮寺、勝長寿院、永福寺などの官寺があるのに敢えて栄西を厚遇し、壽福寺を創建したのか?戒律の厳しい禅宗が武士の統制に必要だったのか?何か別の目的で栄西を活用したのか?実際、壽福寺は真言・天台・禅の兼学道場として運営されていたようで、栄西も加持祈祷を主にした密教僧としての活動が殆どだったようです。

私は鎌倉幕府、なかでも後に尼将軍と言われる北条政子は宋に留学していた栄西の豊富な知識、特に当時大陸で勢力を伸ばしつつあったモンゴルのことなど国際情勢の知識に興味を持ったのではないかと考えています。『興禅護国論』をみると栄西がインドに旅行する許可を求めたところ、インドに通じる道が蒙古の勢力下にあり危険だということで許可されなかったとあります。当時中国に渡る留学僧は殆どおらず、栄西は一級のインテリだったのでしょう。鎌倉幕府は宋との貿易の主導権を握りたかったでしょうし、栄西に対し利用価値があると考えるのは当然のことと思われます。

この栄西がいたこと、栄西が禅宗をもたらしたことが鎌倉幕府にプラスとなるときがきます。その話はまた別の機会に。それまでもっと勉強しておきます。

 

 

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鎌倉の大仏

2016-04-21 19:32:33 | 日記

4月の或る日。耐震調査と補修が終わったとのことで鎌倉大仏を久しぶりに訪ねました。奈良東大寺の廬舎那仏と比較されますが、総高13メートル、総重量122トンの仏像としては鎌倉に一つしかない国宝です。ずいぶん昔(1495年・明応四年と言われています)から露坐のまま。幾たびの地震や津波、台風などの災害にも耐え、じっと人々を見守っています。奈良の大仏の荘厳さとは違ったその姿は多くの人々に愛されてきました。

「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」

与謝野晶子が詠んだ歌ですが、釈迦牟尼(実際は阿弥陀仏)という個所を捉え、歌の出来を疑う論争があったと聞いています。ただこのことについては、『吾妻鏡』を見ますと阿弥陀仏、釈迦如来の両方が出てきますので、必ずしも与謝野晶子が間違っていたとは言い切れません。『吾妻鏡』(全訳吾妻鏡 永原慶二監修 貴志正造訳注 新人物往来社)によると、鎌倉大仏(当時は深沢大仏と言われていました)の記述は次のようになっています。

≪仁治四年(1234年)六月大十六日≫ 深沢村に一宇の精舎を建立し、八丈余の阿弥陀の像を安んじ、今日供養を展ぶ。導師は卿僧正良信。讃衆十人。勧進聖人浄光房。この六年の間都鄙を勧進す。尊卑奉加せずといふことなし。

≪建長四年(1252年)八月小十七日≫ 深沢の里に金銅八丈の釈迦如来の像を鋳はじめたてまつる。

結論から言えば、阿弥陀像でも釈迦如来でも大仏様の有難みに変わりはありませんし、それを拝む人にとってはどちらでも良かったのではないかと思います。

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五郎丸橋

2016-04-01 20:37:32 | 日記

鎌倉市腰越に「五郎丸橋」という名前の橋がありました。あの有名な五郎丸選手とは無関係でしょうが、ちょっと嬉しくなり思わず1枚。二俣川に架かる橋のようですが、興味ある人は探してみてください。

 

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