人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

紫陽花

2020-06-15 07:46:34 | 日記

この季節になるとやはり紫陽花について載せたくなります。そこでいつもの通り、古のひとの詠んだ紫陽花の歌を探すことになりますが、『万葉集』に二首見つけました。そのなかで今回は巻二十4448橘諸兄の歌を紹介します。ただ歌を載せるだけでは物足りませんから、当然にその歌が作られた時の時代背景を調べることになります。調べていくと、思わぬ収穫がありました。参考にしたのは『日本古典全書 萬葉集五』(朝日新聞社発行)です。その歌は、

 紫陽花の 八重咲くごとく やつ世にを いませわが兄子 見つつ偲ばむ

 安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都與爾乎 伊麻世和我勢故 美都都思努牟

まず橘諸兄が活躍したのは奈良時代聖武天皇の御世。天平九年(737)に天然痘が流行し、当時政治の実権を握っていた藤原武智麻呂ら藤原四兄弟らが天然痘に罹患し相次ぎ死去します。この辺りの話は梅原猛の『隠された十字架』にも書かれていますが、彼は聖徳太子や山背大兄一族の怨霊のせいだと言っています。興味ある方は一度読んでみてください。ところで橘諸兄は、父こそ違え光明皇后と同じ橘三千代の子供なので、いきなりの抜擢で左大臣まで出世し、吉備真備や僧玄昉の支えはあったにせよ聖武天皇の信認は厚く正一位まで昇りつめました。ただ晩年は光明皇后の後ろ盾で藤原仲麻呂が政治の実権を握るようになり、天平勝宝八歳7月(756)に聖武天皇が崩御する年の2月に辞職。翌年の1月に亡くなりました。

さてこの紫陽花の歌ですが、『万葉集』に収録された橘諸兄の七首の歌の一つ。歌の意味は『花ことば辞典(講談社学術文庫)』によりますと、「紫陽花の花が幾重にも重なって咲くように幾代まで健勝にいてください。そのような我が君をみつつお慕いします」というもの。ただこの歌にはもう一つの意味が隠されていると書いてある資料もあります。実は橘諸兄の子である橘奈良麻呂は、藤原仲麻呂との政争に敗れ、謀反の嫌疑で捕らえられ、天平勝宝九歳7月(757)に歿し、一族は滅亡しました。この紫陽花の歌は、天平勝宝七歳5月(755)に右大辨丹比国人真人宅の宴席で詠まれた三首のうちの一首。この宴が謀反の決起の勧誘、計画策定の場だと疑われたわけです。紫陽花という字が出現するのは平安時代からで、古くは集(あづ)・真(さ)藍(あい)と書いたという説もあります。何が正しいかどうかは???ではありますが、妄想はますます膨らみ、際限ありません。

 

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