『無門関』では六則に世尊拈花として載っています。
世尊、昔、霊山会上に在って花を拈じ衆に示す。この時、衆皆黙然たり。惟だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊云く、「我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す」。
お釈迦様が花を捻っただけで迦葉尊者だけがすべてを理解し、正法を授けられたという伝灯の起源となった禅語です。悟りは言語的な理解によって伝わるものではなく、師と弟子との心が一つになった時に共有されるという意味です。禅宗においては、言葉というものは不要なものとする考え方を基本としていますが、これがどう考えても理解できないでいます。ところが先日ネットニュースを見ていますと、現代ビジネスに京都大学の山極総長の書いた『スマホを捨てたい子供たち』(ポプラ新書)を一部抜粋してまとめたコラムがありました。実は山極総長は、京大の霊長類研究所でゴリラの自然観察をしてきた方です。コラムのタイトルは「ゴリラと一緒に暮らした京大総長が、人間に覚えたある違和感」というものです。そのなかゴリラ世界のコミュニケーションの方法を書いた個所が、まさに「拈花微笑」の世界でした。私の勝手な解釈なので悪しからず・・・。
ゴリラの世界は、心を許してはじめて身体をくっつけあう、満員電車のなかのように全くの他人がお互い身体をくっつけあうなんて信じられない。身体を寄せ合ってきたときには、もう仲間として気持ちが通じ合っている状態で、そばにいても安心感がある。ゴリラと人間の違いの一つは言葉。彼らが心を一つにする方法が、ハミングでの同調やお腹をくっつけあうことなど。そのとき、目が合ってもお互いに平気です。覗き込み行動も同じ。その見つめあっている時間も数十秒程度。この間に相手の心に入り込んで、自分と相手の心を合わせ、誘ったりケンカの仲裁をしたり、なにかを思いとどまらせたりする。相手をコントロールして、勝手な動きをさせない方法なのでしょう。
人間は進化の過程で言葉を得、文字や記録する方法を発明し文明を発展させてきました。この本を書いた山極総長は、昨今の言葉がつくり出す暴力について危惧されています。SNSを媒体とした中傷やイジメ、それが高じれば自殺に追い込まれる人も出てくるのは、やはり異常な世界です。ゴリラと一緒に暮らした方が書いた言葉、どの言葉より心に響きました。