人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 海蔵寺 ーー

2016-06-28 15:07:48 | 日記

鎌倉の扇が谷にある海蔵寺は紫陽花の時期にしては観光客は多くなく、静かにお参りができる私がよく訪ねるお寺の一つです。応永元(1394)年に鎌倉公方足利氏満の命により扇が谷上杉氏である上杉氏定が開きました。開山は謡曲「殺生石」で知られる心昭空外(源翁禅師)。本尊である薬師如来は別に啼薬師、児護薬師ともいい、胎内には土中から発掘されたという仏面を収めています。境内の南の隅にある岩窟のなかに「十六井戸」があり、床の径70センチ、深さ40~50センチくらいの16個の穴に清水をたたえています。お墓との説もあるようですが、伝承では金剛功徳水(十六金剛菩薩に供える閼伽水)と名づけられています。また鎌倉十井の一つである「底脱の井」も境内の外にあります。

このお寺には「海蔵寺境内絵図(寛政三年1791)」が残されており、主な建物の配置は現在の姿とほとんど変わらず、塔頭七ヶ院などの旧跡が図示されています。その絵図をよく見ると、北西の山中に人口的な谷が描かれていますが、その谷は海蔵寺の案内には「寂外谷」とあり、源頼朝が切通しを作ろうとして中止になったと書かれています。

さて化粧坂の話に戻りますが、どうも海蔵寺の背後の山の鞍部に切通しがあったのは間違いなさそうです。それが工事途中で中止になったのか、使われていたけど何らかの理由で使われなくなったのか。私の個人的な意見としては、上杉氏定により海蔵寺が開かれる以前には、化粧坂はこの場所にあったと考えています。ご存じの通り、関東管領職をつとめた上杉氏は扇が谷、山ノ内、犬懸、宅間の四家に分かれました。その扇が谷上杉氏である上杉氏定が海蔵寺を菩提寺にしたということは、背後からの攻撃に備えるために、切通しを潰して山ノ内に抜ける道を今の化粧坂に付け替える必要があったのではないでしょうか。

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鎌倉を知る ーー 13世紀末頃の化粧坂はどこに? ーー

2016-06-27 17:08:24 | 日記

先日、後深草院二条の『問はず語り』のなかに書かれている化粧坂から見た鎌倉の街の様子を紹介しました。「きざはしなどのように、重々に、ふくろの中に物を入れたるやうにすまひたる云々。」 作者の第一印象でしょうから、素直に街の印象を表現したと思います。ただ実際に化粧坂に行って作者と同じ目線でみても、袋の中に物を入れたように重なりあう家並みの様子は確認できませんでした。現在の化粧坂は源氏山の東斜面を下ることから、南側に広がる鎌倉の街並みは見えないことになります。では作者が下った化粧坂は別の場所にあったのでしょうか? 謎です・・・。

いま中世史の研究者のなかに、海蔵寺創建以前の化粧坂はいまの海蔵寺のあるところから真直ぐに北に伸び、瓜ケ谷を経て山ノ内に抜ける道だったという説を唱える研究者がいるとのことでした。掲載した写真は海蔵寺の真上、源氏山の葛原岡神社から浄智寺への道を50メートル位下った鞍部から南の方向を見たものです。左右の崖は明らかに人工的に削られた切岸になっています。この鞍部は埋められたもので、昔はもっと低かったとのこと。それであれば然程の高低差もなく、行き来できたかもしれません。そして遠くに横須賀線が走っているのが見えますので、浄光明寺くらいまでは見通せます。

化粧坂の名の起こりは坂のあたりに遊女が住んでいたということ。もしそれが本当なら現在の化粧坂では道の左右が狭すぎます。化粧坂を通る度に疑問に感じていました。海蔵寺を抜ける道であれば納得でき、なんとなく正しいかなと思い始めています。ある時期に何らかの理由で今の場所に付け替えられたと考えられます。歴史というのは想像する楽しみがあっていいですね。

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鎌倉を知る ーー 東海道古道 極楽寺から先は? ーー

2016-06-26 20:13:27 | 日記

後深草院二条の自伝『とはずがたり』に作者が正応二年(1289)二月に鎌倉に下向したときの様子が語られています。将軍は惟康親王、執権は北条貞時の時代です。弘安の役のあと、霜月騒動で安達泰盛一族が滅び、北条一族の支配にも陰りが見えてくる頃です。

作者は江ノ島に泊まり、翌日の鎌倉入りの前に極楽寺に参拝しています。その時の様子は、「あくれば鎌倉へいるに、極楽寺といふ寺にまいりてみれば、僧のふるまひ都にたがはず、なつかしくおぼえて見つつ、化粧坂といふ山をこえて鎌倉のかたをみれば、東山にて京を見るにはひきたがへて、きざはし(階段)などのように、重々に、ふくろの中に物をいれたるようにすまひたる。あな物わびしと、やうやうにみへて、心とどまりぬべき心ちもせず。」と書かれています。当時の鎌倉の家々は海に向かって階段状になった平地にぎゅっと詰めたように建てられていたのでしょう。京都の東山から遠く巨椋池をみた景色とは比べようもなく、ガッカリした作者の気持ちがよく表現されています。

ところで先の文章をみてちょっと引っかかる個所がありました。極楽寺を参拝したあと、いきなり化粧坂からみた鎌倉の街並みの様子が描かれています。現在であれば極楽寺からは極楽寺切通しを通り坂の下を経て長谷に抜けますので、化粧坂を下ることはありません。ということは、作者は別の道を通って鎌倉入りをした可能性があります。ではどこか?前にも紹介した極楽寺絵図をみますと、今の稲村ケ崎小学校のあたりから右に折れ、山伝いに行く道が描かれています。今もその道はあり、長谷配水池を抜け、大仏トンネル手前から葛原ケ岡・大仏ハイキングコースを通って源氏山公園に尾根伝いに行けます。今でこそハイキング道ですが、鎌倉時代は生活路として使われていたと推測しました。どうでしょうか?

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鎌倉を知る ーー 称名寺 ーー

2016-06-22 14:11:24 | 日記

称名寺は横浜市金沢区にあります。京急線金沢文庫駅から歩いて10分位。鎌倉時代の四境の東端は六浦で港と塩田があり、鎌倉幕府にとっては重要な場所でした。創建は北条(金沢)実時(1224~1276)。北条義時の五男・北条実泰の子供で極楽寺の旦那である北条長時と業時とは従兄弟の関係になります。最初は実時の持仏堂で浄土宗のお寺でしたが、文永四(1267)年に極楽寺の忍性の奨めで妙性坊審海を開山として、真言律宗に改めました。奈良西大寺の叡尊を金沢の地に招くなど真言律宗との関係は深かったようです。その後、実時の子顕時(あきとき)の時代に七堂伽藍を備える大寺院に発展し、顕時の子貞顕(さだあき)のとき1320年に「浄土式庭園」が完成しました。今の形には復元されたのは1987年。30年前のことです。

称名寺から隧道をくぐって隣にある「金沢文庫」は実時が病没する直前の1275年に設けたもので、火事の多い鎌倉から別荘である金沢の地に避難させたことで大切な古文書が現存しています。ただ大半の文献は徳川家康により江戸城に持ち出されたようです。家康はこれらの貴重な文献を参考にして徳川幕府の体制づくりを計ったのでしょうか。興味深いですね。

また今年の3月に金沢文庫の『称名寺聖教』 4,149点と『金沢文庫文書』 13,027点が国宝の答申をうけました。金沢文庫の説明によりますと、これら答申を受けた資料は、鎌倉時代~南北朝時代を中心とする文献資料で、当時の政治、外交、宗教、文化を生き生きと伝え、その視野は日本という枠を超え、モンゴル帝国に席巻されつつあった東南アジア世界にまで広がっているようです。いまの人員では総てを整理するのに300年掛かるとのこと。北条氏が蒙古襲来に備え、どのように情報収集したか、是非とも知りたいところ。報告が待ち遠しいですね。

鎌倉の隣にこんなに素晴らしい文化財の宝庫があります。是非訪ねてみてはいかがですか。

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鎌倉を知る ーー 聖福寺跡 ーー

2016-06-19 10:43:30 | 日記

鎌倉市稲村ガ崎5丁目に正福寺公園があり、その公園の東側入口に「聖福寺跡」の鎌倉青年団が建てた石碑があります。その碑文には、「聖福寺は建長六年四月関東の長久並びに北条時頼の息 時輔(幼名 聖寿丸) 時宗(幼名 福寿丸)の息災延命の為建立せんものにして其の寺号は両息の名字に因みしものと伝わるるも、廃寺の年代詳ならず」と書かれています。通りがかりにいつも思うのですが、なんでこんな場所にお寺があったのか不思議でなりませんでした。また別の資料をみますと、1333年の新田義貞の鎌倉攻めで聖福寺に陣を張ったとありますが、場所がここであったかは定かではありません。

もう一つの資料として『極楽寺境内絵図』を手元においてみていますが、この絵図のなかに今でも名前が一致する場所がいくつかあり、それを手掛かりにしても「聖福寺」という寺院は見つかりませんでした。絵図の南にある「白山権現」、東にある「熊野新宮」は現存し、熊野新宮は今も極楽寺の鎮守となっています。西北の山中に「熊野那智神社」が描かれていますが、この神社も極楽寺から稲村ケ崎小学校を超え月影地蔵のお堂を左に折れ、稲村ケ崎5丁目に抜ける途中に熊野神社と書かれたお社がありますので、確かでしょう。さらに「山神宮」とありますが、このお社はたぶん鎌倉山の尾根伝い鎌倉山2丁目にある「鎌倉山神社」だと思います。『鎌倉の神社 小辞典』によると、もとは通称「山の神」と呼ばれていたとあります。こうして絵図上で位置を特定していきますと、「山神宮」の周辺、稲村ケ崎5丁目から七里ヶ浜、鎌倉山にかけてあるのは、「庄厳院」、「修?福院」、「興正寺」などですが、それが「聖(正)福寺」と関係あるのかは謎です。

この『極楽寺境内絵図』は江戸期に昔の資料などをもとに作成されたものらしいですが、最盛期の極楽寺は現在の極楽寺1丁目から極楽寺4丁目までの全域位の大きさがあったと思われます。

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