人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 甘縄神明神社 ーー

2016-09-28 09:41:54 | 日記

甘縄神明神社は長谷の鎮守。710年に行基が草創、豪族染屋時忠(由比の長者)が建立し、源頼義や義家が社殿を修復したとも伝わり、鎌倉で一番古い神社とされています。本殿は階段を登った上にあり、かつては海岸線が近くまできていたのではないでしょうか。鳥居をくぐったところに万葉集の歌碑があり、歌にある「見越(みこえ)の崎」はこの近くだったようです。

    鎌倉の見越の崎の岩崩の君が悔ゆべき心は持たじ

そしてもう一つ。川端康成の小説『山の音』の舞台。その第一章。小説のタイトルにもなったその部分を抜き出してみます。

  そうして、ふと信吾に山の音が聞こえた。  風はない。月は満月に近く明るいが、しめっぽい夜気で、小山の上を描く木々の輪郭はぼやけている。しかし風に動いていない。  信吾のいる廊下のしだの葉も動いていない。  鎌倉のいわゆる谷の奥で、波が聞える夜もあるから、信吾は海の音かと疑ったが、やはり山の音だった。  遠い風の音に似ているが、地鳴りとでもいう深い底力があった。自分の頭のなかに聞えるようでもあるので、信吾は耳鳴りかと思って、頭を振ってみた。  音はやんだ。・・・・・・・。

川端康成の鎌倉の住居はこの甘縄神明神社の隣。川端康成は長谷以外にも住んでいましたので、この情景をどこで描いたのかの議論があるようですが、『山の音』を読み進みますと、  「お宮の御神輿小屋の屋根のトタンが、うちの屋根の上へ吹き飛ばされて来たらしい。」とか、  「信吾の家の裏山は神社のところで切れている。その小山の端をひらいて、神社の境内になっている。」  の箇所がありますので、山の音が鳴ったとされるのは間違いなく甘縄神明神社の裏山だと思います。

いまは神社の周辺は家が立ち並び、少し歩けば鎌倉大仏や長谷観音も近く、車や人々の往来もあり山の音など聞こえませんが、本殿まで上ってみて、喧騒を逃れ、ひととき山の音をさがしてみてはいかがですか。

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湘南  「この国で一番贅沢な地域」

2016-09-26 05:45:18 | 日記

日経電子版を読んでいたら、GOETHEとコラボしたWEBサイトに、石原慎太郎「この国で一番贅沢な地域」 湘南というコラムがありました。日本という国、北端の宗谷岬から南端の与那国島までの長さは、アメリカ北端のナイアガラの滝から南端のフロリダのキィウエストまでの距離に匹敵しているとのこと。そのコラムの最初の文章をそのまま紹介させていただきます。

「そのなかでどこが一番住みやすく洒落て素晴らしい土地かといえば、これまた人さまざまだろうが私は自分が住み慣れた湘南と信じている。それは何といっても気候の温暖さとさまざまな便宜性、そして風物の変化の豊かさだろう。首都東京まで一時間たらずの距離にあり、しかも地域の中心には日本の三大古都の一つ、鎌倉があり、目前には黒潮の分流が洗う温暖で豊穣な海、相模湾が開けているのだから。その意味ではこの国で一番贅沢な地域といえるはずだ。」

鎌倉を紹介するブログを開設して1年くらい経ちますが、その歴史を学び、そこに出てくる登場人物に興味をもち、彼らの足跡を探すために多くの史跡を巡り歩いています。知れば知るほど奥深く、興味はつきません。京都や奈良にない鎌倉の「良さ」は何か?その答えはまだ見つかっていませんが、「この国で一番贅沢な地域」というコラムを読み、ちょっと自信をもちました。

そしてエンディングには 「稲村ケ崎を過ぎてその先に広がる七里ヶ浜沿いの魅力も素晴らしい。(中略)江ノ島までの七里ヶ浜の展望は沿線に点在する洒落たレストランやブティックを合わせると日本の他にはない、なかなかのものだ。(中略)いずれにせよ湘南というのはこの日本では最も恵まれた粋な素晴らしいエリアといえるに違いない。私にいわせれば日本のコートダジュールというべきだろう。」  コートダジュールですか、いい響きですね。

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御霊神社 ー面掛行列2016.9.18ー

2016-09-23 13:15:42 | 日記

御霊神社 ー面掛行列2016.9.18ー

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鎌倉を知る ーー 馬場ヶ谷 ーー

2016-09-21 16:33:26 | 日記

馬場ヶ谷といわれてもどこにあるのか、どんな史跡なのか、分からない方がほとんどだと思います。私もつい最近知った地名。江ノ電極楽寺駅から稲村ケ崎小学校に歩き、小学校の三叉路を右に曲がれば馬場ヶ谷です。道なりに歩けば長谷配水地を通って、大仏坂ハイキングコースを経て源氏山から化粧坂に抜けられます。また馬場ヶ谷の中央あたりから左の小道を上ったところに「一升桝遺跡」という国指定の史跡がありますが、この説明は別の機会にします。

この馬場ヶ谷。『かまくらこども風土記』によれば、極楽寺の忍性が病気が治った馬の調教のために使ったとか、武士が馬術の稽古をした場所とか伝わっています。忍性は1298年に「坂ノ下馬病屋」を建てたという記録がありますし、また鎌倉幕府六代将軍である宗尊親王が、北条長時や時頼を連れてこの馬場にきて笠懸や小笠懸を見物したという話も残っています。

そしてもう一つ。先日、古本屋で”『とはずがたり』の鎌倉”(鈴木良昭著)という本を見つけました。なんでこの本を持ち出したかといいますと、以前このブログにも載せた「『とはずがたり』の作者は極楽寺から、どのルートで鎌倉入りしたか?」につき、著者である鈴木先生は、極楽寺切通しや稲村ケ崎の海岸ルートを通らずに、極楽寺~馬場ヶ谷~大仏坂上尾根道~化粧坂か常盤里道経由で化粧坂を下りたのではないかと書いています。推測するに、鎌倉市街を囲む山々は、今は鬱蒼とした森林となっていますが、鎌倉時代は燃料にするために木は切られ、低木や草が茂る尾根道であったと思われます。高さも最大150mくらい、多くは100m以下の山道なので、女子供でも歩けたのではないでしょうか。

鎌倉時代の人々の生活の記録はほとんどありませんので、実際はどうだったかは、古典の文章から推測するより仕方ありません。私は以前、極楽寺から源氏山まで山道を歩いたことがありますが、下の道を行くより意外に近く感じました。もし鎌倉の尾根道が整備されていたとすれば、『とはずがたり』の作者は尾根筋を通って化粧坂を下りた可能性は十分あります。

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鎌倉を知る ーー 御霊神社 湯立神楽 ーー

2016-09-20 19:26:30 | 日記

9月18日。鎌倉権五郎景政を祭神とする坂ノ下御霊神社の例大祭に出かけました。13時から数種類の鎌倉神楽が奉納されていましたが、特に湯立神楽が知られています。この湯立神楽は、神道用語集によれば、「釜に湯をわきたぎらせ、神楽男が手にした笹束を湯にひたし、湯を自身また諸方にふりかける行事をいう」とあります。全国に広く分布している神楽であり、鎌倉周辺の神社でも祭礼の際によくおこなわれているようです。もともとは鶴岡八幡宮で職掌(しきしょう)と呼ばれる人たちによって奉納されていたものだそうです。

湯立は火の祓をともなう湯のみそぎであり、清め祓への行事であったと考えられていますが、火事の多かった鎌倉では、これが神楽舞の形式をとって祈祷化され、湯立神楽として今日に伝わっていると思われます。煮えたぎる湯中の湯玉を湯花と称し、その湧き加減によってその年の作柄を占ったり、熱湯を周りに振って散らし、それを浴びることによって邪気を払い、無病息災を祈ったりします。

この鎌倉神楽は、鎌倉や藤沢などの神社の方々が保存している伝統行事ですが、是非後世に伝えて欲しい文化遺産です。

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