人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

源実朝を知りたい ー実朝と北条泰時ー

2019-02-27 20:19:39 | 日記

『吾妻鏡』の承元四年(1210)十月小十五日と廿二日の記事に次のことが書かれています。

聖徳太子の十七箇条の憲法、ならびに守屋逆臣の跡の収公田の員数・在所、および天王寺・法隆寺に納め置かるるところの重寶等の記、将軍家日来お尋ねあり。広元朝臣相触れてこれを尋ね、今日進覧すと云々。

御持仏堂において、聖徳太子の御影を供養せらる。この事日来の御願と云々。

坂井孝一著の『源実朝』によれば、実朝には聖徳太子信仰があり、聖徳太子には予知・予言にまつわる伝承が多く、実朝の夢想の告げ(陳和卿の言葉を聞いてから、実朝が夢想の告げを口にしている)と重なってくると書いています。夢想の告げのことはともかく、間違いなく実朝は聖徳太子の十七箇条の憲法を研究していました。以前このブログで『貞観政要』のことにふれましたが、実朝は国を治める自覚をもって将軍の務めを果していました。

そして鎌倉幕府の3代執権北条泰時は、実朝が催す和歌の会に加わり、「芸能之輩」として「御学問所」に結番祇候するように命じられた十八名にも選ばれています。ある本で読みましたが、北条泰時は実朝に影響され、聖徳太子の十七箇条の憲法を知り、後にその精神をもとに『御成敗式目』を制定したとありました。承久の乱のあと、義時の跡を継いだ泰時は朝比奈切通や和賀江嶋の築港などのインフラの整備や鎌倉幕府の体制整備に努め、その後の繁栄の基礎を造り上げました。それもこれも実朝があってのこと。坂井先生も著書の巻末に、八百年の「誤解」が解け、源実朝というひとりの人間の真の姿が明らかにされる日も、そう遠いことではないであろう、と書いています。実朝ファンとしては嬉しい一文です。

写真は寿福寺にある実朝の生誕八百年記念碑。今年は没後八百年の記念の年。青年将軍実朝の生きざまを偲びたいと思います。

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ドナルド・キーンさんを偲ぶ

2019-02-26 13:45:42 | 日記

この2月24日にドナルド・キーンさんが亡くなったことが報道されました。96歳とのこと。東日本大震災後に日本国籍を取得し、日本国内で執筆活動をしていました。松尾芭蕉の研究家として知られ、『おくのほそ道』も英訳されています。

ドナルド・キーンさんの著作で私の手もとにあるのは『百代の過客 日記にみる日本人』(金関寿夫訳 講談社学術文庫)と『おくのほそ道』(ドナルド・キーン訳 同)の2冊。あらためてページをめくってみました。『百代の過客』は平安時代から徳川時代までに書かれた日記を紹介し、そこから日本人像をあぶり出す試みですが、これだけの古典を読みこなし英訳するエネルギーには敬服します。日本人でも古文書を読みこなせる人はそういません。

そのなか『海道記』について書かれていますので、ちょっと紹介させていただきます。

京都、鎌倉間の旅を扱った日記の中で、私のお気に入りは、『海道記』である。『十六夜日記』の方が有名だし、『海道記』よりもよく書けている日記もほかにあるのだが、私はこれをとる。平安時代の日記を読んだあとで『海道記』を読むと、日本語の文体に起こった大きな変化に、私たちはすぐに気づく。(一部略)『海道記』には、音読みの熟語が多いばかりか、中国の詩や故事から引いてきた語句がぎっしり詰まっている。云々・・・。

『海道記』は作者は不明ですが、承久の乱が終わり世の中が落ちつきかけた1223年4月に京都から鎌倉に下向し5月に帰京するまでの旅日記です。ちょっと岩波文庫の『海道記』から稲村ケ崎の箇所にふれてみましょう。

稲村と云所あり。嶮(さかし)岩の重りふせる山の迫(はざま)をつたひ行(ゆけ)は、岩にあたりてさきあかる浪、花の如く散りかかる。

ドナルド・キーンさんは別の箇所で文体の特徴を伝えているのですが、なんとなく雰囲気は伝わってきます。そのほか『十六夜日記』、『とわずがたり』などの日記も紹介していますので是非読んでみてください。

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源実朝を知りたい ー謎の渡宋計画ー

2019-02-23 21:12:43 | 日記

『吾妻鏡』に建保四年(1217)に「将軍家、先生(せんじょう)のご住所、医王山を拝し給はんがため、渡唐せしめおはしますべきの由、思し食し立つによって、唐船を修造すべきの由、宋人和卿に仰す。云々」という実朝の渡宋計画の話が載っています。これについては様々な解釈がされ、極端なものは政治に嫌気がさし、孤独感を深めた実朝が日本脱出をはかったとするものもあります。実際どうだったかは謎ですが、これまでの多数派の意見はあまり実朝を評価するものはありませんでした。

ただ最近の研究では実朝の見方が少しづつ変わってきているようです。『源実朝「東国の王権」を夢みた将軍』(坂井孝一著 講談社選書メチエ)を読みますと、実朝の政治的手腕を随分に評価しています。そして将軍親裁を強化していくためには実朝を支持する勢力、いわゆる将軍派閥を形成することが北条義時に対抗するために急務であり、結城朝光を奉行に任じて「六十余輩」の随行者定めたことも、単に渡宋のための同船者選定というだけではなかった可能性もあると、著者は書いています。

加え「さらに想像をたくましくすれば、巨船の建造には、宋との貿易や、国内各地との海上貿易を、将軍として掌握しようとする意図すらあったといえるかもしれない。むろん、実朝がどれほどの真剣さや具体的な構想をもっていたかは不明であり、あくまで想像であるが・・・。」とも、「ひょっとすると、実朝は自由にふるまえる将来が訪れたら、ほんとうに宋に渡りたかったかもしれない。もともと、宋から帰国して寿福寺の長老となった栄西と親しく交わっており、宋の話を聞いて憧れを抱いていたと推測される。」とも述べています。

造船所にいた経験からしても、現代でもドック式でない進水は難しく、たまに失敗することがあると聞きました。まして鎌倉時代のことですから、失敗したからといって決して無謀な計画ではなかったかと・・・。私は将軍実朝は学者肌で合理的な思考をする人物だったと推測しています。そして坂井先生の書いた本を読み、私が以前このブログで書き、想像した実朝像が間違っていないのだと、意を強くしました。

写真は渡宋のための船が建造されたとされる由比ヶ浜から坂ノ下の海岸の遠景です。

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鎌倉を知る ーー 足利直義の墓 ーー

2019-02-08 14:58:00 | 日記

鎌倉市の東、金沢街道沿いにある浄妙寺は足利尊氏の父貞氏が中興開基といわれる足利氏ゆかりお寺です。東側には鎌倉公方屋敷が広がり、その先は六浦に至る朝比奈切通があります。その浄妙寺の本堂横を抜けた奥のやぐらのなかに足利直義のお墓があります。足利直義は正平七年(1352)2月26日に甥にして養子である足利基氏の元服を見届けた翌日に亡くなりました。享年46歳でした。

さて中公新書の『観応の擾乱』(亀田俊和著)という新書が話題となり、早速読んでみました。観応という年号は北朝方が使った年号で南朝方の年号は正平です。戦前までは正平という年号しか使用できませんでしたので、「観応の擾乱」の語句も戦後になって使われはじめたようです。それに擾乱という語句も聞きなれないものです。乱ですむものを敢て擾乱にしている。漢和辞典を引くと「擾」は「手が跳ねて動くの意から、秩序が乱れる意となった」とあります。「わずらわしい」という意味もありますので、征夷大将軍・足利尊氏と、幕政を主導していた弟の直義との対立から起きた全国規模の内乱を擾乱にしたのは、この内乱をわずらわしいと感じたからかもしれません。何しろこの直義は戦前までは天皇の皇子を殺した悪役でした。

この直義の死の原因について足利尊氏による毒殺説が有力ですが、『観応の擾乱』の著者である亀田氏は病死(一説では肝臓癌?)であったとしています。鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の親政がはじまってから20年近く、尊氏・直義兄弟は戦乱の世を休む暇なく、ともに走り続けてきたのですが、決定的に仲たがいすることはなく、心の底ではお互いに信頼していたと思われます。私は前々から足利直義という人物に同情的であり、護良親王を酷い殺し方をしたとか、毒殺されたとかする歴史の記述には懐疑的です。

さて写真は梅の花が咲きはじめた浄妙寺境内の様子。室町幕府の基礎を造り上げた足利兄弟に想いを馳せ、お寺をあとにしました。

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伊勢原日向地区の散策

2019-02-05 19:37:46 | 日記

伊勢原日向地区の散策

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