人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --畠山重保ゆかりの望夫石(ぼうふせき)--

2022-07-30 10:55:48 | 日記

鎌倉市発行の『図説 鎌倉回顧』(昭和44年11月3日)に「明治20年代の望夫石」という写真がありました。その解説を読むと、どうも畠山重忠の子である重保に関係があるということで調べてみました。その望夫石のことは『鎌倉江ノ島名勝記』(明治23年発行)に掲載されており、その部分を紹介しましょう。

望夫石  観音山の上にあり、畠山六郎重保由井浜に於いて戦死せし時、其婦此山に登り望見悲嘆の餘、恋死すという所なり、按ずるに、望夫石というもの、異朝にも、本朝にも、往々あるもと知るべし、必ずしも、石に立って戦死の夫を恋望したるに因らざるか如し、程伊川の謂う、望夫石は只だ是れ江山を望みて形ち石人の如くなるものなり云々、今此の山にあるものも此の類なるべきか、望夫石の辺りより望臨せば、由比ガ浜の景を観るのみならず、全鎌倉の景勝眼下にあり、近頃山頂に二三の家店を新築して客の観遊に便にす、此の観音山は鎌倉停車場の北にあり、遠景絶佳にして、汽車中より望見せば、頭上に笑い迫るの思いあり、

この話、畠山重保の妻が悲嘆のあまり死んで石になったという話が伝っていますが、原典は中国で、あまりの絶景を見て石のように固まってしまうという意味かと思います。実際、程伊川(1033-1107)は中国北宋時代の儒学者で、兄とともに朱子学・陽明学の源流をなす学者です。

明治時代中頃までは、この観音山の山頂から由比ガ浜まで展望されたようで、ひょっとしたら一の鳥居の側にある高さ3.4mある畠山重保の墓と伝わる宝篋印塔が見えたかもしれません。なんともロマンのある話です。この部分は私の妄想ですが・・・。写真は今の観音山です。JR鎌倉駅西口から今小路を寿福寺方面に向かい紀ノ国屋先の駐車場から写しました。

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鎌倉を知る --畠山重保の墓--

2022-07-29 11:14:23 | 日記

若宮大路の一の鳥居の側に畠山重保邸の跡と書かれた石碑と高さ3.4mほどの宝篋印塔があります。畠山重保は畠山重忠の嫡男。なぜこの場所にあるのか?このような浜に近い所に畠山重保邸があったとは考えにくいのですが・・・?少し歴史書にあたってみました。『新編鎌倉志』◎畠山重石塔には次のように書かれています。

畠山重保石塔は、由比浜にある五輪を云う。明徳第四、癸酉霜月日、大願主道友と切付てあり、年号重保より遥後なり。按ずるに『東鑑』に、元久二年(1205)六月二二日、軍兵由比浜に競走で、謀反の輩畠山重保を誅すとあり。或いは後人重保が為に建てたるか。萬里居士『無尽蔵』に、寿福寺に入て、人丸塚を山頂より望、六郎が五輪を路傍に指すとあり。又この石塔の西方を畠山屋敷と云う。是も重保が旧宅ならん。或いは畠山重忠石塔と指示し、又重忠が屋敷なりと云伝。恐らくは非ならん。重忠が屋敷は筋替橋の西北にあり。重忠は、重保と同日に、武蔵国二俣川にて誅せられるとあり。父子なり。

『新編鎌倉志』では重保の五輪塔の西方に畠山屋敷があったことを否定し、屋敷は筋替橋の西北だと言っています。また『吾妻鏡』元久二年(1205)6月21日から6月23日の条には、畠山重保・重忠の父子が誅殺された顛末をかなり詳細に記述しています。だいたい『吾妻鏡』にある長い文章は、何が正しいのかしっかり見極めながら読まないといけませんが、石碑にあるような重保邸を囲んで襲うという状況でなく、由比浜に謀反人が出没した知らせを受けた畠山重保が駆けつけたところに、北条時政の命を受けた三浦義村らが襲いかかり、誅殺したかと思われます。いわばだまし討ちでしょか?重保を討った三浦義村にとっては積年の恨みを果す大義目分ができ、勇んで駆けつけたことでしょう。

さてここでよく分からないのが、大軍を率い畠山重忠を討った北条義時・時房の真意です。あとで謀反の意思のない重忠を討ったのは間違いであったといい訳していますが、それであれば戦わず帰還すればよい訳で、畠山一族を滅ぼす必要はなかったと思われますが、果たしてどうでしょうか?

 

 

 

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鎌倉を知る --畠山重忠屋敷の所在は?--

2022-07-28 08:51:02 | 日記

『新編鎌倉志』巻之一「筋替橋」(14P)にはこう記されています。

筋替橋は、雪下より、大倉山へ出る道の橋なり。鎌倉十橋と云うは、琵琶橋・筋替橋・歌橋・勝橋・裁許橋・針磨橋・夷堂橋・逆川橋・乱橋・十王堂橋なり。筋替橋西北を、畠山重忠屋敷跡と云う。『東鑑』に、正治元年五月七日、医師時長、昨日京都より参着す。今日掃部頭が亀谷の家より、畠山次郎重忠が、南御門の宅に移住す。是近々に候ぜしめ、姫君の御病脳を療治し奉らんが為なりとあり。

『吾妻鏡』では建久十年(1199)のままになっていますが、4月27日に正治元年に改元されていますので、『新編鎌倉志』の記述の方が正しいようです。この5月7日の様子を『吾妻鏡』にそって詳しくみていきましょう。

雨降る。医師時長(丹波)、昨日京都より参着す。左近(大友)将監能直これを相具す。伊勢路を廻りて参向すと云々。旅館以下の事は、兵庫頭(大江広元)ならびに八田右衛門尉友家等、沙汰を致すべきの由。御旨を含むものなり。今日時長、掃部頭(中原親能)が亀谷の家より、畠山次郎重忠が南御門の宅に移り住む。これ近々に候ぜしめ、姫君の御病脳を療治したてまつらんがためなり。この事度々辞し申すと云へとども、去月早く 関東に参向すべき旨、院宣を下さるるの間、かくのごとしと云々。

ここでいう姫君は頼朝の娘乙姫のことです。重病となり政子は治療のために当代随一の御殿医である丹波時長を下向させ、亀谷の中原親能の屋敷を宿舎としますが、大蔵御所から遠すぎるということで、南御門側の畠山重忠屋敷に移住させるという話です。政子ほかの懸命の介抱にもかかわらず、乙姫(享年14歳)は6月30日に亡くなりました。

鶴岡八幡宮の東の鳥居の側に畠山重忠屋敷跡の石碑がありますが、今回深谷市から来訪者をガイドするまでは深く調べることはありませんでした。郷土愛の強い皆さんはこの石碑の前で記念撮影をされていました。畠山重忠がこれほどまで大蔵御所や鶴岡八幡宮の近くに屋敷を構えていたことに感激されていたようです。源頼朝は最初はともかく勉年は畠山重忠を深く信頼していたと思われます。

 

 

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鎌倉を知る --畠山重忠 銅拍子をなす--

2022-07-26 09:05:08 | 日記

畠山重忠シリーズの第3弾。タイトルは「畠山重忠 銅拍子をなす」です。これでは何のことか分かりませんので、もう少し詳しく解説します。『吾妻鏡』文治2年(1186)4月8日の条は、「二品(源頼朝)並びに御台所(北条政子)、鶴岡宮に御参。次をもつて静女(静御前)を回廊に召し出さる。これ舞曲を施さしむべきによてなり。」ではじまります。皆さんご存じ「静の舞」の話です。私はガイドする時には「静御前鎌倉鶴ケ岡二法楽ノ図」(江戸時代 神奈川県立博物館蔵)で説明します。この応斎年方が画いた屏風絵は忠実に『吾妻鏡』のこの場面を再現しています。因みに「法楽」とは、『広辞苑』によりますと、法会の終りに、詩歌を踊しまたは楽などを奏して本尊に供養することとあります。

源義経の愛妾である静御前はこの申し出を病気である云い、はなはだ恥辱であると固辞します。ただ御台所政子は次のように思い、舞を切望します。

彼(静御前)はすでに天下の名仁(人)なり。たまたま参向して、帰路近きにあり。その舞を見ざるは無念の由、御台所しきりにもって申さしめたまふの間、これを召さる。ひとへに大菩薩の冥感に備ふべきの旨仰せらるると云々。・・・。しかれども貴命再三に及ぶの間、なまじひに白雪の袖を廻らし、黄竹の歌を発す。左衛門尉(工藤)祐経鼓つ。・・・。畠山次郎重忠銅拍子をなす。静まづ歌を吟じ出して云はく、 --よし野山みねのしら雪ふみ分けており都はいりにし人のあとぞこひしき--  次に別物の曲を歌ふの後、また和歌を吟じて云く、 --しつやしつしつのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな-- ・・・。

このあとのことは皆さんご存じの通りです。源頼朝はこれは関東の万歳を祝う歌ではないと奇怪なりと怒り、それを政子がなだめるという顛末です。

さて本題に戻りましょう。冒頭の屏風絵にも畠山重忠が銅拍子をなす凛々しい姿が描かれています。別の個所では、この重忠が今様を歌い、頼朝を唸らせるシーンが出てきます。この銅拍子にしても、今様にしても、誰でも出来るわけはなく、子供ころから芸事をしっかり学んでいたからと思います。ほかの坂東武者では真似できないことで、頼朝に重宝がられた理由かもしれません。

写真は現在の舞殿の様子。上宮が出来たのは建久2年(1191)の大火後ですから、静が舞ったのは当時の若宮の回廊だったと思います。

 

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鎌倉を知る --畠山重忠と三浦氏の戦い--

2022-07-24 15:12:39 | 日記

『吾妻鏡』治承4年(1180)8月24日の条に畠山重忠と三浦氏の戦いの様子が書かれています。一日前は源頼朝の旗揚げの石橋山の合戦の日。24日は頼朝が大庭景親ら平家方の大軍に散々に打ち負かされ、椙山に逃げ隠れていたころです。石橋山の合戦の顛末は『吾妻鏡』に詳細に記述されていますので、多くは書きませんが、畠山重忠と三浦氏の戦いの個所だけ抜き出して紹介します。

8月24日。三浦の輩、城を出でて、丸子河の辺に来り、去夜より暁天を相待ちて、参向せんと欲するのところ、合戦すでに敗北するの間、盧外に馳せかえる。その路次に由井の浦において、畠山次郎重忠と数刻挑み戦ひ、多々良三郎重春ならびに郎従石井五郎等、命を落す。また重忠が郎従五十余輩梟首せらるるの間、重忠退去す。義澄以下また三浦に帰る。  

8月26日。武蔵国の畠山次郎重忠、かつは平氏の重恩を報ぜんがため、かつは由井の浦の会稽を雪がんがために、三浦の輩を襲わんと欲す。よつて当国の党同を相具して来会すべきの由、河越太郎重頼に触れ遣わす。・・・。江戸太郎重長、同じくこれに與す。今日卯の刻、この事三浦に風聞するの間、一族ことごとくもつて衣笠城に引き籠り、おのおの陣を張る。・・・。辰の刻に及びて、河越太郎重頼・中山次郎重実・江戸太郎重長・金子・村山の輩巳下数千騎攻め来る。・・・義澄ら相戦ふといへども、・・・。城を捨てて逃れ去る。義明を相具せんと欲する。・・・。われひとり城郭に残留し、多軍の勢に模して、重頼にみせしめんと云々。翌27日。義明(89歳)。討ち取らる。

この由井の浦の戦いは、『源平盛衰記』では畠山重忠は稲瀬川辺り、三浦軍は小坪峠に陣を張り、一戦を交えた様子が書かれています。また人物叢書『畠山重忠』の貫 達人氏は、敗走する三浦勢を追って重忠は小坪を越え、逗子に出、鐙摺から葉山に入り、木古庭を通って行ったと書いています。

畠山重忠はのちに源頼朝の配下となり、活躍するのですが、以上の戦いの顛末を見る限り、三浦一族は義明を失った恨みを片ときも忘れなかったと推察されます。写真は由井の浦の現在の様子。偶然にも赤旗と白旗が立っています。写真の奥の中央付近が小坪の峠。その峠を越えて逗子、葉山に向い、衣笠城に攻めこんだと思われます。

 

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