人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

ちょっとブレイク ーー 帯状疱疹 ーー

2017-04-13 20:39:16 | 日記

実は帯状疱疹に罹り、先週末から頭から顔面に炎症を起こし、ひどい目にあいました。もう少し帯状疱疹の知識があれば、もっと早く治療が受けられたのですが、生憎、身近に罹患した人がいなかったので、最初の症状を見過ごしていました。疲労やストレスが蓄積すると誰でも発症する病気なので、参考になればとの思いから、ちょっとふれてみたいと思います。

帯状疱疹はどうしてなるのかと言うと、皮膚科でもらった冊子に分かりやすく書いてありました。

登場人物は、①水ぼうそうのウイルスと②ウイルスと戦う兵隊=免疫の二人です。私も含め60歳以上の人は子供の頃に水ぼうそうに罹っています。その時、ウイルスは免疫との戦いに敗れ、水ぼうそうは治るのですが、そのウイルスは全滅したわけでなく、神経節という場所に隠れ、また復活する時をじーっと待っているらしいです。まさに平清盛の温情に助けられた源頼朝と同じですよね。奢れる人も久しからず。人間60歳を過ぎると、いままで病気にもならず元気だった人もさすがに免疫力は低下してきます。そのチャンスを狙って「帯状疱疹の乱」が起きるようです。戦いの場が頭から顔面の場合は悲惨です。死ぬことはないにしても、目の角膜にウイルスが入れば失明することもあるとのことです。

現在は良い治療薬もあり、早く症状を自覚して治療を受ければ症状も軽く済むらしいのですが、私の場合は治療を受けるまでに5日ほどロスしました。発症?してからも体を休めずに外出していましたので、ウイルスに相当攻め込まれました。今思えば、はじめは頭部に炎症がでたようですが、髪の毛で隠れ見えず、初期症状を見逃したのが間違いの第一。次におでこに発疹がでたときにすぐに皮膚科に行けばよかったのですが、かぶれかと思い放置したのが間違いの第二。まだ帯状疱疹にかかったことのない人も、似たような症状がでたらすぐに病院に行くようにお奨めします。

センシティブ情報ですが、帯状疱疹は幼児は注意が必要ですが、人にうつることはないので、同じ目に合うことにないように敢えて公開しました。

 

 

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浄楽寺の運慶仏

2017-04-13 13:02:52 | 日記

先日横須賀市にある浄楽寺にいく機会がありました。JR逗子駅からバスで相模湾沿いの道を30分位乗ると着きます。訪ねるまでは運慶作の仏様がある程度の知識しかありませんでしたが、少し調べてみましたので披露させていただきます。

寺の縁起によりますと、この浄楽寺は浄土宗のお寺で12世紀の後半に和田義盛によって建てられたとあります。ご存じの通り、和田義盛は源頼朝の有力御家人として活躍し、侍所別当までなったた人です。1213年の和田合戦で討死しますが、一時は北条時政と肩を並べるほどの地位にありました。和田の姓を名のっていますが、もともとは三浦一族であり、源頼朝が最も頼りにした三浦義明の孫になります。

では何故この浄楽寺に運慶作の仏様があるのでしょうか?

運慶の真作であると判ったのは、毘沙門天と不動明王像の体内から「和田義盛と妻小野氏の発願により運慶とその10人の弟子によって1189年に作られた」という銘札が発見されたことによります。後の調査で本尊の阿弥陀三尊も運慶作だと判り、5体の運慶作の仏像が発見された訳です。日本中で運慶作の仏像は、真作が17体、推定されるものが13体の合計30体しかありません。そのうち伊豆の国市の願成就院に6体、金沢文庫の称名寺に1体。願成就院のは北条時政・政子の発願(1186年作)、称名寺のものは源実朝縁の仏様ですので、鎌倉縁の仏様が12体も現存していることになります。意外な数字でちょっと誇らしいですね。

この運慶仏が作られ、浄楽寺に安置された理由には諸説ありますが、私はこの芦名の地が相模湾に面し、西方に富士山が望めることから、阿弥陀三尊像を安置し礼拝するに最適な場所であること。もう一つは、和田義盛の妻・小野氏が源頼朝の妻・政子に対抗心から運慶を招聘して作らせたのではないかと考えています。なんでと思われるかもしれませんが、当時は女性にも相続権が認められており、実家である相模原の豪族・横山時重の後ろ盾もあったと考えられます。

いずれにしても鎌倉市内にあったと思われる運慶仏は焼失して全く残っていません。奇跡的に残ったこの運慶仏を後世に大切につたえていきたいものです。

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