現在、鎌倉国宝館では「鎌倉国宝館 1937-1945」という特別展が開催されています。後期は11月13日~12月2日まで。極楽寺の釈迦如来像や十大弟子像、国宝の太刀正恒など、普段は拝観できない展示品がありますので、是非ご覧になってください。
その展示物のなかで興味深く読みましたのが『関東御教書』という相模守北条時業(兼時)が寺田太郎入道に宛てた文書です。日付は弘安四年(1281)閏七月十一日。この日は九州地方を暴風雨がおそい、元船団主力部隊が殆ど沈没した日です。ご存じ弘安の役のクライマックスの日ですね。ではどんな文書か?写してきましたので紹介します。
異賊事、御用心厳密之問、所被差置相模七郎時業於播磨国也、賊船乱入山陽海路之由、有其聞者、随時業之命、可否致防戦忠之状、依仰執達如件 弘安四年閏七月十一日 相模守北条時業 寺田太郎入道殿
掻い摘んで言いますと、「日本を襲ってきた異国の賊船が山陽路(瀬戸内海)に侵入してくる惧れがあるので、くれぐれも防御怠らないようにお願いする」といった内容でしょうか。これを見る限り、鎌倉幕府は元の賊船が瀬戸内海を通り、京都まで攻め込んでくること想定していたと思われます。
ある郷土史家の方が、得宗北条時宗は、元が京都に攻めのぼった場合には、鎌倉の円覚寺に天皇を迎い入れ、最後の砦とする覚悟であったと、話していました。そのため円覚寺は海に近く平地にある御所や建長寺ではなく、新たな城砦とするために整備したという説です。惟康将軍は後嵯峨天皇の孫にあたりますので、最悪の事態を想定すれば、この考えは荒唐無稽のことでもないような気がしてきました。
さて写真は昨年の11月初めに円覚寺の塔頭 龍隠庵から境内を写したものです。木々も少し色付きはじめ、なんとも長閑な風景が広がっています。古の出来事に思いをはせ、是非、晩秋の一日を過ごしてみてはいかがでしょうか。