人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --鎌倉と芥川龍之介--

2022-05-25 19:51:40 | 日記

前作に続き元八幡(由比郷鶴岡)に関する話題です。ご存じの通り、この元八幡の祭神は鶴岡八幡宮と同じです。そして若宮大路はこの元八幡の神様を今の場所(小林郷北山)に遷座した時に、神様が通れる道を整備したとも言われています。前作で紹介したように、今の下馬辺りは低地で雨が降れば泥沼になったようです。

さて前置きはともかく、今回のテーマは「鎌倉と芥川龍之介」です。実は芥川龍之介は横須賀にある海軍機関学校の英語教師として大正5年(1916)12月に赴任して鎌倉に下宿し、東京ー鎌倉ー横須賀を往復する生活を送っていました。そして大正7年(1918)2月2日に塚本文と結婚しました。芥川25歳、文さんは17歳。その新婚生活を送った場所がこの元八幡の隣、小山別邸内の家屋でした。その場所は今はアパートになっていて壁にある案内にそのことが書かれています。ここまでは今まで調べたことで分かっていましたが、最近訪れた鎌倉文学館で買い求めた『特別展 来鎌105年 芥川龍之介と鎌倉』には、さらに芥川龍之介にまつわるエピソードが載っていて、楽しく読ませていただきました。

まず塚本文との出会いです。芥川は明治40年(1907)、15歳のころ、同級生の姪で当時7歳の塚本文を知りました。その後、大正4年(1915)夏から文を意識するようになり、就職が決まって結婚したようです。大正6年(1917)に文あての封書(現存せず)がありますが、その文面を見ますと、『羅生門』や『鼻』などを書いた作家とは思えず、読むほうが赤面してしまう内容になっています。一度原文を読んでみてください。芥川龍之介はこんな人柄だったのかと、また小説を読み直してみたくなりました。

芥川龍之介は昭和2年(1927)7月24日、35歳の時に自殺しました。先ほど紹介した鎌倉文学館の図録にこんな文章がありました。死の前年、妻に言った言葉です。

「鎌倉を引きあげたのは一生の誤りであった」 芥川文/中野妙子『追想 芥川龍之介(昭和50年、筑摩書房)』より

この言葉の意味するところの解説はありません。芥川の晩年は神経衰弱に悩まされていたようです。芥川は最初から小説家になる心算はなく、専業でいくか、兼業とするか迷っていました。鎌倉にいた期間は短いはずなのに、こんな言葉を残すとは・・・。妻である文への想いや詫びか?小説家の道を選んだことを悔いたのか?鎌倉での生活が余程幸福だったのか?今となっては分かりませんが、実に深い言葉です。

 

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鎌倉を知る --失われたラグーン--

2022-05-14 15:17:59 | 日記

『史伝 北条義時』(山本みなみ著 小学館)を読んでいましたら、由比若宮の隣のページに古代鎌倉のラグーン地図が掲載され、滑川の東側、今の材木座の辺りは明治のはじめまではラグーン(浅い海)だったと書かれていました。そのラグーン図だけでは現在の地図に重ねて場所が特定できませんので、「ラグーンがあった場所からは建物の跡は発見されていない(大澤泉氏のご教示による)」という文章を手掛かりに、山本みなみ氏の勤務先である鎌倉歴史文化交流館を訪ねてみました。

もう一つの興味は、このラグーンのヘリを古東海道が通っていたのではないかという推定です。古東海道は源頼朝が鎌倉入りする前から京都から下って蝦夷地に行く道です。鎌倉市内では稲村ケ崎から笹目辺りを通り、今の由比若宮、辻の薬師堂、そして鎌倉市立第一中学校から逗子に向かうルートではないかと以前資料で読んだ記憶があります。

鎌倉歴史文化交流館には学芸員の方がいますので、図々しくも受付で質問してみました。ご対応いただいた方から鎌倉市教育委員会文化財課の紀要がホームページにあるので参考にしてみてはとのアドバイスをいただき、「古代鎌倉郡家の”津”をめぐる一考察」(文化財課主任研究員 押木弘己)という論文に辿りついたわけです。確かに現在の地図にプロットしてみますと、鎌倉市街地の南側に大きな池が広がっています。

鎌倉アルプスの十王岩から眺めたら、京都の巨椋池のある景色に重なったかもしれません。巨椋池というのは、京都の今の伏見あたりから南側に広がっていた大池のことですが、その眺望は見事だったようです。さらに妄想が広がりますが、源頼義は京都の石清水八幡宮を勧請し由比若宮を創建しました。石清水八幡宮は巨椋池西側の男山(八幡市)にあります。源頼義が蝦夷地に向かうとき、古東海道が通っていたこのラグーンのヘリを何度も行き来したはずで、鶴が飛来するこの鶴岡の地に由比若宮を創建したのではないでしょうか。これまで写真の由比若宮が材木座にあるのか疑問でしたが、このラグーンの存在と重ねると納得できる気がしました。

 

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ドライブ・マイカー --『ワーニャ伯父さん』--

2022-05-04 15:24:52 | 日記

疑問に思ったことはとことん調べて見ないと気が進まない性分のため、とうとう映画「ドライブ・マイカー」の作中劇の原作であるチェーホフの『ワーニャ伯父さん』に辿り着きました。この戯曲は新潮文庫『かもめ・ワーニャ伯父さん』(令和4年3月25日六十刷)に収録されています。定価は430円。ここしばらく新品の文庫本を買ったことがなかったので、その価格に驚きました。ワンコイン内で240ページのロシア文学の世界に浸れるのですから、これは是非とも皆さんにも勧めたいですね。以前印刷製本会社に勤めていましたので、1冊の製作費を考えると相当に良心的な価格設定です。

前置きはさておいて、とにかく読んでみました。ロシア文学は登場人物の名前が長く覚えにくい上に、何より長編のため、読破するには相当覚悟がいりますのでずっと遠ざかっていました。このチェーホフの『ワーニャ伯父さん』は登場人物も9名程度、4幕120ページ程度の戯曲です。内容は実際に読んでみていただいた方がよいので書きませんが、背表紙の内容紹介には、「失意と絶望に陥りながら、自殺もならず、悲劇は死ぬことにではなく、生きることにあるという作者独自のテーマを示す『ワーニャ伯父さん』」と書かれていました。第4幕の最後に、善良なソーニャがワーニャ伯父さんを慰めるせりふが、この戯曲の最も感動的な部分で、モスクワ芸術座で上演され、大成功を収めたとありました。

映画「ドライブ・マイカー」の全編を通してのテーマは、登場人物が抱える「絶望から忍耐へ」というチェーホフと共通のものです。それをどう映像化するかが監督の技量でしょうが、『ワーニャ伯父さん』という作中劇をバックグラウンド・ミュージックのよう映像で流し、西島秀俊が演じる家福とその家福が作中劇で演じるワーニャ伯父さんが最後にシンクロするという展開は見ごたえがありました。さらに作中劇のソーニャ役は、韓国人の聴覚障がい者が演じており、この劇でもっとも感動的な部分が手話によって語られるという手法は見事としか言いようがありませんでした。

さてかくいう私は、この「ドライブ・マイカー」がアカデミー賞の国際長編映画賞を受賞してから映画を鑑賞し、その後に村上春樹さんの『女のいない男たち』を読み、さらにチェーホフの『ワーニャ伯父さん』を読んで、はじめてこの映画のテーマに辿りついたわけです。この映画を評価した外国人は村上春樹、チェーホフを当然のように知っており、さらに濱口竜介監督の力量を評価したのですから、なにも知らなかった自分が日本人としてちょっと恥ずかしくなりました。

 

 

 

 

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広町緑地の花 --藤の花--

2022-05-02 15:48:02 | 日記

4月30日、新緑を求めて広町緑地に出かけました。つい先だってまでは山桜が満開だった森は新芽が萌えてキラキラと輝いていました。桜も好きですが、私はこの新緑の時期が木々の生命力を感じ、季節のなかで一番好きです。我が身が枯れてきたせいかもしれませんが、何かエネルギーをもらった気がします。そんな中、木々の間に藤の花を見つけました。

『枕草子』三七に「藤の花は、しなひながく、色こく咲きたる、いとめでたし。」とあります。撓ひの意味は、しなやかに曲がっていることを言うようです。そして花の色は濃い方がよい。まさに写真の藤の姿でしょうか。『徒然草』第百三十九段には「草は、山吹・藤・杜若・撫子」がよいとあり、兼好法師も愛でた花の一つでした。さて歌では、『万葉集』巻第十四(三五〇四)に「春べ咲く藤のうら葉のうら安にさ寝(ぬ)る夜ぞなき子ろをし思(も)へば」、これは『花ことば辞典』の解説によれば、春に咲く藤のこずえの葉のように揺れて安らかに眠れる夜なんてない、あの娘のことを思うと、という意味の歌です。

そして『山家集』には、藤の花に寄せてその思いを詠んだ歌として「西を待つ心に藤をかけてこそそのむらさきの雲をおもはめ」という歌があります。紫いろの藤の花を紫雲にかけて、いつしか紫雲にのって西方浄土に行けることを望む気持ち・心を詠んだ歌でしょうか?解説がないので私なりの解釈ですが、そうだとすれば西行らしい歌だと思います。

また前述の『花ことば辞典』には、芭蕉の俳句「草臥(くたびれ)れて宿かる比(ころ)や藤の花」が紹介されていました。この句も意味深ですね。草に臥すで「くたびれて」と読ませていますが、「草に臥す」とは旅先で倒れること。「宿かる」も旅籠に泊るというより別の世界に旅立つとも読めます。そして最後は藤の花でしめています。この結句の藤の花の意味も分かりません。私なりの解釈では、『山家集』の西行の歌を受けて芭蕉が読んだ俳句ではないか?と妄想してしまいました。芭蕉は西行に憧れて諸国行脚、遊行の旅に出かけたと、ある本で読んだことがあります。西行も芭蕉も、藤の花の紫色から極楽浄土へ旅立つ乗り物である紫雲を連想したかもしれません。ここまでくると私の妄想癖のも病的ですね。読み流してください・・・。

 

 

 

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