人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

国府津・曾我丘陵ウオーキングコース⑧《忍石》

2023-01-31 15:26:33 | 日記

真名本『曽我物語』巻六(十郎、虎と名残を惜しむ)場面とあとの(五郎、勘当の許しを願う)の場面等は、仇討以上に感動的で、情感あふれるタッチで描写され、この曽我物語のクライマックスシーンと言っても過言ではないでしょう。少しその箇所を紹介します。

★ころは建久四年癸丑五月下旬の事なれば、五月雨の天の物憂き今朝の空しも、五月雨茂く雨蓮(ふりつづ)いて心の暗晴れやらず。裾は露、袖は涙にしおれつつ、「由なかりける契かな。結びもはてぬ物故に、ただかりそめの契して、永き歎きとなるぞ憂き。冥途へゆく中有の旅もかくやらむ」と覚えつつ、馬に任せて行く程に、曽我と中村との境なる山彦山の手向(六本松峠)に付きにける。ここに引へて十郎語りけるは、「今少し送り奉るべけれども、今朝は疾く立たんと云いしに、五郎も定めて今は来ぬらむ。また互ひの名残の悲しさは、我も人も同じ事なるべし」とて、暇(いとま)乞ひて返りけり。・・・。されども尽きぬ悲しみは、心強くも打ちよけて、十郎引き返しければ、余りに悲しく覚えて、虎は手を挙げてぞ招きける。・・・。★

訪ねた「忍石」はまさにこの十郎・虎の別れの場所に置かれた石だと案内板にありました。確かに六本松峠から中村の里にむかって300m程先なので、曽我物語の記述にある「今少し送り奉るべけれども」に合致しています。ただ石の名前がなぜ「忍石」なのかはよく分かっておらず、万葉集にでてくる松浦佐用姫(新羅へ出征してゆく夫と別れる悲ししさのあまり石になったという物語)の話から取ったのではないかとか推測しています。たぶんこの六本松峠を越える旅人の興味をそそるために曽我の里のひとが置いたものでしょう。

私は道を間違えて忍石を過ぎ中井町の方に誘われるように歩いてしましましたが、そこには悠然と構える大山の姿がありました。この道は大山道ともいうらしく、曽我十郎・大磯の虎御前は人目を避けるために国府津からの道を通らず、大磯、中村(中井町)から曽我の里を行き来したようです。

昨年のNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で曽我物語に興味を持ち、坂井孝一先生の本とか、『城前寺本 曽我兄弟物語』を読み漁ってきました。今回の旅も曽我祐信の宝篋印塔を訪ねることが目的でしたが、それだけなら下曽我の城前寺から登ってくれば済む話で、わざわざこの丘陵ハイキングコースを歩く必要はなかったかもしれません。しかし歩いてみてはじめて六本松峠とか忍石のことを知ることができた訳で、なにか不思議な感じがしました。まさに本日3回目のラッキーですね。

 

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国府津・曽我丘陵ウオーキングコース⑦《相模湾を望む》

2023-01-31 13:44:27 | 日記

光明寺門前から40分くらい歩いたところに展望台のあるみかん小屋があります。幸運に親切なご主人に誘われて展望台に上らせていただきました。そこの休憩所から相模湾を望んだ景色です。二宮の吾妻山の横にかすかに江の島が見え、その奥には三浦半島が横たわっています。さらに右の方に目をやれば房総半島まで見ることができます。石橋山で敗れた源頼朝がこの広い海を小船で渡り、上総の国にたどり着いたとはとても思えず、ほとんど奇跡ですね。何か安全な手段をとったのではないかと、妄想は膨らむばかりでした。

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国府津・曽我丘陵ウオーキングコース⑥《富士山をみる Ⅳ》

2023-01-31 10:29:21 | 日記

六本松跡から伝曽我祐信墓に下りていく途中で写した富士山の姿。12時頃に着きました。残念ながら、富士山の山頂付近には雲が湧き、全貌をみることは叶いませんでした。そして富士山と箱根外輪山の稜線がかかる付近が足柄峠です。

この場所で今朝、国府津駅前の東華軒で買い求めた弁当をいただきました。一度は食べてみることをお薦めします。

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国府津・曾我丘陵ウオーキングコース⑤《六本松跡》

2023-01-31 08:49:22 | 日記

展望台のあるみかん集荷小屋を出発したのは10時30分頃。おまけにいただいたみかんで喉を潤すことができ助かりました。ここから六本松跡までは途中急な登り(高山:標高246.1m付近)はありましたが、ほぼ1時間くらい11時半頃に着きました。光明寺門前のスタート地点ではコースタイム76分とありましたが、途中写真を撮ったり、みかん小屋に寄ったりしましたので20分以上余計にかかりました。このブログをみてチャレンジする方は参考にしてください。さて六本松跡ですが、案内板を書き写しましたのでご覧ください。

★古代千代台地は師長国の府中で、この地方の文化の中心地であったので、西からの旅人は皆ここによって、この道を、目指す坂東や奥羽へと向かったと推定(弓削道境等)される。 その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、上洛や富士の巻狩などにこの道を通り、いまも鎌倉山、将軍山また豪族中村氏がお出迎えした所を「大迎え」などの地名が残っている。 また、この地の豪族が鎌倉に馳せ参じた鎌倉街道でもあり、坂東三十三番観音の五番勝福寺から六番長谷寺に詣る巡礼道でもある。 戦国乱世のころ、京の聖護院准后道與は「答えする 人こそなけれ 足曳の 山彦山は嵐吹くなり」を詠み、降って元禄のころ、松尾芭蕉は「ほととぎす 鳴き鳴き飛ぶぞ いそがわし」。門人の白雄は「人の知る 曽我中村や 青嵐」 その後 蕪村も「雨ほろほろ 曽我中村の田植かな」と詠んだ。 この六本松の地名となった最後の松の大樹は、明治の終わり頃惜しくも長い一生を終わっている。★

どうもこの案内板を読んだだけではよく分かりませんので、小田原市発行の散策マップから補足します。「六本松跡は、曽我山(当時は山彦山)の峠道で、六本の古松がありました。鎌倉時代には、曽我氏、中村氏、松田氏、川村氏の各豪族の居館と鎌倉を結んでおり、足柄道、鎌倉道、大山道、箱根道が交わる重要な峠で現在は芭蕉の句碑などと六本木碑があります」。と書いてありました。

現在東海道は海岸近くを通り箱根に向かっており、知りませんでしたが、鎌倉時代には京から下る道は足柄峠から曽我の里を通り、この峠を越えて中井の方に下っていったのでしょうか?六本松から300m位先に曽我物語ゆかりの忍石がありました。私は忍石を過ぎそのまま中井の方に下ってしまい、途中でまた六本松跡まで戻ったのですが、今思えばこれが当時の鎌倉道だったと思います。

伝曽我祐信墓から城前寺には、六本松跡からトンネルを潜って下りて行きます。

 

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国府津・曽我丘陵ウオーキングコース④《富士山を見る Ⅲ》

2023-01-30 20:28:32 | 日記

10時から11時くらいまでは富士山頂に雲がかかっていません。やはり午前中が勝負ですね。

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