人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 浄光明寺 ーー

2016-08-24 09:53:54 | 日記

2015年5月にNHKで放映された「ブラタモリ」を見てこの寺を知った方も多いと思いますが、鎌倉駅西口から寿福寺、英勝寺を通り、もう一度横須賀線の線路をくぐって泉谷に向かうと左側に浄光明寺があります。古くは文覚が源頼朝の願いで建てたといわれ、13世紀中ごろに北条時頼や北条長時が、真阿を開山とし、創建したともいわれています。鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇の子、成良親王の祈願所だったり、一時、足利尊氏が朝廷に対する態度を決めきれず閉じこもったりもしました。室町時代は鎌倉公方の保護もあり栄えたようです。

「ブラタモリ」でも紹介されていましたが、平成になってから発見された『浄光明寺敷地絵図(現存する鎌倉を描いた最古の絵図。国重文)』から中世鎌倉の街づくりの様子が分かります。それは鎌倉の山は鎌倉石といわれる「凝灰質砂岩」でできており、その削りやすく掘りやすい性質を利用して、谷(やつ)深く山を削って階段状の造成地を開発したとあります。『とはず語り』に出てくる「きざはしなどのやうに、重々に、ふくろの中に物を入れたるやうにすまひたる」の一節を思い出しました。

さてこの浄光明寺には本堂に阿弥陀・釈迦・弥勒の三世仏、収蔵庫に本尊の阿弥陀三尊像(国重文)と地蔵菩薩像が安置されています。収蔵庫の阿弥陀如来坐像は鎌倉に7体しかない「土紋」模様のある仏像として知られ、地蔵菩薩像は「矢拾い地蔵」といわれるもので、足利尊氏の弟である足利直義の守り本尊と伝えられています。また裏山には、「冷泉為相の墓」である宝篋印塔があります。ご存じ、冷泉為相は藤原定家の孫、冷泉家の祖となる人物です。母親である阿仏尼は『十六夜日記』の作者。観光経路からはちょっと外れたお寺ですが、一度訪ねてみてはいかがでしょうか。

そしてもう一つ。足利直義について。『太平記』では足利直義は「中先代の乱」が起きた時に後醍醐天皇の子である護良親王を殺害して鎌倉を逃げており、逆賊としてあまりよく書かれてはいません。ただ夢窓国師の著書に『夢中問答』というのがありますが、この本は足利直義の問に夢窓国師が答えた法話を記録したものです。この本を読む限り、禅の力をかりて国を治めようとする足利直義の誠実な姿が見られ、とても土牢に閉じ込め酷い殺し方をするような悪党には思えませんが、さて真実はいかに・・・。

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鎌倉を知る ーー 覚園寺 黒地蔵盆 ーー

2016-08-11 08:58:42 | 日記

8月10日(水)。二階堂 覚園寺の黒地蔵盆に行ってきました。黒地蔵盆は午前零時から午後12時まで行われる行事で、先祖の回向と無尽御利益を得るために多くの人が覚園寺を訪れます。特に新盆を迎える家族の方にはご利益があると言われます。仏教の世界では死んだ人は地獄で審判を受けますが、生きている人が回向することで、地獄の苦しみを和らげられると信じられてきました。覚園寺の黒地蔵は地獄の業火のなかで、煤だらけになりながらも救いの手を差しのべる有難い地蔵菩薩です。現世の人が亡くなった人の苦しみを和らげるために祈るこの日本らしい行事をいつまでも続けたいものです。最近、悲惨な事件がニュースで報じられますが、子供のころから地獄の世界観(罪への懼れ)を潜在意識のなかに刷り込んでおくことのほうが、学校で教える道徳の授業よりよほど効果があると思いますが、いかがでしょうか。

さて覚園寺ですが、1218年に北条義時がこの地に大倉薬師堂を建立。その後 9代執権 北条貞時が1296年に二度と元寇が起こらぬことを祈り、心慧を開山にして覚園寺を建立しました。境内の薬師堂には薬師三尊像、十二神将像、理智光寺からの客仏 阿弥陀如来像、足利尊氏が納めた天井の棟札。地蔵堂の黒地蔵、愛染堂にある大楽寺の客仏 愛染明王、院興のつくった阿閦如来像、願行上人の「試み不動」といわれる鉄の不動明王など、それらの仏像を納めた人の願いを思うと思わず手を合わせ頭を垂れます。

普段はお寺の方の案内で決まった時間しか拝観できませんが、黒地蔵盆の時は自由に仏像を拝めます。興味ある方は来年のこの日訪ねてみてください。無尽蔵の御利益をいただけるかもしれません。

 

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鎌倉を知る ーー 鶴岡八幡宮 ぼんぼり祭り ーー

2016-08-08 13:32:09 | 日記

8月7日(日曜日)。鶴岡八幡宮の『ぼんぼり祭り』に行ってきました。昨日は夏越祭、今日は立秋祭、明日の実朝祭までの間、ぼんぼりが飾られます。鎌倉ゆかりの文化人や市民の方が思い思いに書や絵を描いて奉納するのですが、丹精を込めた手書きのものですので、何か味がありほのぼのとした感じが好いですね。 やっと梅雨が明けたかと思えば、もう立秋。鎌倉山では蜩の鳴き声も聞こえ、ぼんぼりのなかの揺らめく灯りを見ますと、もう1年が経ったのかとちょっと感傷的な気分になるから不思議なものです。

さてこの鶴岡八幡宮は江戸時代までは「鶴岡八幡宮寺」と言われていました。明治時代になり1868年に、従来の神仏習合・神仏混淆を禁止し、神道国教化政策を打ちだすため、神仏分離令が出されました。いわゆる廃仏毀釈です。特に鶴岡八幡宮は源頼朝の創建当時から神様と仏様が仲良く暮らす場所でした。今は若宮前のビャクシンの木だけが寺院の面影を残していますが、江戸時代までは三の鳥居をくぐり、源氏池を渡れば仁王門があり、今の舞殿を囲むように護摩堂、経蔵、薬師堂、鐘楼、大塔などがありました。これらの建物はことごとく破壊された訳で、なかに収蔵されていた経典や仏像などの文化財も散逸してしまいました。

当時の日本政府のこの貴重な文化財に対する無理解さについて、鎌倉大仏を例に出し、エルウイン・ベルツは『ベルツの日記』のなかでこう伝えています。 「青銅製の仏陀の坐像。麗しくも崇い面。しかし、日本政府はこの最も優秀なる青銅像を潰しの値段で外国人に売却せんと目論見たのであった。斯くまでに、信心と国粋に対する理解が亡失していたのであった。幸いにして、何も売却されることはなかった。」 今でこそ世界遺産登録に必死になっていますが、日本人の先人の残した文化財に対する無理解さを、当時日本に来た外国人はしっかりと見抜いていたわけです。今でも宅地開発やマンション建設のために貴重な文化財が破壊されています。何か残念な気がしてなりません。

 

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鎌倉を知る ーー 針磨橋 ーー

2016-08-04 13:15:11 | 日記

鎌倉十橋を勉強していると出てくるのがこの「針磨(はりすり)橋」です。江ノ電の極楽寺の駅から稲村ケ崎への道沿い極楽寺川に架かる橋ですが、現在は流れる川は暗渠になっており注意しないと見過ごします。橋の名前「針磨」の由来も、むかし針金を磨いて針をつくる老婆が住んでいたとか言われてもピンときませんでした。

ところが最近、七里ヶ浜の海岸で砂鉄が取れることが紹介された記事を読み、一気に理解が深まりました。また徳川光圀が編纂を命じた『新編鎌倉志』のなか、「七里濱」の項には次のように書かれています。「この浜に鉄砂あり。黒きこと漆の如し。極細にしていささかも餘の砂を交えず。日に映ずれば輝いて銀の如し。包丁小刀等をみがくに佳なり」 。この編纂にあたった家臣は実際に「鉄砂」を手に取ってみたのでしょう。この箇所の記述は文章がいきいきとしています。

また近くの鎌倉高校では七里ヶ浜の砂鉄から玉鋼(たまはがね)を作る実験をしたとのことです。良質な玉鋼が出来れば日本刀の製造も可能です。推測するに、稲村ケ崎から極楽寺にかけてこの砂鉄を使用して針金を磨いたり、加工して鉄製品を作る職人集団がいたと思われます。そうであれば「針磨橋」の名の由来も腑に落ちます。

『新編鎌倉志』にはもう一つ興味深い記述があります。「金洗澤は七里濱の内。行合川の西の方なり。此の所にて昔金を掘りたる故に名づく」。 実際に金が採掘されたとは考えられませんが、何かロマンを感じて楽しいですよね。

 

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