人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 稲村ケ崎のイソヒヨドリ ーー

2018-01-28 20:10:50 | 日記

1月18日に稲村ケ崎公園でイソヒヨドリを見ました。イソヒヨドリはスズメ目ツグミ科の鳥で鎌倉の海岸でもよく観られます。といっても私ははじめて見ましたが、きれいな鳴き声なので気が付きました。

写真の真ん中あたりにいますが、見えますか?

稲村ケ崎公園に行ったら探してみてください。

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鎌倉を知る ーー 雪の寿福寺 ーー

2018-01-28 19:46:36 | 日記

1月23日朝。雪の寿福寺の風景です。ご存じ寿福寺は1200年、源頼朝の一周忌に北条政子・源頼家が創建したお寺です。開山は栄西。特別な時しか境内に入れないのですが、正月早々の1月5日に本堂を参拝できました。

本堂には、丈六の籠釈迦と呼ばれる釈迦如来像とその脇に控える仁王像二体。この仁王像は鶴岡八幡宮にあったもの。壊されることなく、寿福寺に安置されています。彩色が美しく、よくぞご無事でいらっしゃったと、ちょっと感激しました。明治の初めに鶴岡八幡宮寺の諸堂が破壊されなければ、どれほど素晴らしい文化遺産が見れたことか。今さらながら、恨めしく思います。因みに寿福寺の総門も鶴岡八幡宮の回廊にあったものだそうです。

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雪中の正月ぼたん(鶴岡八幡宮ぼたん苑)

2018-01-24 17:46:55 | 日記

雪中の正月ぼたん(鶴岡八幡宮ぼたん苑)

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鎌倉を知る ーー 鶴岡八幡宮の雪景色 ーー

2018-01-24 16:29:24 | 日記

1月22日(月)は午後から雪。今回は4年振りの大雪警報の発令でしたが、10㎝から20㎝の積雪で鎌倉や首都圏の交通はマヒ状態。大混乱の様子が終日テレビに映し出されていました。翌日には道路の雪もすっかり解けてしまい、昨日の雪はなんだったのか、束の間の夢を見ているようでした。

写真は23日(火)の朝に鶴岡八幡宮の太鼓橋から社殿を写したもの。太鼓橋に積もった雪の白色と舞殿、本殿の朱色のコントラストが気に入りました。なんとも平和な光景です。

さて時代は遡りますが、14世紀の中ごろに初代の鎌倉公方足利基氏が詠んだ歌があります。

  つるか岡こたかき松をふく風の雲井にひびく万代の声

足利基氏は足利尊氏の子供で兄の足利義詮に代って鎌倉に下向し、鎌倉公方になりますが、入間川陣に滞在し戦争状態のまま約9年間も過ごします。記録にはたまに戻った鎌倉では師と仰ぐ義堂周信と交わった様子が残されています。そんな基氏が束の間の平和を愛しむ気持ち詠んだ歌ではないかと思われます。因みに関東大震災以前には、鶴岡八幡宮の背後の山には松林があったようです。

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鎌倉を知る ーー 兼好法師と鎌倉 ーー

2018-01-22 12:49:11 | 日記

最近、小川剛生著『兼好法師』(中公新書)を読みました。カバーの扉に、「兼好は鎌倉時代後期に京都・吉田神社の神職である卜部家に生まれた。六位蔵人・左兵衛佐となり朝廷に仕えた後、出家して『徒然草』を著す。この、現在広く知られる彼の出自や経歴は、兼好没後に捏造されたものである。」とあります。最近の歴史本にも、子供の頃に記憶した「吉田兼好」という名前は間違いだとされており、兼好法師がよく理解できないままこの齢まで生きてきたような次第です。

しかし『徒然草』は好きで、特に第八十九段の「奥山に、猫またといふものありて、人を食らふなる・・・(猫また)」という段は妙に頭から離れず記憶していました。また第四十五段の「御室のちご」は仁和寺の近く住んでいたことから身近に感じ、最近は、第三十四段の「甲香は、ほら貝のやうなるが、・・・」という段で称名寺のある金沢八景とも縁があったことを知りました。鎌倉との関係も、第百十九段の「鎌倉の海に、かつをといふ魚は、・・・」とか第百八十四段の「相模守時頼の母は、松下禅尼と申しける。・・・」など、鎌倉やそこに登場する人物に具体性があることから、ひょっとしたら鎌倉辺りにも住んでいたのかと思ったりもしました。

この『兼好法師』は、そういった疑問を一気に解き明かしてくれます。兼好法師の姿がかなり鮮明に描かれており、金沢流北条家の貞顕との関係やその貞顕が仁和寺とも深い関係にあったこと。鎌倉幕府滅亡後も歌人として名をはせ、歌道の師二条為世(勅撰和歌集選者)のもとで四天王とされ、足利将軍家の執事だった高師直ともつながっていたことなどが書かれています。

読後の感想などとは大げさですが、鎌倉幕府滅亡後に登場する足利直義や高師直などの人物は後世には悪役というイメージで伝わっていますが、どうも礼節を重んじる教養人だったようです。それでなければ、辛口評論家である兼好法師は親しく交わらなかったでしょう。大衆受けするために歌舞伎などの世界で歴史を面白く演出したのでしょうか。現代にも通じる教訓かもしれません。

写真は称名寺です。

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