人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --源実朝と荏柄天神社--

2023-09-04 16:57:41 | 日記

まだ続く酷暑のなか、実朝ゆかりの場所を訪ねるというガイドで荏柄天神社に行きました。小中学生を案内するときは、菅原道真を祀る学問の神様で、日本三大天神社の一つとして紹介しています。今回は源実朝と荏柄天神社の関係となりますが、単純に和歌が上手になりますようにと、お詣りする訳ではありません。鎌倉時代に生きた渋川刑部兼守という御家人の物語。この渋川兼守は上野国の人で今は群馬県渋川市。発端は泉親平の乱に連座した疑いで、捕まったことから始まります。

時代は建暦二年(1212)の暮、千葉成胤が一人の法師を捕え、北条義時のもとに連れてきました。何の嫌疑かと言いますと、反逆の輩の使いの疑いです。この法師は信濃国住人で安念坊いいますが、この安念坊を尋問しますと、同じ信濃国の泉親平が、故頼家の子である栄実を 担ぎ上げ、義時を除こうと企んでいたことが判明しました。この企てに連座した張本は130余人にも及び、鎌倉を揺るがす大騒動となりました。この事件がきっかけとなり、ご存じの和田合戦が建暦三年(1213)5月に起こり、あれだけ権勢を振るった和田義盛をはじめとする和田一族が滅亡してしまいます。

当然にこれだけの騒動を起こしたわけですから、渋川兼守に対しては討伐命令が下されました。さてそれを聞いた兼守は、無念の思いに耐え切れず、荏柄社に和歌十種を奉納しました。それをたまたま参籠していた工藤祐高が目にとめ、実朝のもとに持参。実朝はその出来のすばらしさに心をうたれ、兼守を赦免するという話です。この話は『吾妻鏡』にのっていますので、後世に美談として伝わりました。これを美談として捉えるかは意見の分かれるところですが、『吾妻鏡』は和歌に没頭する実朝を批判的に捉えているようです。後日談ですが、兼守はこのことに感謝し、荏柄社の近くに橋を架けたということです。この 橋は「歌の橋」といい、鎌倉十橋の一つになっています。ただこの美談は『新編鎌倉志』にのっていませんので、江戸時代に作られた創作かもしれません。

さてここで終わっては面白くありません。筆者は荏柄社(のちの荏柄天神社)は、鎌倉時代には、無実の罪を晴らすための役割を担っていたのではないかと考えています。荏柄天神社の縁起をみますと、渋川兼守のことだけでなく、数件、荏柄社に参籠して赦免されたとか、裁判で正当性を主張して勝訴したとかいう話がでてきます。荏柄社は、長治元年(1104)に菅原道真像が天から降ってきたことで創建されました。冤罪で大宰府に飛ばされ、無念のうちに亡くなった道真を祀った神社であれば、当時、冤罪を晴らすための役割を担っていたとしても不思議ではありません。「武士に二言はない」といいますが、武家社会では嘘がバレれば、「ごめんなさい」では済まされず、切腹です。それくらいの覚悟を持って荏柄社に無罪を祈願したのではないでしょうか。実際にもう一人の上野国の御家人である薗田七郎成朝は、無罪で赦免されました。どうも上野国を狙った某執権の陰謀であった可能性も否定できません。

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