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人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー鎌倉大仏はなぜチャーミングなのか?--

2025-04-13 14:09:40 | 日記

Great Buddha(Daibutsu)は鎌倉の住人なら知っておく必要のある英単語です。鎌倉駅前でバス乗り場が分からず困っている外国人がいたら、先ずGreat Buddhaに行きたいか聞いてみて、そのバス乗り場を教えてあげましょう。はじめて鎌倉観光する外国人は、間違いなくほぼ全員が大仏を訪れます。今回はそれほどまでに外国人を惹きつける重さ120トンの巨大な金銅仏Great Buddhaの一考察です。

最近『歴史のなかの貨幣 銅銭がつないだ東アジア』(黒田明伸著 岩波新書)という本を読みました。鎌倉大仏が中国の宋から輸入した宋銭を材料にしていることは、大仏を案内するときに説明していますが、これは『鎌倉大仏の中世史』(馬淵和雄著 新人物往来社)を根拠にしています。ただその文中では「宋銭に近い組成だという」との書き方のため、正直、確信のある説明ができませんでした。今回読んだ黒田氏の本では、鎌倉大仏の金属組成(%)は、宋銭(元豊通宝)A、鎌倉大仏B、奈良大仏Cを比較し、銅(A63.75:B67.04:C91.60)、錫(A7.58:B8.42:C2.46)、鉛(A24.66:B23.94:C1.61)。特に鉛同位体分析の結果、鉛の産地が中国南部産であることが特定できたので、材料が宋銭であることは間違いないと書いています。

中国の宋(960-1279)は、女真族の金に華北地方を収奪され、占領された地を北宋(960-1127)、残った南の土地を南宋(960-1279)と使い分けています。南宋は1279年にモンゴル帝国に滅ぼされ元になりました。宋銭を発行したのは北宋時代。その発行枚数は約2000億枚と言われ、その一部が東アジアに輸出されました。日本が輸入しはじめたのは12世紀中ごろ、特に1177年にあった京都の大火で多くの寺院が焼失したあとは、仏具需要が旺盛で輸入量が増えたようです。一方国産銅は、7世紀末から8世紀初頭に長登銅山(山口県美祢市、秋吉台の南東)で採掘され、奈良の大仏や和同開珎・皇朝十二銭が作られました。奈良の大仏は南都焼き討ち後に宋銭を材料として再興されましたが、現在の大仏は江戸時代に国産銅で作られたものです。鎌倉大仏や建長寺の梵鐘、円覚寺の大鐘などは100%宋銭で作られています。宋銭製と純銅製の違いは錫の含有量で、錫が多く入っている方が仕上がり精度が高くなります。流通する硬貨は表面に刻まれた文字が鮮明でないと偽造通貨と間違われますので、中国では錫との合金の良貨を作りました。

小泉八雲の『日本の面影Ⅱ』(池田雅之訳 角川ソフィア文庫)に鎌倉大仏を表現した文章があります。

大仏様の柔和で夢見るような無心の表情--容姿のすみずみにまで現れている無限の安らぎは、誰もが心惹かれる美しさに満ちてている。しかも、この巨大な大仏様に近づけば近づくほど、その魅力はいよいよ増してくるのである。

この文章は等身大の仏像を表現しているものではなく、3000万枚の宋銭を使った重さ120トンの大仏を表現したものです。奈良の大仏は何かのっぺらとしたお顔ですが、鎌倉大仏の表情は繊細です。これは青銅製であることが大きく影響していると思います。材料として日本では手に入らない錫を含有する宋銭を大量に手に入れることができ、それを使って阿弥陀仏を作ろうという治世者、作ることができた技術者がいたこと、さらに800年近くへた現在まで無事に残されていること。まさに奇跡としか言いようがなく、そこが多くの外国人を惹きつける魅力(charm)ではないかと考えています。

 

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鎌倉を知る --広町緑地の大桜2025--

2025-03-27 17:24:54 | 日記

今日は令和7年3月27日。一週間前に降った霰が嘘のようにここ数日温かく、めっきり春めいてきました。春と言えば桜、そして桜と言えば広町緑地の大桜。今年も元気に咲いているか?やはり気になります。西行の『山家集』でこんな歌をみつけました。

  わきて見む老木は花もあはれなり今いくたびか春にあふべき

大桜をみに行くことができなくなる我が身が先か、大桜の樹勢が衰えるのが先か、古希を過ぎ、病院通いが増えたこの頃を思うと、ついつい先のことを考えてしまいます。

腰越までいつものコーヒー豆を買おうと、途中にある広町緑地の大桜に会いにゆきました。まだ咲いてないか心配したのですが、すでに風に吹かれ花びらがちらほら舞い落ちている様子でした。ただ桜の花かずは毎年毎年確実に少なくなっているようです。樹勢を保つためしっかり養生しているようですが、やはり齢には勝てませんか?そしてそのコーヒー屋さんも「暫らく休みます」の張り紙がしてありました。店主は私より年上の方でしたので入院でもしたのか、心配です。そして毎週来てくれていた腰越の豆腐屋さんも、最近来ないので店まで見に行きましたが、シャッターが降ろされたままでした。たぶん2店ともこのまま廃業してしまうかもしれません。寂しい限りです。

さて桜は散りぎわが美しく、『山家集』の中にも多く取り上げられています。その介添え役は風。風と桜は切っても切れない仲なのかもしれません。西行は次の二首を詠んでいます。

  風さそふ花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり

  風にちる花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり

上の五文字は違いますが、あとは同じです。普通に考えればどちらか一方にするのですが、西行はあえて二首のせました。その気持ちは知る由もありませんが、「風さそうふ」も「風にちる」もどちらも捨てがたい歌です。花の立場になって考えてみれば、個人的には「風さそうふ」に軍配をあげたい気がしました。「風にちる」では何か、花に主体性がなく寂しい感じがします。

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最近読んだ本 『ウイリアム・アダムス』

2025-03-14 16:19:58 | 日記

ベルギー生まれの著者、フレデリック・クレインスが書いた『ウイリアム・アダムス ー家康に愛された男・三浦按針』を読みました。この本は読売新聞の「編集手帳」に紹介され、トランプ大統領が興味を示した北極航路に引っ掛けて紹介されていたものです。フレデリック・クレインス氏は、現在国際日本文化研究センター教授をしていますが、オランダ語が堪能であり、『十七世紀のオランダ人が見た日本』(臨川書店)などの著作があります。日本に興味を持つ外国人研究者が増えたせいかもしれませんが、外国人の書いた歴史書が多く出版され、それも翻訳でない著者自ら日本語で書いています。また文献調査も国内資料だけでなく、国外の図書館などの資料を活用し、ワールドワイドで日本を捉えていて、これまでの歴史書にない視点で楽しむことができます。

本の内容については深入りしませんが、あの徳川家康が国際感覚のある自由貿易主義者であったとは知りませんでした。またウイリアム・アダムスがイギリス人であり、オランダ船主の船に乗っていたことが、ポルトガルやスペインのカトリック国による侵略の企てを未然に防ぐことが出来たこと。そして難破して日本にたどりついたウイリアム・アダムスの才能を見抜き、素直にその意見に従った徳川家康の度量の広さに感心しました。大袈裟な言い方ですが、この二人の関係がなければ、日本も他のアジア諸国と同様に列強の植民地化策に呑み込まれていたかもしれません。これまでウイリアム・アダムス=三浦按針について名前を聞いている程度で、その功績については全く不勉強でしたが、この本を読んで大いに理解が深まりました。是非読んでいただきたいお薦めの一冊です。

見出し写真は、この本の内容と全く関係のない御霊神社と江ノ電の一枚。絶妙なタイミングでシャッターを切ることができました。

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鉄印帳の旅 ーー20明智鉄道に乗る--

2025-03-12 20:13:47 | 日記

3月某日、両親の墓参りに岐阜県恵那市岩村町(墓は山岡町)まで車ではなく鉄道を利用し、訪ねました。JR中央本線の恵那駅で乗り換えですが、明智鉄道の恵那駅の改札で鉄印帳のポスターが目に留まりました。この鉄印帳については、旅行読売臨時増刊「ローカル線に乗って 鉄印帳の旅」(2024年9月発行)を以前購入していますので記憶に残っています。興味をそそられ、「鉄印帳フリー版」(1320円)と明智鉄道の鉄印を買い求めました。これが新シリーズ「鉄印帳の旅」のスタートですが、多分、最初の1ページだけで鉄印帳の頁は増えないかもしれません。この鉄印帳に参加している鉄道会社は「第三セクター鉄道等協議会」に加盟している40社で全国に散らばっています。そろそろ後期高齢者にならんとする身では、今さら40社全部の鉄印を集めるのは無理。死ぬまでに何社チャレンジできるか?まずは北海道・東日本から攻めていくことになりますが、愛知県、岐阜県まで24社くらいなので10社以上乗れたら上出来でしょう・・・?。

見出し写真は岩村駅で写したもの。右の車両は乗ってきたラッピング気動車。全11駅ありますが、今回は恵那駅から岩村駅までの往復でした。途中、飯沼駅は日本一の急こう配(33パーミル)にある駅として知られており、たどり着くまでの気動車のディーゼルエンジンの呻きは、なんとも心地よい響きです。飯羽間駅は、農村景観日本一と言われる富田地区の最寄駅。そして岩村駅は、女城主で知られた岩村城があるところ。短い距離ながら見どころがたくさんある鉄印の旅でした。さて次はどの鉄印がゲットできるか?いまからワクワクしています。

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鎌倉を知る --野間の宝山寺(湯殿跡)ーー

2025-03-10 08:07:40 | 日記

見出しの写真は、源義朝が殺害された湯殿跡です。この湯殿跡は野間大坊の側にあると思っていたのですが、1.3km位離れた宝山寺のそばにあると野間大坊のご住職に教えていただきました。地図をみますと名鉄の野間駅の近く、折角なので訪れることにしました。途中に長田忠致一族の屋鋪跡の案内板がありましたが、宝山寺はさらに300m位離れています。この湯殿は長田の屋敷内にあったとは思えず、わざわざ遠く離れた宝山寺の敷地内にあつらえたのかもしれません。義朝が湯殿で殺害された状況は『平治物語』に生々しく描かれています。長田忠致・景致親子は鎌田政家(『愚管抄』では正清)の舅になりますが、義朝主従が訪ねて来た時から無事に関東に下向させるつもりはなく、どうやって義朝一行を殺害するかの算段をしていたようです。義朝に湯あみをすすめる一方で、鎌田政家には歓待の酒宴を催し、油断させるという姑息な方法をとっています。長田屋敷から湯殿までは遠く離れており、異変に気付いても直ぐに駆けつけられません。後世に宝山寺近くにわざと湯殿を作ったのかもしれませんが、『平治物語』には、「御馬をまゐらせよ。いそぎ御とほりあるべし」との給いければ、「せめて三日の御いはひすぎてこそ、御たち候べけれ」としきりに長逗留を勧める様子が書かれています。湯殿をこしらえるための準備をしていたと思われます。

一方、『愚管抄 全現代語訳』(慈円 大隅一雄訳 講談社学術文庫)には、義朝は足もはれ、疲れはてていたのでそういう縁をたのみ、(長田)忠致の家をたよっていったのである。忠致は喜んで待っていたといって義朝主従をたいへんいたわり、湯をわかして湯浴みをすすめた。しかし、(鎌田)正清は事の気配を感じとり、ここで殺されるであろうと見てとったので、・・・。そこで正清は主君の首を打ち落として、ただちに自分もあとを追ったのであった。さらに、京都に運ばれさらしものされたその首のようすを詠んだ歌がのせられています。(噂では、九条大相国伊通公の作)

  下つけは木の上にこそなりにけれ よしともみえぬかけづかさ哉 

歌の意味は、下野守義朝は紀伊守〈獄門の木の上に通ずる〉になった。このかけづかさ〈兼官、下野守と紀伊守の兼任、かけは獄門に懸けるに通ずる〉は、よいこととも〈よしともは義朝に通ずる〉思われない

慈円の『愚管抄』は義朝・正清は自ら命を絶ったという立場をとっています。『平治物語』との違いは明らかですが、義朝が殺害されたと伝わる「湯殿跡」に立ちますと、こんな死に方をした義朝主従の無念さを感じられずにはいられませんでした。せめての救いは、四半世紀すぎた文治元年(1185)八月に義朝の首が後白河法皇の手で探し出され、義朝の子頼朝の手に届けられたことでしょうか。それも多少なりとも歴史を勉強したから分かることであり、観光地として野間大坊を訪れただけなら、なにも感じずに通り過ぎていたと思います。何度も来れる場所ではないので過去にタイムスリップした気分になり、いい旅ができました。

 

 

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