人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --長谷寺の不思議--

2022-11-27 21:12:28 | 日記

11月26日(土)。長谷寺で岡田清一先生の講演会がありました。演題は「大江・毛利と鎌倉長谷寺」と言うものです。なにしろ長谷寺は開創以来の記録が乏しく、長谷寺を研究する学者さん方を悩ましているようです。今日の岡田先生も少ない資料から、どう話を展開するかに苦労されていたようです。歴史学者は想像で話をすることは許されず、遺されている資料を手掛かりに真実に迫る求められています。そこは妄想で話を作る筆者とは大違い。お恥ずかしい限りです。

さて本題。まず長谷寺創建の時期に関するお話。長谷寺由緒にある奈良時代という説明はありませんでした。三つの資料から、岡田先生は創建時期を推測されていました。一つは、坂東三十三か所関する記録から、天福2年(1234)以前からあったという説。次は、長谷寺ミュージアムにある阿弥陀一尊板碑から弘長2年(1262)と言う説。最後は、同じく長谷寺ミュージアムに展示してある新長谷寺梵鐘銘から文永元年(1264)創建ではないかという説。これらを総合すると、創建時期は13世紀初めから中頃にかけてかと推測されます。とは言っても、どうして『吾妻鏡』に長谷寺の記事が載ってないのか?これも不思議です。

長谷寺のある場所を長谷というのは江戸時代になってから。鎌倉時代は甘縄といわれていました。甘縄神明神社へは頼朝・政子が参拝したという記録はありますので、甘縄という地名は古くからあったようです。甘縄神明神社に安達盛長邸跡の石碑がありますが、実際の安達邸はもう少し東の無量寺谷(今の鎌倉歴史文化交流館あたり)あったようです。

さらに話は鎌倉大仏を誰が造ったかに展開します。岡田先生は名越流北条氏(朝時)らではないかと推測しています。北条朝時は泰時の兄弟ですが母親は違います。弟は重時で極楽寺に別邸があり、極楽寺創建にもかかわりがあります。筆者は、最初の木造の大仏は北条泰時、金銅の大仏は泰時の孫である北条時頼と思っていました。泰時に比べ朝時の方が血筋かよく、朝時には本流という意識がありました。徳宗家に対抗するため大仏を造ったと話していました。ここらあたりのことは日蓮が語っています。

さて写真はライトアップされた長谷寺の観音堂あたり。プロジェクションマッピングでお堂を写す試み。これは初めてかも知れません。

 

 

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