人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

ポルトガルワインを試す --④ケヴェド・ルビー・ポートワインーー

2021-02-25 19:02:30 | グルメ

今回はポートワインにチャレンジしました。子供の頃に「赤玉ポートワイン」の名前は聞いたことがありますが、飲んだ記憶はありませんので、ポートワインは今回がはじめてになります。調べてみますと、ポートワインの製造方法は、まだ糖分の残っている発酵途中にアルコール度数77度のブランデーを加えて酵母の働きを止めて作ります。従って普通のワインに比べ度数は19度と高くなっています。なおポルトガルでは北部のポルト港から出荷され、ドウロ川上流のドウロ地方をポートワインの法定区と定め、この地方で栽培された葡萄を原料とした酒精強化ワインのみにポートワインの商標を認めています。ということで、日本の赤玉ポートワインは赤玉スイートワインになったようです。

さて今回買い求めたのは、ケヴェド Quevedo社のものでケヴェド・ルビー・ポートワイン。1800円。買い求めた店には赤のポートワインはルビーとトウニーの2種類あり、ルビーはステンレスタンクで3年熟成したもの。トウニーは樽で4年間熟成したものです。どちらを選ぼうかと迷い、店の方に聞いたのですが、帰ってきた答えは「好み」ですの一言。カタログによるとルビーは「チェリーなど果実味が前面に感じられる。開栓後は8週間を目途に飲んでください」と書いてありました。19度と強いワインであり、当然にガブガブと飲むものではありません。食後にチョコレートムースやアップルタルトなどの甘いお菓子とともにグラス一杯位をチビチビ味わって飲むもののようです。

実際に飲んでみましたが、ルビーの名前の通り色はルビー色。確かに強くて甘いワインです。飲みなれないワインですが、癖になりそうな味わいです。ただし食後にチョコレートは糖質過多を気にしている身としてはキツイですね。グラス一杯なら15回くらい飲めますので賞味期限8週間とすると、3~4日おきが丁度良いようです。飲み過ぎない、好きな甘いお菓子を食べ過ぎないことに注意しながら楽しむことにしました。

 

 

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鎌倉を知る --片瀬 常立寺の梅ーー

2021-02-22 16:52:13 | 日記

常立寺は藤沢市片瀬にある日蓮宗のお寺です。藤沢市の寺院をなぜ紹介するのか?疑問に思われるかと思います。まずこのお寺は龍口寺の輪番七ケ寺の一つであること。ご存じの通り、龍口寺は龍ノ口の法難があった場所に建てられたお寺で日蓮宗にとっては聖地になっています。そして文永の役の翌年(1275年)に元国より元への服従を求める杜世忠らの使者が鎌倉にやってきました。しかし当時の執権であった北条時宗は国に返さず全員を処刑してしまいました。そして龍ノ口の処刑場近くに埋葬し、その埋葬地には「面影塚」と言われる供養塔が建てられたようです。それが今の常立寺がある所です。江戸時代の『新編相模国風土記稿』にその記述はなく、大正15年になって当時の住職によって今の「元使塚」が建てられました。戦後になってからは大相撲藤沢場所があるときにモンゴルの力士らがこの元使塚を参拝しています。鎌倉とは縁のあるお寺です。

さてここからが妄想の世界。ではなぜにはるばる元から来た使者を一人残らず殺害したのか?現代人から見れば北条時宗の非情さに憤慨し、参拝するモンゴルの人に同情するでしょう。この文永の役のあと弘安四年(1281)7月に再び元と高麗は大軍を率い日本を襲撃しました。いわゆる弘安の役です。一説では、文永の役は本格的に日本に攻め込むための偵察戦であり、杜世忠らの使者は日本の地理や地形、人々の暮らしを調べるために来たとも言われています。元の大船が関門海峡から瀬戸内海、難波から淀川を上り京都まで来るのは容易いことです。そうなれば、あっという間に日本は元に支配されてしまったでしょう。当時の鎌倉幕府は元の恐ろしさを知っていました。恐らく元寇前の弘安二年に来日した無学祖元などから聞いていたと思われます。また当時の鎌倉幕府の指導者たちは神仏を崇敬していましたので、余程の事がない限り隣国から来た使者などは殺害しません。何か彼らを生きて帰国させることができない事情があったのでしょう。

写真は常立寺の枝垂れ梅。満開の花を見に多くの人が訪れていました。つくづく平和の世に生まれて幸運でした。しかしコロナ後の世界はどうなるのか分かりません。いつまでも平和ボケのまま安穏に暮らせるとは思えません。たった70年前には飢えに苦しんだ人が大勢いました。そうならないように緊張感をもって生きたいものです。

 

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鎌倉を知る --鎌倉山縦走:土の道を求めて歩くーー

2021-02-22 09:32:01 | 日記

今回のブログは誌上ガイドです。手広の青蓮寺から可能な限り未舗装の土の道を歩く極楽寺までのコース。写真はスタートしてすぐの手広2丁目で写した切通?の風景。

私は反対の極楽寺方面から行きましたが、鎌倉山4丁目から手広に至る道が分かりにくいので青蓮寺をスタートにしました。では出発。まず青蓮寺のそばのミスストップの駐車場を右に見て、道なりに鎌倉山を目指して進むと、ほどなく階段のある山道にかかります。途中道端に庚申塔の置かれた開けた場所にでますが、左の山すそを歩けば鎌倉山4丁目の住宅地。その坂を下れば鎌倉山ロータリー。

鎌倉山ロータリーからは教養センターへの坂を上りますが、教養センターには下りず右の道を行きます。程なく人一人がやっとの小路となり、「ローストビーフの店 鎌倉山」を左に見て、店の前をそのまま進みます。ここは鎌倉山3丁目の住宅地。標高は90m近くありますので、目の前に江の島から富士山が見える絶景が広がります。贅沢な住宅地ですね。さらに道なり進めば、途中、舗装が切れますが、ドン付きの階段を下れば人気の洋菓子店「ル・ミュー鎌倉山」。この店か擂亭でランチ休憩も好いでしょう。

ル・ミュー鎌倉山からバス通りを擂亭経由で歩く方法もありますが、せっかくなので夫婦池公園の入口からすぐ左へ砂利道を行きましょう。この道はまたバス通りにでますので、右に擂亭の方に少し戻り、喫茶店を左折してその先のT字路を左へ。ここは鎌倉山2丁目。その場所からの眺望も素晴らしい。さらに進めば鎌倉山神社に行く道と七里ガ浜東の住宅地に下る道に分かれます。直ぐそばの廃屋の脇に鶴岡八幡宮の石鳥居がなぜか一本。そのいきさつは?です。

ここから鎌倉山神社前を通リ極楽寺に行くのと七里ガ浜の住宅地から行く方法がありますが、途中からの絶景を見るために後者を選びます。私はこの270度広がる景色が好きで日本版アマルフィと呼んでいます。このまま住宅地に下りても良いのですが、宅造地の端から左に行く擁壁に沿った小道があるのでそちらを進みましょう。給水塔を目指し、階段から山道に入ります。崖上のフェンス脇の道を行くと、途中で鎌倉山神社からの道と交わり、そのまま尾根道を歩けば極楽寺までもう一息です。

さてこの下手な文章ガイドだけで歩けるでしょうか?一度チャレンジしてみてください。

 

 

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鎌倉を知る --安達景盛と明恵上人ーー

2021-02-19 12:35:37 | 日記

『明惠上人伝記』(巻下)は「秋田城介覚知、遁世して梅尾に栖みける比」という文章ではじまります。とはいっても何のことか分かりませんので、訳者の〈注釈〉に頼ることになります。この秋田城介覚智は、頼朝に信任せられた安達藤九郎盛長の子で安達景盛だとしています。安達盛長は鎌倉殿と十三人の一人なのでご存じかと思います。さてこの安達景盛は実朝の不運な死に遭遇し出家して名を覚智に改めました。『明惠上人伝記』では覚知。『吾妻鏡』では覚地ですが、訳者は覚智が正しいとしています。その後、承久の乱の時に逃げ込んだ敗残兵を捕まえるために高山寺に行き、匿った明恵上人を掴まえて北条泰時のいた六波羅探題まで連れてきました。この話は既に紹介した通りですが、安達景盛はその際に明恵上人と接触して深い感銘を受け、終生(?-1248年)、指導者として上人を仰ぎみました。

さてこれからが本題です。この安達景盛の娘が北条時頼の母である松下禅尼。景盛の子である安達義景の娘が北条時宗の正妻の覚山志道。この二人の女性については鎌倉の歴史を勉強している方なら良くご存じでしょう。ただ私がこれまで疑問だったのが、『円覚寺』という冊子に書かれていた覚山志道が円覚寺一番奥、今、黄梅院があるところにあった三重塔(華厳塔)を建てたと書いてあったこと。それに覚山志道が開いた東慶寺が何故に駆け込み寺になったかということです。覚山志道は時宗と結婚する前には松下禅尼と一緒に暮らしていました。そして松下禅尼は父である安達景盛(そのころは覚智でしょうか)の影響を強く受け、信心深かったことは容易に想像できます。その覚智は明恵上人に師事していたとすれば、明恵上人の思想を親子三代にわたり受けついでいたとしても不思議ではありません。そうだとすれば、円覚寺の華厳塔、東慶寺の不幸な女性たちを世の横暴から救おうとした考え方が容易に理解できました。この明恵上人のことをもっと学ぶ必要がありそうです。

写真は覚山志道が造った東慶寺。東慶寺のことは何度もこのブログで紹介していますが、実に心が落ち着く場所です。

 

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鎌倉を知る --明恵上人と承久の乱ーー

2021-02-16 14:49:02 | 日記

前回同様に講談社学術文庫『明惠上人伝記』(平泉洸 全訳注)から明恵上人の承久の乱時のエピソードについて紹介します。明恵上人は高山寺に逃げ込んだ朝廷方の敗残兵の引き渡しを拒みました。その時の明恵上人の態度について訳者がまとめた文章がありましたので、そのまま載せます。

「自分は求道者であり仏弟子であって、俗世間のことに一切関係せず、紛乱に当って、一方の味方となり、他方の敵となることは、断じてない。次に栂尾の高山寺境内は殺生を許さない聖地として仏に捧げられた土地であるから、境内においては鳥獣を捕え、また殺すことは許されない。まして人間を捕縛し、殺傷することの許される道理はない。つまりここは警察権も介入を許されないアジール(聖地)の地であるから、自分がこの寺を管理しているかぎり、脅迫せられて逃げ込んで来る者は、必ずこれを収容し庇護するであろう。それは仏弟子としての自分の神聖なる責任である」

非常に明解に明恵上人の態度を要約した文章です。明恵上人は、もし私の行為が幕府の方針に不都合であれば、私の首を斬るがよいとまで言っています。北条泰時はこの明恵上人の態度に感銘し、明恵上人を許しました。泰時もまた人物でした。

さて前に藤原不比等が『古事記』を創作した目的は神仏習合であると書きました。神様は伊勢神宮に祀り、仏は東大寺に廬毘舎那仏(大仏)を造りました。大仏は偶像であり後世も引き続き拝めますが、存在を見ることが出来ない神様をどう後世に伝えようとしたのか?そこで「式年遷宮」という方法を考えました。神様は確かに存在して生き続けているから20年ごとに建物など全てを造り変えるという方法です。国家の安寧には神と仏の両方が必要と思ったのでしょう。

また聖徳太子の十七条憲法は仏を敬えとしか出てきませんが、北条泰時が作った御成敗式目では第一条に神社のこと、第二条に寺のことが出てきます。以後、武家が支配する世でこの神仏を大切にするという考え方は江戸時代まで続きます。明治時代には廃仏希釈により国家神道という考え方に変わりますが、それは仏教的な大慈大悲の思想では列強と戦っていけなかったからでしょう。さらに戦後は大半の国民にとって神仏は畏怖する対象でなく形式的に参拝する場所に変わりました。それが良いかどうかはこれから答えが出てくるかと思います。

写真は今朝写した富士山と桜の一枚。昨日の大雨から一転して爽快な朝でした。

 

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