
ここで少し源義朝(1123~1160)について触れましょう。源義朝は源為義の子で、子供のころ東国に下向、その後成長した義朝は南関東に勢力を拡大し、主要武士団にも一目を置かれる地位を確立。そして天養元年(1144)に伊勢神宮の荘園である大庭御厨を襲撃するという事件を起こしました。仁平三年(1153)に下野守に就任、いまだ検非違使にとどまる父為義との地位を逆転させ、河内源氏嫡流の立場を確かなものにしました。義朝の子は何人もいますが、熱田大宮司家の藤原季範の女、由良御前との子、頼朝が嫡流で、その後鎌倉幕府を開くことになります。義朝にとって人生のピークは保元元年(1156)の保元の乱で後白河天皇側につき、崇徳上皇、藤原頼長側を破ったことでしょう。ただ敗者となった父為義ら一族を亡くしたことは大きな禍根となりました。しかしながら絶頂期は長く続かず、平治元年(1159)12月9日に藤原信頼に味方した義朝は後白河の院御所三条殿を急襲し、後白河院を幽閉するという暴挙にでました。これが平治の乱、義朝一族の悲劇のはじまりとなります。京都を離れていた平清盛が戻ってから形勢が逆転、12月25日に二条天皇が内裏を脱出し六波羅に行幸したあとは一気に攻め込まれ、敗れた義朝勢は敗走、東国へ落ち延びて行きました。義朝の終焉の地は尾張国の野間というところです。なぜに野間にいったか?その辺の経緯は『平治物語』や『愚管抄』に書かれています。
『平治物語』の「義朝はとかくして、美濃国青墓の宿につき給ふ」から始めましょう。青墓の宿は、現在の岐阜県大垣市の青墓(美濃国国分寺跡)ですが、木曽三川、揖斐川の手前になります。そこで義朝主従は散り尻なって落ち延びる決断をします。頼朝は途中の野路辺りではぐれ、その後は囚われの身、命だけは運よく助けられました。義朝自身は尾張国の野間にいる長田を訪ねます。「まづ、尾張の野間にゆき、(長田)忠致に、馬、物具こひて通らんずる」、一緒にいた平賀(四郎義宣)「長田は大徳人にて、世をうかがう者なれば・・・。」と申しけれども、「さりとも鎌田(政家)が舅なれば、何事かあらん」との給へば、・・・。」、そして義朝は「海道は宿々とほり得がたかなる、是より海上を内海へつかばやと思ふはいかに」と話します。義朝主従は揖斐川を下り、知多半島の内海を目指しました。知多半島からは、上手くいけば渥美半島に渡るチャンスがあり、そうすれば義朝の再起もあり得たかもしれません。残念ながら、天は平清盛に味方しました。
写真は野間大坊にある義朝の墓です。うず高く積まれているのは木刀です。義朝は風呂に入っている時に謀殺されましたが、最後に「我に木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされます。この言葉は『平治物語』にも『愚管抄』にも出てきません。多分後世の人が「油断するな」と戒めの言葉を残したのかもしれません。