
見出しの写真は、源義朝が殺害された湯殿跡です。この湯殿跡は野間大坊の側にあると思っていたのですが、1.3km位離れた宝山寺のそばにあると野間大坊のご住職に教えていただきました。地図をみますと名鉄の野間駅の近く、折角なので訪れることにしました。途中に長田忠致一族の屋鋪跡の案内板がありましたが、宝山寺はさらに300m位離れています。この湯殿は長田の屋敷内にあったとは思えず、わざわざ遠く離れた宝山寺の敷地内にあつらえたのかもしれません。義朝が湯殿で殺害された状況は『平治物語』に生々しく描かれています。長田忠致・景致親子は鎌田政家(『愚管抄』では正清)の舅になりますが、義朝主従が訪ねて来た時から無事に関東に下向させるつもりはなく、どうやって義朝一行を殺害するかの算段をしていたようです。義朝に湯あみをすすめる一方で、鎌田政家には歓待の酒宴を催し、油断させるという姑息な方法をとっています。長田屋敷から湯殿までは遠く離れており、異変に気付いても直ぐに駆けつけられません。後世に宝山寺近くにわざと湯殿を作ったのかもしれませんが、『平治物語』には、「御馬をまゐらせよ。いそぎ御とほりあるべし」との給いければ、「せめて三日の御いはひすぎてこそ、御たち候べけれ」としきりに長逗留を勧める様子が書かれています。湯殿をこしらえるための準備をしていたと思われます。
一方、『愚管抄 全現代語訳』(慈円 大隅一雄訳 講談社学術文庫)には、義朝は足もはれ、疲れはてていたのでそういう縁をたのみ、(長田)忠致の家をたよっていったのである。忠致は喜んで待っていたといって義朝主従をたいへんいたわり、湯をわかして湯浴みをすすめた。しかし、(鎌田)正清は事の気配を感じとり、ここで殺されるであろうと見てとったので、・・・。そこで正清は主君の首を打ち落として、ただちに自分もあとを追ったのであった。さらに、京都に運ばれさらしものされたその首のようすを詠んだ歌がのせられています。(噂では、九条大相国伊通公の作)
下つけは木の上にこそなりにけれ よしともみえぬかけづかさ哉
歌の意味は、下野守義朝は紀伊守〈獄門の木の上に通ずる〉になった。このかけづかさ〈兼官、下野守と紀伊守の兼任、かけは獄門に懸けるに通ずる〉は、よいこととも〈よしともは義朝に通ずる〉思われない
慈円の『愚管抄』は義朝・正清は自ら命を絶ったという立場をとっています。『平治物語』との違いは明らかですが、義朝が殺害されたと伝わる「湯殿跡」に立ちますと、こんな死に方をした義朝主従の無念さを感じられずにはいられませんでした。せめての救いは、四半世紀すぎた文治元年(1185)八月に義朝の首が後白河法皇の手で探し出され、義朝の子頼朝の手に届けられたことでしょうか。それも多少なりとも歴史を勉強したから分かることであり、観光地として野間大坊を訪れただけなら、なにも感じずに通り過ぎていたと思います。何度も来れる場所ではないので過去にタイムスリップした気分になり、いい旅ができました。
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