人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

源実朝を知りたい ー読売新聞の記事からー

2019-01-30 20:11:24 | 日記

今朝(1月30日)の読売新聞朝刊の文化面に「源実朝暗殺800年 権力強化が悲劇を招く?」という記事をみつけました。最近の研究では、源実朝の人物像や暗殺に至った動機や背景について従来とは違った考え方があるようで、五味文彦東大名誉教授や創価大学の坂井孝一教授の説が紹介されていました。坂井先生の考え方は、以前にブログでも書いています。五味先生の考え方は、実朝は強大な権力を持っていたと思われ「将軍独裁に反発する御家人たちにとって、将軍とその権力の演出者が葬られたことは望ましい結果であった」とみています。ただ暗殺の黒幕については明言をさけていますが、公暁の単独犯だったと考える坂井先生とは違った考えのようです。

それともう一つ。こちらも興味あるテーマなのですが、「北条泰時は実朝の理想を引き継いだとみることができる」と書かれた鎌倉国宝館で開催中の実朝展の紹介記事の中にあった一文です。実朝は『吾妻鏡』によれば十七条憲法を取り寄せるなど、太子信仰を率先していたようで、「実朝の考え方を受け継ぐ北条泰時が定めた『御成敗式目』は十七条憲法の精神を体現したもの」とあります。

そうであれば、北条泰時が行った和賀江嶋の築島も実朝の意思を継いだ事業であったと考えてもおかしくないと思えるようになりました。また鈴木かほるさんの『相模三浦一族とその周辺史』では、和賀江嶋の築島と三浦義村の嫡男である泰村との関りを指摘しています。遠浅の海で浮かばなかった船を沖に出すには港が必要です。この築島を申請したのは往阿弥陀仏という人物といわれていますが、この人物は和賀江嶋の前に九州の宗像社領の新宮浜鐘ケ崎に人工港の築島にも関ったという記録(宗像市史)が残されています。また三浦氏一族はこの二つの築島の推進者となった可能性が高く、そして北条泰時と三浦一族のつながりがあってはじめてこの一大プロジェクトが成し遂げられたのではないでしょうか。そう考えると、実朝の浮かばない船の建造事業もバカにしたものではなく、もっと評価してもいいのではと・・・・。

写真は干潮時の和賀江島です。

 

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