音盤工房

活字中毒&ベルボトムガール音楽漂流記

恋をするって事

2008年09月13日 | Rolling Stones

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 ローリング・ストーンズの『シャイン・ア・ライト』公開が待ち遠しい。いっとき、日本では公開されないとか噂されていたようだけど、いよいよ2008年12月5日に公開される事に決定したらしい。⇒映画『SHINE A LIGHT』公式サイト。この映画公開に関していえば、僕自身も大いに期待していて、出来れば観に行きたいと思っている。けれど、たとえその機会を逃してもいずれはDVD化されて観る事ができるので、なんとなく今回ばかりは安心している。そこがライヴとは違うところだ。映画の場合はライヴのような切迫感がない訳で、実のところ僕もその時になってみないと判らない。これまでから待たされるだけ待たされて公開中止という可能性もきっとあった訳で、そのあやふやな情報のお陰で、最近はDVDが観れるならいいやという気持ちにもなっている。

ザ・ローリング・ストーンズ×マーティン・スコセッシ「シャイン・ア・ライト」O.S.T. ザ・ローリング・ストーンズ×マーティン・スコセッシ「シャイン・ア・ライト」O.S.T.
価格:¥ 3,800(税込)
発売日:2008-04-09

 YouTubeでは予告編を手軽に観る事ができるので公開前だというのに、凡その劇場の雰囲気をなんとなくだが掌握したような気持ちにもなっている。それと公開に先立って発売されたサントラ盤の『シャイン・ア・ライト』の音源からもそのライヴならではの迫力が伝わってくるので、あえて本当に観る必要があるのかという疑問すら湧いてくる。とはいっても耳で聴いたものと映像から得たものとでは比べようもない緊迫感がある筈だ。今度はどんなパフォーマンスをみせてくれるのかとか、ゲストとして招かれたジャック・ホワイトやバディ・ガイ、クリスティーナ・アギレラと名曲の数々をどんなふうに料理しているかなど、正直興味が尽きない。

 「ラヴィング・カップ」なんてオールドソングに思わず感動したり、歳甲斐もなく「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ(涙あふれて)」で涙潤ませたり、バディ・ガイと録ったマディ・ウォーターズの「シャンペン&リーファー」でブルースの心の邂逅をしたり、キース・リチャーズが歌う「ユー・ガット・ザ・シルバー」を聴きながら久し振りに『ベカーズ・バンケット』が聴きたくなる衝動と闘いながら、僕は全くもって十代の頃から何も変わらないのだと気付かされる。一つのロックバンドに拘り続けるという事、それは即ち僕が未だに大人になっていないという確かな証拠であろう。ストーンズに出会ってからもう30年を迎えた。好きな女をずっと愛し続ける事も難しいのに、僕はこんな歳になっても、ずっとこのバンドに恋をし続けている。

♪Rolling Stones w. Buddy Guy - Champagne & Riffer (live 2006)

♪Rolling Stones - You Got The Silver (live in NY 2006)


日本という余りに退屈な国で

2008年09月13日 | 本と雑誌

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 先日、久し振りに某書店に行ってきた。これまで何かのついでに行く事はあっても本を買うことだけを目的に行く事はなかったので、思わず長居をしてしまった。購入したのは船戸与一著『藪枯らし純次』ほか数冊。『藪枯らし純次』の初版は確か今年の初め頃だと思うが、この作品は地元の某新聞社に昨年連載をされた作品に、著者が全面改稿を施し、徳間書店より出版されたハードカヴァーだ。したがって書籍化されるまでにも何度か読んでいるのだが、僕は何日分も溜めてから纏めて読む癖があり、例外なく今回もそうしていたのだが、母親が僕の思惑をよそに新聞紙を廃品回収に出してしまった為、結局前後の話が繋がらなくなり読むのをやめてしまった。母のしたことを咎める訳にも行かず、あっさり諦めたのはいずれ書籍化されるだろうという思いもあったからだ。しかしこんなに早く書籍化されるとは想像が及ばなかったので、発売から半年も遅れて購入した訳だ。船戸与一の愛読者とはいえ、やはりこの著者の本はいずれも途方もなく分厚く、値段が高い。自然と購買意欲が遠ざかるのは已む無しといったところだろう。

藪枯らし純次 藪枯らし純次
価格:¥ 2,205(税込)
発売日:2008-01

 僕が船戸与一という名前の作家を知ったのは確か中学か高校の頃だ。当時はアガサ・クリスティーや横溝正史のファンであった僕がハードボイルドというジャンルに興味を持ったのは日本に大藪春彦という作家がいたからだ。当時は松田優作が主演した『野獣死すべし』や『蘇える金狼』に夢中になった。それにテレビドラマの『探偵物語』を観て、ハードボイルドというものを理解した。欧米と違って銃規制が厳しい本国に於いては、ハードボイルドというものが見せ掛けだけの読物と思っていた。だからこそそういう概念のもとに読んだ大藪春彦は余りにも刺戟的だった。そこにはゴルゴ13や当時から好きだった妖しげな劇画の世界が拡がっていた。そのころのミステリーといえば最早、仕掛けや謎解きの妙技が希薄になりつつあった。社会派ミステリーが台頭していた頃で、松本清張や森村誠一が持て囃され、彼らの著作が飛ぶように売れていた。しかし松本清張や森村誠一の作品がミステリーとして劣っているといっているのではない。むしろその逆だ。リアリティーを持ち始めたミステリーは、最早かつて僕等が血湧き肉踊らされた冒険譚とは異質なものへと変わり、より現代に直結した身近なストーリーが展開していた。僕等が子供の頃に読んでいたものとは根底から様変わりしたミステリーは、絵空事の風変わりな探偵小説とは違い、探偵役の主人公が警察関係の人間ではなく、そういったものから明らかに遠い存在の一般市民であったりする場合が多かった。

 日本での銃規制と科学捜査がミステリーからミステリーらしさを奪っていった要因のひとつだ。だから探偵が銃を所有しているようなミステリーはリアリティーを欠いてしまうし、もしそのような書物が公然と売られているようなら、僕等は即刻、興醒めをしてしまうに違いない。これ程科学捜査が進んだ現代の警察で、見当違いなトリックを提示すれば、これもまたリアリティーを欠き、途端にミステリーとは別物の読物となってしまう。ミステリーとは制約があってこそ楽しめる読物なのである。「壮大な絵空事を書く為には、ある程度、真実を書かないと駄目だ」。これは船戸与一が直木賞授賞後の某テレビ番組で言った言葉だ。この言葉は即ち、ミステリーの終焉を暗示しているように思う。大藪春彦から銃と車を取ったら何も残らない。かつてそのように揶揄した評論家がいたが、だったらそのふたつを取ったら大藪文学にはならないのではないかと反論したい。一つだけミステリーに可能性を求めるならそれはハードボイルドの世界に於いてである。大藪春彦に、かつて血湧き肉踊る感覚を再び呼び覚まさせてくれた、途轍もなく骨太で、男らしく孤独なハードボイルドという文学に触れたあの頃、十代の少年だった僕は、30歳を過ぎた頃に再び、船戸与一という作家の数々の名著に触れ、そしてその強靭な世界観に夢中になった。正確に言うのなら『藪枯らし純次』はハードボイルドではないかもしれない。自らの境遇を呪い帰郷した男が復讐を企てるのではないかと恐れた村人達が、興信所勤務の私こと高倉圭介に通称藪枯らし純次と呼ばれる若宮純次の動向を探り、監視するように依頼する。語り部が一人称となっているところが、辛うじてハードボイルド体裁を取り繕っているが、物語全体を読み進めて行くと、著者にそれほどの意識はないように思う。ハードボイルドというよりも、どちらかといえばホラー色が強く、赤猿温泉郷という寂れた温泉地で巻き起こる怪事があたかも横溝ワールドを髣髴させる。

 かつて僕等はミステリーをその淫靡で怪奇な世界に魅せられ貪るように読んだ記憶がある。村の閉鎖感や因習、祟り、呪われた血、それらがミステリーの骨格を形作っていた。戦後、横溝正史は疎開先で村に伝わる伝説や悪しき習慣、根強く残る封建的な世界を夜な夜な酒宴の席で村人の口から知り、ミステリーのヒントを得た。壮大な長篇推理小説の題材はそこかしこに転がっていた。日本という国を知りたければ、僕は横溝正史という作家の本を読めと薦めている。特に『八つ墓村』と『本陣殺人事件』はミステリーとしても秀逸だが、日本の文化を知る上でも最適と公言しておこう。『藪枯らし純次』には横溝正史が描いた世界がある。エロスとホラーは実は表裏一体だ。同時にそれはミステリーには欠くことのできない要素のひとつでもある。

 大藪春彦という偉大な作家がこの世を去り、西村寿行という巨星が堕ちて、僕は途端に文学そのものに興味を喪いつつあった。それを救ってくれたのが、船戸与一という、唯一日本という国でハードボイルドを継承している作家の著作だった。横溝正史の死が僕にこの文学に向かう事を教えてくれた。大藪春彦の死で一度奈落へ落とされたような感覚を味わったが、西村寿行の死で、たった一人残された偉大なストーリーテーラーの名前をもう一度再確認する事ができた。僕は『藪枯らし純次』を読んでいる。漸く半ばまで読み終わった。中盤から後半は奇想天外などんでん返しがある事を期待しながら読み進めたい気持ちで一杯だ。彼が生きている限り、しばらく活字中毒の名は返上しないでおこうと思っている。