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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

じじの受洗願いの事(ペトロⅠ5;7)

2008-01-11 11:57:41 | ペトロⅠ、Ⅱ
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
神が、
あなたがたのことを心にかけてくださるからです。
                   (ペトロⅠ5;7)
           

今日は1月11日。


先日、
じじから牧師先生に受洗を願い出た事を聞いた時、
本人の意向なのか
誕生日に一番近い日曜日に受洗式を、
その日は仕事を休めますか?と
牧師先生からメールを頂いていた。
そうか。
もうあと1ヶ月。


実は、
その話を聞いた夜のうちに
私は授洗式の延期を牧師先生にメールで提案した。
何故誕生日に近い日曜日受洗したいのか。
イースターではダメか。


私はじじ本人の口から受洗の意向を聞いた。
受洗の意味も
キリストを信じる事についても、
父が何処まで理解しているかはわからない。
しかしそれについては
私自身、
自分の受洗当時を振り返ると
何ひとつわかっていなかったし
信仰は理解とは別物と思うし、
父が教会を自分の居場所と認識したのは間違いない。


じじが信仰告白をちゃんと出来るのか、
皆の前でちゃんと自分の信仰を語れるのか、
教会が
ただ楽しいだけの都合のいい事ばかりではない事を
じじが現実に何処まで受け入れているのか、
いろいろと心配に思うところはあるが
牧師先生とじじとの間で確認した事なら
それで良いと思う。


その夜、
自分のブログに
父の生い立ちと
父に影響のあったと思われる信仰者との関わりをまとめた。
私が父を教会に連れて来たのではない。
父には昔、
キリスト者と出会って感銘を受けた経験がある。
それを私が聞いた範囲でまとめた。


受洗の日程は、
2月の10日予定という事だったが
早くないだろうか?
イースターでは遅過ぎるのだろうか?
老い先短い人の受洗を延期すると
洗礼式の前にポックリ逝ったら後悔するかも知れない。


しかし、
長い間私達の教会に通い続けている、
ある心の病を抱えた若い求道者のお母さんが
教会の幾つかの集会などに参加し始めている。
そのお母さんや他の求道者達にも声をかけて
一緒に受洗準備会をする事は出来ないだろうか。
そんな思いが浮かんだ。


私がそう思ったのは、
自分自身が16年前に受洗の希望を申し出た時、
受洗の日程を
誕生日に一番近い日曜日に希望した事があったからだ。


それまでの
自分がこの世に生まれた事に対する否定的な感情を
払拭したい思いがあったからである。
じじも同じ事を考えたのだろうか。
じじの生い立ちを考えれば私などの何十倍何百倍も
自分の出生に対する否定的な感情は強かった筈だ。


離婚した生みの母親に置き去りにされ、
祖父母や叔父叔母の家を転々として育ち、
ある時突然引き取られて行った、
気紛れな父親の家には見知らぬ女がいた。
5人、6人と次々入れ替わった何人もの後妻達のうち、
女児1人、男児2人を産んだ女から
小学生だったじじは食事を与えられず虐待されていた。
(男児2人のうち
 先に生まれた1人は1歳で死んだ。)
私は亡くなったじじの叔母からそれを聞いた。
じじの父親の残した手紙には
「役立たずで使えない奴」と蔑んだ表現で
己の息子であるじじを見下した一文がまだ残っている。


この世に遺伝子を残す価値もない愚劣な生き様の通り、
祖父は末期癌の苦痛で発狂し精神病院で
誰一人看取る者なく死んだ。


じじは自分の父親の位牌や遺品を
その腹違いの弟にやってしまった。
それでも長男という現実は消える事無く
じじは祖父の死後、
面倒な事を全部負わなければならなかった。


じじは自分の父親と
自分を排斥した継母を許したのだろうか。
主なる神とじじとの間だけで
やりとりはあったのだろうか。
自分がこの世に生まれ存在している事を認め、
受け入れる事が出来たのだろうか。


恨み辛みと呪詛の源泉である自分の出生日を忘れ去り、
自分がキリスト者として新しく生まれる日を
本物の出生の日にしたいという思いを
私自身は持っていた。
それで受洗の時には
「誕生日に一番近い日曜日を」と申し出たのだった。


今にして考えれば愚かな思い込みに過ぎない。


母教会の牧師先生は
9月の私の受洗希望を聞ききながら洗礼式を延期した。
牧師先生は
当時なかなか受洗に至らず
親達をやきもきさせていた高校生達と一緒に
彼らの学校の試験の日程に合わせて
私の受洗準備会をした。
私は大いに腹を立て、
一度受洗の希望を撤回した。
しかし結局その年のクリスマス、
私は共にテーブルに着いた高校生の一人と一緒に受洗した。


受洗16年にしてしみじみ思う。
一人の信仰者が誕生する時に
一緒に生まれる兄弟姉妹が与えられる事は
後々の信仰生活で大変な励みである。
自分の希望通りに行かない苛立ちを乗り越え
同じ日同じ時に受洗して生まれた兄弟姉妹が
自分にも与えられた恵みを考える。
あの時自分の希望を押し通さないでよかった。
誰かが福音の喜びに与る時、
それを兄弟姉妹達と分かち合うべき事を示されたと思う。


生まれる時は
誰だって何もわかっていない。
誰だって自分の思い通りに出来ない。
だから
キリストが救い主である事以外は
何もわかってなくて良いし
何一つ自分の思い通りにならない、
それでいいのだと思う。


親兄弟なく、
家庭の中で分かち合う事をした経験の無いじじは
誰かと何かを現実に分かち合う事を知らない。
誰かに何かをくれてやる事はあっても
一緒に分かち合う事を知らない。


教会でもじじは
自分と牧師先生との1対1でしか教会に関わっていない。
何らかの形で
他の求道者達と一緒に分かち合いながら
受洗もそれ以後の教会生活もやっていけたら。
これも私個人の思いだけど。


しかしいずれにせよ、
じじの受洗については
私の思いよりも神様の御意志にお委ねする。


一番良い日を
既に神様が用意して下さっている事を
私は確信している。

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