あなたの仰せを味わえば
わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。
(詩篇119;103)
聖書を読むのは楽しい。
面白いから。
聖書を読んで感じた事を分かち合うのは
とことん聖書にはまってる人とするのが楽しい。
イエス・キリストが大好きで
登場人物の誰彼に共感して
笑ったり怒ったり涙する事の出来る人。
聖書を読む事を楽しんで
神に感謝している人。
聖書を読んだ感想は
人のいる場所であまり口に出すべきではない。
何かの場でうっかり口に出すと
「いいお話でした。」とか
「勉強になりました。」とか
「熱心に聖書を学んでますね、
私のような者はとてもとても・・・」とか
分かち合いにならない。
聞き流しながらもがっかりする。
喋んなきゃ良かったと思うし。
聖書を好きで読んで楽しんで、
別に褒められる類のものではないし
聖書を読む行為が
信仰の態度の良し悪しの評価になる訳でもない。
にも関わらず、
聖書を読むと時々変な事を言われたりする。
「熱心ですね」とか
「そんなに勉強しなくても」とか。
受洗して2、3年の頃は特に
母教会以外の人々からよく言われた。
(母教会の牧師先生や年配の教会員からは
受洗したばかりの井上が
『聖書読みの聖書知らず』にならないか
受洗直後の一時は
危機感をもって見られていたらしい。
そのための警告も頂いた。
ありがたい事だ。
でもやがて
私がただの幼稚な聖書おたくで
楽しんでいる事に気づいてくれた。)
聖書を読む事が
成績の良い生徒が勉強熱心な姿勢を
学校の先生から褒められるような
そんな次元の評価をされるべきではないと
私は思う。
誰かに褒められたくて聖書を開くなどは論外。
それなら読まない方がいい。
読む事が虚栄心をくすぐる為だったり
苦行の手段ならば
別の方法で目的を達成出来る。
聖書を道具にしなくてもいいはずだ。
だから
聖書を読む自分も
週刊モーニングを読む自分も同じ。
読みたいから読む。
それ以上でもそれ以下でもない。
受洗からしばらくの間、
聖書にのめり込んで読んだのは
魂が長年の飢え乾きに耐えかねて
目の前に食える物を置かれ、
食べるための機能を与えられて、
ただガツガツと貪ってたのだ。
(腹へってたんだよね。)
ある日、
ゲストとして教会に来ていた80代の女性から
言われた。
「聖書には
貪るなと書いてあります。
たとえ聖書であろうと
貪ってはいけません。
私はもっと読みたい時でも
一日1章で我慢します。」
言いたい事は理解できる。
しかし
それこそパリサイ的発想。
聖書を一日1章しか読んではならないという戒律は
いつ誰が作ったのか。
読みたいから読む。
読みたいから読みたい所まで読み進んで何が悪い。
飢えてるから食って何が悪い。
するなと言われるとしたくなるものだ。
それで
私は聖書を裂いて持ち歩く事にした。
裂いて分冊した聖書を
通勤やバス地下鉄の待ち時間や
通院の待ち時間に常に持ち歩いた。
聖書という、
お弁当と言うかおやつと言うか
飢えを満たすための福音を
そうやって貪って、
受洗から2、3年の間は
年間4、5回くらい通読してた。
小学生がマンガを読み耽るように。
そうやって
いろんな事を感じながら聖書を読み続けた体験が
自分を取り巻く現実を見る時の見方に
自然と角度を変えて影響するようになって来た。
聖書を読む事は勉強ではない。
試験前夜みたいに四六時中聖句を暗誦したり
日常会話の中でいちいち聖書の引用をする必要もない。
息苦しくなったら祈る。
飢えたら聖書読む。
呼吸と食事は生きる事の基本だと教わってきた。
祈りは呼吸、
聖書を読む事は食事。
「聖書を貪るな」と
私を諭した80代の女性は
聖書に書かれている一字一句を
丁寧に味わい、
深く考えて
祈りながら感謝して頂く事の出来る70年間の
信仰生活を生きていた。
その女性が読む一日1章は
受洗2、3年で
聖書の味を知ったばかりだった私の一日1章とは
読む事の意味がまるで違う。
その人が聖書を読むのは
与えられた事を感謝し、
硬く乾いたパンを割って
音と感触を楽しみ、
薫りを喜び、
一口ずつ噛み締めて味わい、
養って下さる御方に心から感謝して
祈りを捧げるのと同じ。
一方、
私が聖書を読むのは
生まれて間もない乳児が
腹を空かせて泣き喚き、
理性も分別もなくガツガツと
味もわからず乳を飲むのと同じだった。
「聖書を貪るな」と
その人から言われた時、
私は思った。
いつかあなたのようになりたい。
わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。
(詩篇119;103)
聖書を読むのは楽しい。
面白いから。
聖書を読んで感じた事を分かち合うのは
とことん聖書にはまってる人とするのが楽しい。
イエス・キリストが大好きで
登場人物の誰彼に共感して
笑ったり怒ったり涙する事の出来る人。
聖書を読む事を楽しんで
神に感謝している人。
聖書を読んだ感想は
人のいる場所であまり口に出すべきではない。
何かの場でうっかり口に出すと
「いいお話でした。」とか
「勉強になりました。」とか
「熱心に聖書を学んでますね、
私のような者はとてもとても・・・」とか
分かち合いにならない。
聞き流しながらもがっかりする。
喋んなきゃ良かったと思うし。
聖書を好きで読んで楽しんで、
別に褒められる類のものではないし
聖書を読む行為が
信仰の態度の良し悪しの評価になる訳でもない。
にも関わらず、
聖書を読むと時々変な事を言われたりする。
「熱心ですね」とか
「そんなに勉強しなくても」とか。
受洗して2、3年の頃は特に
母教会以外の人々からよく言われた。
(母教会の牧師先生や年配の教会員からは
受洗したばかりの井上が
『聖書読みの聖書知らず』にならないか
受洗直後の一時は
危機感をもって見られていたらしい。
そのための警告も頂いた。
ありがたい事だ。
でもやがて
私がただの幼稚な聖書おたくで
楽しんでいる事に気づいてくれた。)
聖書を読む事が
成績の良い生徒が勉強熱心な姿勢を
学校の先生から褒められるような
そんな次元の評価をされるべきではないと
私は思う。
誰かに褒められたくて聖書を開くなどは論外。
それなら読まない方がいい。
読む事が虚栄心をくすぐる為だったり
苦行の手段ならば
別の方法で目的を達成出来る。
聖書を道具にしなくてもいいはずだ。
だから
聖書を読む自分も
週刊モーニングを読む自分も同じ。
読みたいから読む。
それ以上でもそれ以下でもない。
受洗からしばらくの間、
聖書にのめり込んで読んだのは
魂が長年の飢え乾きに耐えかねて
目の前に食える物を置かれ、
食べるための機能を与えられて、
ただガツガツと貪ってたのだ。
(腹へってたんだよね。)
ある日、
ゲストとして教会に来ていた80代の女性から
言われた。
「聖書には
貪るなと書いてあります。
たとえ聖書であろうと
貪ってはいけません。
私はもっと読みたい時でも
一日1章で我慢します。」
言いたい事は理解できる。
しかし
それこそパリサイ的発想。
聖書を一日1章しか読んではならないという戒律は
いつ誰が作ったのか。
読みたいから読む。
読みたいから読みたい所まで読み進んで何が悪い。
飢えてるから食って何が悪い。
するなと言われるとしたくなるものだ。
それで
私は聖書を裂いて持ち歩く事にした。
裂いて分冊した聖書を
通勤やバス地下鉄の待ち時間や
通院の待ち時間に常に持ち歩いた。
聖書という、
お弁当と言うかおやつと言うか
飢えを満たすための福音を
そうやって貪って、
受洗から2、3年の間は
年間4、5回くらい通読してた。
小学生がマンガを読み耽るように。
そうやって
いろんな事を感じながら聖書を読み続けた体験が
自分を取り巻く現実を見る時の見方に
自然と角度を変えて影響するようになって来た。
聖書を読む事は勉強ではない。
試験前夜みたいに四六時中聖句を暗誦したり
日常会話の中でいちいち聖書の引用をする必要もない。
息苦しくなったら祈る。
飢えたら聖書読む。
呼吸と食事は生きる事の基本だと教わってきた。
祈りは呼吸、
聖書を読む事は食事。
「聖書を貪るな」と
私を諭した80代の女性は
聖書に書かれている一字一句を
丁寧に味わい、
深く考えて
祈りながら感謝して頂く事の出来る70年間の
信仰生活を生きていた。
その女性が読む一日1章は
受洗2、3年で
聖書の味を知ったばかりだった私の一日1章とは
読む事の意味がまるで違う。
その人が聖書を読むのは
与えられた事を感謝し、
硬く乾いたパンを割って
音と感触を楽しみ、
薫りを喜び、
一口ずつ噛み締めて味わい、
養って下さる御方に心から感謝して
祈りを捧げるのと同じ。
一方、
私が聖書を読むのは
生まれて間もない乳児が
腹を空かせて泣き喚き、
理性も分別もなくガツガツと
味もわからず乳を飲むのと同じだった。
「聖書を貪るな」と
その人から言われた時、
私は思った。
いつかあなたのようになりたい。