すべての祈りと願いを用いて、
どんなときにも御霊によって祈りなさい。
そのためには絶えず目を覚ましていて、
すべての聖徒のために、
忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ人6;18)
信仰を持たない人の目に、
信者の私はどう映っているだろう。
特に祈る時の私は。
聖書を読み、祈りを共にする集会の恵みは大きい。
聖書を読むことが食事ならば、
祈りは呼吸だというのは本当かも知れない。
ただし生命維持のために、呼吸は食事よりも重要だ。
教会の夜の集会に来た頃の私はキリストに関心はあっても
「クリスチャン」という人種が嫌いだった。
特に「祈るクリスチャン」が。
信仰を持たない私の目に映った「クリスチャン」達の
祈りの行為は、
不潔な自己陶酔以外の何ものでもなかった。
日頃は付き合いもなく挨拶程度の顔見知りでありながら、
私が入院すると病室に突然やって来た人がいた。
「井上さんが救われますように」と人の頭の上で祈り、
満足げに笑みを浮かべたその「クリスチャン」に、
心底むかついた。
宗教狂いの自己満足のダシにされたような、
消えない嫌悪感を味わった。
彼らはこれ見よがしに「あなたのために祈ります」と言って
ベッドから下りられない人の頭の上で祈るのを好む。
病人の弱みを利用してまで
天使か聖者にでもなった気分を味わいたいか。
そんなに自己満足したいか。
逃げも隠れもできない病人の痛み弱みを利用してまで。
最低だ。
何年も経って、知人の家庭集会に参加していた私に、
自分の教会でも夜集まって新約を読んでいるからと
誘ってくれた人がいた。
私は理不尽にもその人に入院時の恨みをぶちまけた。
「押し付けがましくて相手の気持ちに配慮もない。
無神経で最低の行為だ。
心身弱っている時だけは絶対に近寄って貰いたくない人種だ。
あなたのためにとか言って、自分が満足したいだけ。
そういう人種に何事か祈って貰いたいと思う人がいるのか。
それも自分が心身弱っている時に。」
毒づく私の話を黙って聞いていたその人はぽつりと言った。
「でも教会では…牧師先生が一人一人のために祈ってくれて、
自分達もお互いのために祈り合って、
自分はそれでほっとする。
だから自分のためにも祈って欲しいと思う。
これまでも自分はそうやって励まされてきた。」
何が違うのだ。どこが違うのだ。
私はその人と自分との間の「祈り」の違いを模索した。
模索するうちに
私自身も結局は忌み嫌うべき「祈る者」になってしまった。
それから間もなく
私はその人が誘ってくれた教会の夜の集会に定着し、
自分がした批判を自分で受ける立場になった。
その頃教会の夜の集会は参加者が僅かで、
牧師夫妻の他に参加者は近隣の教会員が一人か二人だった。
教会員全員の人数からみると、
実に何十分の一にも満たない貧しい参加率だった。
集会は、聖書を1章だけ輪読して疑問や感想を述べ、
課題を出し合って祈る。
たった1時間半の簡素な集会である。
私はそこで何度もとりなしの祈りに励まされた。
営業職や事務職しか経験のないところから、
初めて看護助手として医療現場に飛び込もうとする時には
その仕事が自分に出来るかどうか迷い、
飛び込んでからは
壊疽を生じた大腿切断の傷口の腐敗に怖気づき、
これを書いている今の私に平気なあらゆる事が
その当時の私には心底辛く、
意気消沈しながら夜の集会に参加した。
牧師と教会員達が私のためにも祈ってくれた。
それでまた一週間、頑張る事が出来た。
ある日、私は夜の集会に欠席の連絡を入れた。
友人の長女の手術日だった。
4歳児の心房中隔に十円玉ほどの穴が開いていた。
私は電話で牧師に事情を話し、
「祈って下さい」とお願いした。
手術の無事を見届けた帰り、
地下鉄を降りるとちょうど集会の終わる時刻だった。
もう誰もいないだろうと思いながら
ふらりと教会に行ってみた。
窓にはまだ明かりが点いていた。
集会の小部屋のドアを開けると、
牧師夫妻が聖書を開いて座っていた。
他には誰も来ていなかった。
いつもの参加者は、一人は残業で来られない、
もう一人は体調が悪くて寝込んでいると、
それぞれ欠席の連絡があったという。
私も事前に欠席の連絡を入れてあった訳だから、
つまり牧師夫妻以外は誰も来ない事がはっきりしていたのだ。
誰も来ないと分かっていても牧師夫妻は
集会の時間になると教会に明かりを点け、ストーブを燃やし、
聖書と賛美歌を机に積み上げて準備していたのだろうか。
皆が来ないと分かっているのに
いつもこうやって準備するんですかと尋ねる私に、
牧師先生は答えた。
「神様が突然誰かを送って下さるかも知れないから、
いつ誰が来ても迎えられるように準備するんです。
それが私達の務めなんですよ。」
欠席のはずの私の来訪に驚かず、
一緒に感謝の祈りを捧げて下さった。
私はもう気紛れな客である事をやめようと思った。
目を覚ましていて灯を絶やさず迎える者になりたかった。
これが聖日礼拝を守る最初の動機となった。
仕事や雑事で礼拝に出席できない日にはその事を考える。
どんなときにも御霊によって祈りなさい。
そのためには絶えず目を覚ましていて、
すべての聖徒のために、
忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ人6;18)
信仰を持たない人の目に、
信者の私はどう映っているだろう。
特に祈る時の私は。
聖書を読み、祈りを共にする集会の恵みは大きい。
聖書を読むことが食事ならば、
祈りは呼吸だというのは本当かも知れない。
ただし生命維持のために、呼吸は食事よりも重要だ。
教会の夜の集会に来た頃の私はキリストに関心はあっても
「クリスチャン」という人種が嫌いだった。
特に「祈るクリスチャン」が。
信仰を持たない私の目に映った「クリスチャン」達の
祈りの行為は、
不潔な自己陶酔以外の何ものでもなかった。
日頃は付き合いもなく挨拶程度の顔見知りでありながら、
私が入院すると病室に突然やって来た人がいた。
「井上さんが救われますように」と人の頭の上で祈り、
満足げに笑みを浮かべたその「クリスチャン」に、
心底むかついた。
宗教狂いの自己満足のダシにされたような、
消えない嫌悪感を味わった。
彼らはこれ見よがしに「あなたのために祈ります」と言って
ベッドから下りられない人の頭の上で祈るのを好む。
病人の弱みを利用してまで
天使か聖者にでもなった気分を味わいたいか。
そんなに自己満足したいか。
逃げも隠れもできない病人の痛み弱みを利用してまで。
最低だ。
何年も経って、知人の家庭集会に参加していた私に、
自分の教会でも夜集まって新約を読んでいるからと
誘ってくれた人がいた。
私は理不尽にもその人に入院時の恨みをぶちまけた。
「押し付けがましくて相手の気持ちに配慮もない。
無神経で最低の行為だ。
心身弱っている時だけは絶対に近寄って貰いたくない人種だ。
あなたのためにとか言って、自分が満足したいだけ。
そういう人種に何事か祈って貰いたいと思う人がいるのか。
それも自分が心身弱っている時に。」
毒づく私の話を黙って聞いていたその人はぽつりと言った。
「でも教会では…牧師先生が一人一人のために祈ってくれて、
自分達もお互いのために祈り合って、
自分はそれでほっとする。
だから自分のためにも祈って欲しいと思う。
これまでも自分はそうやって励まされてきた。」
何が違うのだ。どこが違うのだ。
私はその人と自分との間の「祈り」の違いを模索した。
模索するうちに
私自身も結局は忌み嫌うべき「祈る者」になってしまった。
それから間もなく
私はその人が誘ってくれた教会の夜の集会に定着し、
自分がした批判を自分で受ける立場になった。
その頃教会の夜の集会は参加者が僅かで、
牧師夫妻の他に参加者は近隣の教会員が一人か二人だった。
教会員全員の人数からみると、
実に何十分の一にも満たない貧しい参加率だった。
集会は、聖書を1章だけ輪読して疑問や感想を述べ、
課題を出し合って祈る。
たった1時間半の簡素な集会である。
私はそこで何度もとりなしの祈りに励まされた。
営業職や事務職しか経験のないところから、
初めて看護助手として医療現場に飛び込もうとする時には
その仕事が自分に出来るかどうか迷い、
飛び込んでからは
壊疽を生じた大腿切断の傷口の腐敗に怖気づき、
これを書いている今の私に平気なあらゆる事が
その当時の私には心底辛く、
意気消沈しながら夜の集会に参加した。
牧師と教会員達が私のためにも祈ってくれた。
それでまた一週間、頑張る事が出来た。
ある日、私は夜の集会に欠席の連絡を入れた。
友人の長女の手術日だった。
4歳児の心房中隔に十円玉ほどの穴が開いていた。
私は電話で牧師に事情を話し、
「祈って下さい」とお願いした。
手術の無事を見届けた帰り、
地下鉄を降りるとちょうど集会の終わる時刻だった。
もう誰もいないだろうと思いながら
ふらりと教会に行ってみた。
窓にはまだ明かりが点いていた。
集会の小部屋のドアを開けると、
牧師夫妻が聖書を開いて座っていた。
他には誰も来ていなかった。
いつもの参加者は、一人は残業で来られない、
もう一人は体調が悪くて寝込んでいると、
それぞれ欠席の連絡があったという。
私も事前に欠席の連絡を入れてあった訳だから、
つまり牧師夫妻以外は誰も来ない事がはっきりしていたのだ。
誰も来ないと分かっていても牧師夫妻は
集会の時間になると教会に明かりを点け、ストーブを燃やし、
聖書と賛美歌を机に積み上げて準備していたのだろうか。
皆が来ないと分かっているのに
いつもこうやって準備するんですかと尋ねる私に、
牧師先生は答えた。
「神様が突然誰かを送って下さるかも知れないから、
いつ誰が来ても迎えられるように準備するんです。
それが私達の務めなんですよ。」
欠席のはずの私の来訪に驚かず、
一緒に感謝の祈りを捧げて下さった。
私はもう気紛れな客である事をやめようと思った。
目を覚ましていて灯を絶やさず迎える者になりたかった。
これが聖日礼拝を守る最初の動機となった。
仕事や雑事で礼拝に出席できない日にはその事を考える。