わたしについて来たい者は、
自分を捨て、
自分の十字架を背負って
わたしに従いなさい。(マタイ16;24)
『キリストにならう』バルバロ訳(ドン・ボスコ社1967年)
ある人からこの本を見せて貰った時、
最初にこのページが目に飛び込んで来た。
自分の事を言われていると思った。
11.イエズスの十字架を愛する人は少ない
イエズスの天の国を愛する人は多いが、
その十字架をになおうとする人は少ない。
慰めを望む人は多いが、
苦しみをのぞむ人は少ない。
イエズスと共に食卓につきたい人は多いが、
イエズスと共に断食する人は少ない。
キリストと共に楽しむことをのぞむが、
キリストのために、
何ごとかを忍ぼうとする人は、
すくない。
多くの人はその奇跡に驚嘆する、
しかし十字架のはずかしめ迄つき従う人は、
すくない。
多くの人は不幸が来ない限りイエズスを愛し、
慰めを受けている限り彼を祝する。
しかしイエズスが姿をかくし、
暫くの間でも、彼らから離されると、
不平をいい、ひどく落胆する。
しかし、
イエズスから受ける慰めのためではなく、
イエズスをイエズスとして愛している人は、
患難や苦しみのときにも、
慰めのときと同様に、かれを賛美する。
そしてイエズスがいつまでも慰めを与えなくても、
かれらはいつも、感謝と賛美を怠らない。
(『キリストにならう』バルバロ訳
ドン・ボスコ社 1967年より)
私自身とイエス・キリストについて考える。
今の私は、
目先の問題や日常の様々な問題、
足りない事、
不愉快な事、
我慢しなければならないならない事、
疲れた事、
解決できない問題について嫌気が差し、
今まだ生きている事自体に嫌気が差し、
生きろ生きろと急かされ追い立てられて仕方なく生きて、
しなければならない事を仕方なくしている、
そんな人間だ。
最近は祈り求める姿勢すら失っている。
牧師批判をして教会を立ち去った人のような、
祈って拝み倒すほどの熱意もない。
私という人間は困難や欠乏に直面して途方に暮れても、
祈る前から諦めて期待しない、待たない、そんな者だ。
それでも私はイエス・キリストが
こちらに手を差し伸べておられるのを感じている。
感じていながら御手が遠いと不満に思っている。
自分の魂の危機を感じる時、
私は立ち返るために昔の自分を思い出そうと試みる。
キリストについて何一つ知識がなく、
信じる事と祈る事を教えてくれる人も身近に無く、
聖書の文字を読む事すら出来ない子供だった時の自分を。
キリストを知るための手掛かり足掛かりもなかったのに、
キリストが何かしてくれるという認識すらなかったのに、
テレビの白黒画面の中の
十字架に架けられたイエス・キリストが
ただイエス・キリストだというだけで
追い求めていた頭の変な子供。
イエス・キリストが誰なのかも知らないのに追い求め、
御姿を思い描き、
英語教室のあった教会の
入り口の棚の聖書を内緒で開き盗み見て、
読めない文字を読もうとした、
不健康な子供らしくない子供。
今、キリスト者でありながら心を病み腐らせている私は、
あの飢えた子供の心理に立ち返りたいと思う。
無心にイエス・キリストを慕い、
追い求めていた子供の心理に。
そして、賛美歌の歌詞を反芻したりする。
主は命を与えませり
主は血潮を流しませり
その死によりてぞ我は生きぬ
我何をなして主に報いし
主は御父の元を離れ
侘しき世に住み給えり
かくも我が為に栄えを捨つ
我は主の為に何を捨てし
(賛美歌332 日本基督教団出版局)
自分が慰めを得るためではなく、
イエス・キリストをイエス・キリストとして愛する。
あの時の子供は
イエス・キリストが自分に
何かしてくれるからという理由で
追い求めていたのではなかった。
ただ訳もわからずイエス・キリストが好きで
後を追いかけようとしていただけだった。
そんな
キリストについて何も知らなかった時の私の方が
今現在の私よりもキリストをもっとよく知っていて、
キリストともっと親しくて、
キリストをもっと愛していた。
だから私はそこに立ち返りたいと思う。
自分を捨て、
自分の十字架を背負って
わたしに従いなさい。(マタイ16;24)
『キリストにならう』バルバロ訳(ドン・ボスコ社1967年)
ある人からこの本を見せて貰った時、
最初にこのページが目に飛び込んで来た。
自分の事を言われていると思った。
11.イエズスの十字架を愛する人は少ない
イエズスの天の国を愛する人は多いが、
その十字架をになおうとする人は少ない。
慰めを望む人は多いが、
苦しみをのぞむ人は少ない。
イエズスと共に食卓につきたい人は多いが、
イエズスと共に断食する人は少ない。
キリストと共に楽しむことをのぞむが、
キリストのために、
何ごとかを忍ぼうとする人は、
すくない。
多くの人はその奇跡に驚嘆する、
しかし十字架のはずかしめ迄つき従う人は、
すくない。
多くの人は不幸が来ない限りイエズスを愛し、
慰めを受けている限り彼を祝する。
しかしイエズスが姿をかくし、
暫くの間でも、彼らから離されると、
不平をいい、ひどく落胆する。
しかし、
イエズスから受ける慰めのためではなく、
イエズスをイエズスとして愛している人は、
患難や苦しみのときにも、
慰めのときと同様に、かれを賛美する。
そしてイエズスがいつまでも慰めを与えなくても、
かれらはいつも、感謝と賛美を怠らない。
(『キリストにならう』バルバロ訳
ドン・ボスコ社 1967年より)
私自身とイエス・キリストについて考える。
今の私は、
目先の問題や日常の様々な問題、
足りない事、
不愉快な事、
我慢しなければならないならない事、
疲れた事、
解決できない問題について嫌気が差し、
今まだ生きている事自体に嫌気が差し、
生きろ生きろと急かされ追い立てられて仕方なく生きて、
しなければならない事を仕方なくしている、
そんな人間だ。
最近は祈り求める姿勢すら失っている。
牧師批判をして教会を立ち去った人のような、
祈って拝み倒すほどの熱意もない。
私という人間は困難や欠乏に直面して途方に暮れても、
祈る前から諦めて期待しない、待たない、そんな者だ。
それでも私はイエス・キリストが
こちらに手を差し伸べておられるのを感じている。
感じていながら御手が遠いと不満に思っている。
自分の魂の危機を感じる時、
私は立ち返るために昔の自分を思い出そうと試みる。
キリストについて何一つ知識がなく、
信じる事と祈る事を教えてくれる人も身近に無く、
聖書の文字を読む事すら出来ない子供だった時の自分を。
キリストを知るための手掛かり足掛かりもなかったのに、
キリストが何かしてくれるという認識すらなかったのに、
テレビの白黒画面の中の
十字架に架けられたイエス・キリストが
ただイエス・キリストだというだけで
追い求めていた頭の変な子供。
イエス・キリストが誰なのかも知らないのに追い求め、
御姿を思い描き、
英語教室のあった教会の
入り口の棚の聖書を内緒で開き盗み見て、
読めない文字を読もうとした、
不健康な子供らしくない子供。
今、キリスト者でありながら心を病み腐らせている私は、
あの飢えた子供の心理に立ち返りたいと思う。
無心にイエス・キリストを慕い、
追い求めていた子供の心理に。
そして、賛美歌の歌詞を反芻したりする。
主は命を与えませり
主は血潮を流しませり
その死によりてぞ我は生きぬ
我何をなして主に報いし
主は御父の元を離れ
侘しき世に住み給えり
かくも我が為に栄えを捨つ
我は主の為に何を捨てし
(賛美歌332 日本基督教団出版局)
自分が慰めを得るためではなく、
イエス・キリストをイエス・キリストとして愛する。
あの時の子供は
イエス・キリストが自分に
何かしてくれるからという理由で
追い求めていたのではなかった。
ただ訳もわからずイエス・キリストが好きで
後を追いかけようとしていただけだった。
そんな
キリストについて何も知らなかった時の私の方が
今現在の私よりもキリストをもっとよく知っていて、
キリストともっと親しくて、
キリストをもっと愛していた。
だから私はそこに立ち返りたいと思う。