goo blog サービス終了のお知らせ 

ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

御手(マタイ13;1~23)

2008-10-01 04:49:55 | マタイ
マタイ13;1~23


『福音の味わい』英隆一朗


石だらけの土地や


茨の生えた土地に


落ちた種が育つように


石を取り除き、茨を抜き、


手をかけ心を配って世話をする


農夫の手。


種である自分に働きかけて下さるその御手を


日々の生活の中で意識し、感じ取る。

じじと読む一日一章(マタイ1;1~25)

2008-04-08 22:27:53 | マタイ
今日からまた
じじと一緒に福音書を読み始めた。


私がじじに話した説明を記録するべく、
7つめのブログを立ち上げた。
私、変な事たくさん喋ってるからなぁ。


今までの
ひまわりの壁紙のブログはじじの受洗まで。
マルコを読み終え洗礼式を無事終えて完結とした。


今日からは新しくマーガレットの壁紙。
こっちは当分長く使い続けるであるよ。
のんびり、ゆっくり、
じじと私が一緒に新約を読み終えるまで使う。


今はもう、
"洗礼式までに間に合うように"という期限がないので
ただ楽しく、
じじが惚れ込んだイエス・キリストに親しんで貰う、
そのために楽しんで読めるようにする。


ゆっくり行こうや。じじ。
一日一章も進まなくていいから、
福音書に親しみ、楽しんで味わおう。


そんな訳でまた珈琲を入れ、
主の祈りと使徒信条を唱え、
私が一言祈ってから聖書を開いた。


マタイ1章の系図。
カタカナの人名の羅列。
でもここは端折らないよ。


じじ、
ルーペで読みながら目を白黒させている。


「何だかさっぱりわかんないでしょう。」


「いやーこれは何が何だかさっぱり。。。。orz」


私も旧約聖書を最初から読み通すまでは
マタイのこの箇所は飛ばして2章から読んでいた。
作家の筒井康隆が
聖書をネタにして『バブリング創世記』を書いた、
まさにそのネタ。
私は筒井康隆に同属Bの匂いを嗅ぎ取って
『バブリング創世記』のカセットテープまでも買い、
今も後生大事に持っているであるよ。w
カセットテープを再生する器械がないので聞けないけど。


「♪ドンドンはドンドコを生み、
 ドンドンの子ドンドコ、ドンドコドンを生み、
 ドンドコドンはドンタタタを生めり・・・」(テキトー)


聖書に馴染んでない人が読んだら
訳の分からない箇所であるに違いない。


「昔、終戦後に伝道師の人達が
 焼け出された人や人生に行き詰った人達を
 訪ねて歩いて、
 新約聖書を配って歩いたんだけどさ、
 キリスト教に興味持ったり入信したいと思って
 この新約を冒頭から読み始めたら
 カタカナの名前ばかりズラズラ並んでて
 聖書読むのを断念したとか挫折したとか、
 そういう話を聞いたよ。」


「そりゃーそうだろう。
 何だかさっぱりわからん。(`´)=3」


「これ、系図なんだよ。
 日本人と同じでさ、
 イスラエルの人達は自分の家系を
 すごく大切にしていたのさ。
 周辺の大国に何度も侵略されたから、
 自分が誰の子孫で系図の何処にいるかは
 大事な事だったんじゃないかな。」


「ほぉ。」


実は、
じじは井上家の一族の系図を大事に持っている。
じじの亡くなった叔母が一族の戸籍を辿って調べ上げ、
約150年ほども遡って徳島のご先祖まで辿り着いた、
手書きの家系図。
100年前に徳島から北海道の手塩に駆け落ちした、
ひいじいさんとひいばあさんの親とその親の親と・・・・
そして子孫はじじも私も妹も載っている。


「キリスト教は
 イエス・キリストを信じれば救われるというのに
 何でこの福音書の冒頭に
 こんな系図が要るかというと、
 このマタイの福音書は
 ユダヤ人達を対象にして書かれたと言われてるのさ。
 十字架で死んで甦ったナザレのイエスが救い主だと
 宣べ伝えようとしても、
 きっとユダヤ人達は突っ込み入れたのかも知れないよ。
 "ナザレのイエスが救い主だぁ?
  救い主はダビデの子孫に決まってるだろう。
  ナザレのイエスとは何処の馬の骨だ?"
 なんて言う人がいたりしてさ、
 イエスを救い主とする根拠を系図という形にしないと
 ユダヤ人達は耳を貸さなかったんじゃないかな。」


「なるほどなぁ。」


「イスラエルの開祖アブラハムから
 イスラエル統一国家の王ダビデまで14代。
 ダビデの王国は繁栄したけど子のソロモンの代から
 大勢の女を囲い込んでハーレム作って、
 その女達が本来のイスラエルの紙への信仰とは別の
 偶像崇拝を持ち込んで、神の怒りに触れて、
 王国は南北に分裂して、
 バビロン、アッシリア、ペルシャ、ローマなど
 周辺の大国の侵略を受けたのさ。
 バビロンへは捕囚と言って
 生き残った人達がバビロンに連行されて
 長い間戻って来れなかったんだよ。
 そのダビデからバビロン捕囚までが14代、
 バビロン捕囚からイエス・キリストまでが14代だって。
 そうやって説明しないと
 その先の福音に耳を傾けなかったユダヤ人達がいて、
 そんな頑固な、
 イエスを十字架に磔にして殺したユダヤ人達に
 イエスの教えを広めようとして、
 マタイは福音書をまとめたんだよ。
 イエスの父ヨセフはダビデの系列の人だったのさ。」


「家系図を大事にするというのは、
 日本人と似てるなぁ。」


「うん。
 言えてるね。」


イエスの誕生の箇所。
信仰者ヨセフについて。


「お父さん、どう思う。
 自分の婚約者である女がさ、
 自分に心当たりもないのに結婚しないうちから
 腹が大きくなってしまったら。」


「それは・・・どうって言われても・・・」


「この時代のイスラエルでは、
 姦淫の罪を犯した女は
 公衆の面前に引き摺り出して
 石ぶつけて死刑にしたのさ。
 それが規則だった。
 でも、ヨセフは表沙汰にして
 マリアが死刑になるのを望まなかったとある。」


「そうだな。」


「規則を守ってマリアを晒し者にして
 死刑にする事をしないで
 表沙汰にしないで密かに離縁しようとした、
 そういうヨセフを
 マタイは"正しい人だったので"と言ってる。
 律法ではマリアを死刑にするのが正しいけど
 憐れみ深い神様の前ではヨセフが正しいよね。」


「うん。そうだな。」


「ヨセフは悩んだと思うよ。
 死刑にしなくたって、
 結婚前に腹が大きくなって離縁されただけでも
 一族から"お家の恥"とか言われて追い出されて
 野垂れ死にする事になったと思うよ。」


「そうだろうな。」


「ヨセフは聖書の中では地味なんだけど
 立派な信仰者だと思わない?」


「うん。そうだ。」


「自分がどうするべきか、
 どうすれば神様の御心に適うか、
 常に心を神に向けて祈っていたと思う。
 その時だけでなくて、
 常日頃からそういう信仰姿勢を持ってたと思う。
 だから天使が夢に現れて神様の御旨を告げたら
 言われた通りに実行出来たんだよ。」


「そうだな。」


「だって簡単な事じゃないと思わない?
 自分のでない子供が腹にいる女を
 妻として娶って、
 この後凄い苦労を背負うんだよ。
 住民登録の旅の途中で赤ん坊が生まれてしまって
 ヘロデ王の刺客に命を狙われて
 着の身着のまま外国に亡命して
 食うや食わずの難民生活だよ。
 身分保障もない、言葉も通じない。」


「うーん。」


「自分のでない子供のために
 そこまで出来るかい?」


「そう言われてもなあ。。。
 しかし神様からそうしろと言われたら
 仕方ないだろう。」


「仕方なくではなかったと思うよ。
 仕方なく引き取ったら
 継子扱いして虐待したくなるでしょう、誰でも。
 だって子のこのために自分が
 こんな苦労を背負い込んだと思えば。」


じじ、
"継子扱い"という言葉にピクリと反応した。
じじ自身が子供の頃に継母から虐められて
自分の分だけ食事を作って貰えなかった経験がある。


「キリスト教では子供は親の所有物ではないんだよ。
 子供は神様から預かったものとして考える。
 子供を育てる事は、神様に対する責任なのさ。
 ましてヨセフの立場だったら
 神様に対する信仰が確固としてなかったら
 マリアを嫁にする事もイエスを育てる事も
 到底出来なかったんじゃないかな。」


「うん。
 神様にそう言われて
 その通りにしたんだな。」


「生まれて来る子供はこの世で使命があるからね。
 神の御旨を果たすために
 子供を大事に育てなければならないのさね。
 ヨセフの場合、
 生まれて来る子供が自分の子供でなくても、
 天使が民を罪から救う救い主だと言ってるでしょ。
 神様の御用を果たすために、
 ヨセフは忠実に働いて、
 マリアとイエスを養ったんだよ。」


「うーーーむ。( ̄・・ ̄)=3」


じじ、
やたら関心してるけど。どうよ。
ヨセフから見れば、
今の世の中ダメ親父だらけでしょ。


 マリアの胎の子は
 聖霊によって宿ったのである。(1;20)


「お父さん、
 ここほら、さっき唱えた使徒信条に出てるよ。」


「そーだなぁ。」


 「見よ、
  おとめが身ごもって男の子を産む。
  その名はインマヌエルと呼ばれる。」(1;23)


「これは、イザヤ書に書かれてるんだよ。
 イエスが生まれる何百年も昔に
 預言者イザヤが既に言っていたのさ。
 イザヤは、
 さっき系図に出て来たマナセ王に
 首を刎ねられて殺された。
 マナセ王は預言者達を皆殺しにしたのさ。」


「・・・・・(-"-)」


旧約のイザヤ書を開く。
じじ、ルーペで見ながら朗読した。


 それゆえ、
 わたしの主が御自ら
 あなたたちにしるしを与えられる。
 見よ、
 おとめが身ごもって、男の子を産み、
 その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7;14)


「おおー
 出てるなぁ。」


「出てるっしょー。
 おとめが身ごもって・・・・のおとめって、
 結婚前の子供を産んだ事のない女だよ。
 それと、旧約聖書では、
 女が最初に産んだ第一子の男の子は神のもので
 その子は神に捧げられるとされてる。
 だから"おとめが"、というのは
 この女の最初の妊娠で
 初めて胎を開いた男の子だという事を指してる。
 二回目の妊娠で出来た子でもないし、
 女の子でもない、
 神に捧げられるのは、
 一回目の妊娠で生まれる男の子だからね。」


「へぇーそういうものか。」


「そーいうものなのさ。」


では、
この続きはまた次回。

荒野40日(マタイ4;1~11)

2007-11-18 16:34:04 | マタイ
聴き書きノート
FEBC『イエスの生涯を黙想する』(英隆一朗司祭)


洗礼の後、
イエスはすぐには宣教活動しないで荒野に行かれた。
"霊"に導かれて。
"霊"は聖霊。
荒野は、
聖霊に導かれて必然的に通るべき場所だった。


私自身、
この荒れ野の誘惑の箇所は
学生時代から大学の聖書研究会や
教会のいろいろな集会で何度も取り上げられたし
何度読んだか思い出せない。
しかし大学でも教会でも
とことん突き詰めたり掘り下げて考えた事はなかった。


イエスは何故誘惑を受けられたのか。


放送の中で英神父様が言う。
イエスが荒野で誘惑を受けられたのは
宣教の前に、御父の愛に反するものは何かを深く悟って
しっかり見極めるためではないかと。
敵が何なのか、
何が私達を神の愛から引き離すものなのかを
見極めるため。


三つの敵。


1.パン=所有欲
私達の心に愛がなければ、
愛でないもので自分の心を埋めようとする。
所有欲、食、快楽などで
自分の心を守らなければならない事はあり得る。
神の愛か、物質的なものか
どちらかを選ばなければならなくなる。
神の愛を語るその言葉で私達は生きて行ける。


2.神殿の屋根=人からの評価
聖なる都エルサレムの
神殿の屋根から飛び降りたらどうなるだろう。
多くの人から注目を浴び、
人をあっと言わせるような事を人々に見せて
救い主として自分の力を誇示する誘惑。
私達の心に神の愛がなければ
名誉、人からの賞賛、人からの評価で
自分の心を埋めようとしたり
世間的なものの見方、人からどう思われるかに捉われる。
神の目でなく人の目を中心として
根本的に神の愛から離れ、
大きくずれて生きる事になってしまう。
自分の心の中をしっかり識別しなければならない。


3.高い山=傲慢心
この世の繁栄。
立身出世。
人間の傲慢心。
自分を高めたい欲。
人よりも自分の方が上だと思いたい誘惑。
キリスト者で言うなら、
自分が人よりも良い信者だと思いたい誘惑。
表面上は謙遜な風をしていながら自分は偉いと思っている。
私達の心に神の愛がなければ
人間は自分を誇らなければやっていけない。
神の愛を深く感じるなら自分を誇る必要がない。


私達が神の愛だけで生きて行く事は難しい。
私達は弱くて、
神の愛以外のもので自分の心を埋めようとする。
しかし、
イエスはこの三つの"神に反するもの"を退け、
誘惑に勝った。


私達は
誘惑に勝たれたイエスに依り頼んで
自分の心の中の、
自分を動かしているものが何なのかを
よく黙想して見抜くべきである。


英神父様が言うには、
荒野でイエスの前に現れた時点から悪魔はもう負けている。
悪魔は巧妙で決して姿を現さず、
隠れて働く時に最大の力を発揮するから。


私達が
自分の心の中にある罪の根、
自分の心の中にある悪魔の顔を見る事が出来るかどうか。
自分の心のここに悪魔が働いているとわかれば
そこにイエスに来て頂いて勝利する事が出来る。


この荒野の箇所を別の角度からも読んでみる。
イエス様御自身にとっては
どんな誘惑だったのか。
本当に神の愛を伝えるために、
どんな方法をとるべきなのか。


イエスが荒野で誘惑を受けられたのは
宣教の妨げになるものを見極めるためだったとも
読み取る事が出来る。


1.イエスはパンを増やす事が出来た。
しかし人々に物質的満足だけ与えて
神の愛を伝える事が出来るか。


2.イエスは湖の上を歩けたが
弟子の前でしか湖の上を歩かなかった。
人前で高い所から飛び降りたり
水の上を歩いてびっくりさせて
神の愛を伝える事が出来るか。


3.神の国を実現するなら
より有能な人材を集めて自分が王になった方が早かった。
しかしイエスは何も持っていない、
12人の無力な人間を選び弟子として神の愛を実現した。
神の国は能率効率ではない。


イエスは
物質ではなく
派手に人目を引くショーではなく
能率効率ではなく
最も地味な形で神の愛を人々に伝えようとした。


・・・なるほどなぁ。
目からウロコだ。
昔、母教会の教会学校の子供達が
質問していたのを思い出した。


「イエス様は湖の上を歩けたのに
 どうして屋根から飛び降りなかったの?」


では、私自身は。
私は
自分の心の中にある悪魔の顔を
見据える事が出来るだろうか。

洗礼(マタイ3;13~17)

2007-11-17 09:47:14 | マタイ
聴き書きノート
FEBC『イエスの生涯を黙想する』(英隆一朗司祭)


1.キリスト教の根幹
どんな宗教も
出だしは教祖の宗教的体験から始まる。
救い主としてのイエスはここから始まる。
イエスがヨルダン川で洗礼を受けた事は
キリスト教の根幹に関わる事柄であり、
これがキリスト教の出発点。


イエスが洗礼を受けると
天から父なる神の声が聞こえて来た。


 「これはわたしの愛する子、
  わたしの心に適う者」
                (マタイ3;17 新共同訳)


神様の愛し子であるイエス。
イエスの立場から見れば御父から愛されたという体験。
イエスは神の無条件の愛、無償の愛を深く感じられた。
放送の中で英神父様は
これがイエスの核であると話している。
イエスのアイデンティティとは、
神から愛されている子であり、
私達きりスト者の祈りや黙想の全ては、
このイエスの体験に基いている。


御父に愛されたイエスの体験を
私達はどれだけ追体験できるか。
私達はイエスの体験にどれだけ与れるか、
どれだけイエスの体験を深く味わい、
どれだけ自分の基盤をそこに置く事が出来るか。
どれだけ自分を
イエスのアイデンティティに近づける事が出来るか。
自分が神様から愛されている事を
どれだけ感じ取る事が出来るか。


神の愛を深くつかみ感じ取る事が出来るなら
私達の殆どの問題は消えてしまうと言える。
何故ならこの世の苦しみの殆どは愛のない苦しみだから。
夫婦、子供、国と国・・・。
神がどれだけ私達一人一人を愛しておられるか
自分がどれだけ神様から愛されているかを感じ取る。
キリスト者の祈りと生活の全てがそこにかかっている。


・・・という話だが
16年前に洗礼を受けた時、
私自身は神様から愛されている事を
感じ取っていただろうか。
というか、
何もわかっていなかったな。
何もわかっていなかったにも関わらず
何で洗礼を受けたのか?
わかってはいなかったけど
何か感じてはいた。
全然わかっていなかったけど
動物の臭覚のような何かが働いて
何かを感じ取って
光のある方角へ
手探りで向かおうとした。


私に洗礼を授けてくれた牧師先生が言っていた。


 「私達はキリスト者として
  何もかも理解して
  完成して洗礼を受けるのではないんです。
  私達は一生涯かけて
  キリスト者になっていくんです。」
                 (1996.12.A牧師)


2.自分を捨てる
水に沈み、水から出る。
通過儀礼としての洗礼には死のイメージがある。
古い自分に死んで、
水から上がって新しい人として生まれる。
"水に沈む"とは苦痛を伴う通過儀礼である。
わざと苦痛を伴う事をして罪を清め、
自我を落とす為に行なう通過儀礼。


しかし、
意識的に苦行をしなくても
私達の人生には様々な苦しみがある。
日々の生活の中で
私達は望まなくても
突然水の中に突き落とされる体験を
せざるを得ない現実がある。


ある人は
苦しい体験の中で黙想し、
"自分を捨てよ"(マタイ16;24、マルコ8;34)
という言葉が心に響いた。
自分を捨てる。
それを決心した途端、変わった。
現実の苦しみは何も変わらないが
神が共にいて下さり至福の時を味わった。
神様の無償の愛を深く感じ取った。


イエスはそれを体験された。
"天が開いた"とは心が開いた事だ。
心が開いて神の愛を感じ取る事が出来た。
私達にもその道が開かれている。
水に沈む決意。
自分を捨てる決意。
私達は水に沈む事を恐れる必要はない。


私は洗礼を受ける時に
自分ではそんな事わかっていなかった。
キリスト者になって16年、
求道者に洗礼を勧めたりするけど、
自分自身がどこまで深く感じ取って
勧めてきただろうか。


3.イエスが洗礼を受けた理由
バプテスマのヨハネが授ける罪の悔い改めの洗礼を
罪を犯さないイエスは何故受けたか。


連帯するため。


私達と連帯し、
私達の罪を担うために、
イエスは水に沈まれた。
そして水から上がられた。
イエスの受洗は、
十字架に架けられて死に、復活される事を予告している。
私達も神の恵みを受け
神の子としてこのイエスを黙想し、
イエスと共に歩んで行きたい。


・・・私にとって
子供の時分の昔から
信じる信仰の対象がイエスでしかあり得なかったのは、
イエスが連帯して下さるからだと思う。
共感し、同伴して下さるイエスを
理解は出来なくても
感じ取っていたのかも知れない。

子供(マタイ2;13~23)

2007-11-09 14:54:00 | マタイ
聴き書きノート
FEBC『イエスの生涯を黙想する』(英隆一朗司祭)


心理学で、
人の一生に決定的な影響を及ぼすのは
3歳頃までの体験だと聞いた。
イエスはその年齢の頃、
エジプトで難民として苦しい生活をしていた。


放送の中で英神父様は一つの見方を提示している。
物凄く鋭いと感じたのでここに紹介する。
(放送を耳で聴いて書き取ったノートなので
 聴き取り切れず不十分なところがあります。
 いずれCDが発売されると思うので
 その時は是非買って聴いて下さい。)


自分達が体験した子供時代の苦しみは
イエスの子供時代の苦しみと重なっている。
だからこそ私達は
過去にがっかりする必要は無い。
過去の体験を否定的に受け止めたり捉われる必要は無い。
イエスもおそらく子供時代に同じように苦しまれた。
その苦しい子供時代に体験したあらゆる辛い出来事や
貧しい人々の苦しみを身近で見た体験を
イエスは生き方の原動力にしている。


さらに、
イエスはヘロデ大王に殺された、
ベツレヘムとその周辺の2歳以下の
大勢の子供達の痛みをも背負って生きられたとも言える。
聖書では2000年前のヘロデ、
しかし現在では実の親がそれをしている。
ヘロデに殺された子供達の苦しみは
2000年前の苦しみではない。
今の子供達、
今、虐待やいじめ中絶や
ありとあらゆる小さな子供の苦しみを、
一体誰が背負うのか。
幼子イエスは共にいて下さる。
イエスによって
子供時代の苦しみを生きる力に変える可能性が
私達に与えられている。
その事を信じる。


この放送を聴いて、
自分自身について考える。


このブログの書き出しの文章自体が
16年前に書いた受洗直前の自己分析から
そっくり持って来た一文であり、
英神父様が放送の中で話した事は
そのまま現実の私自身に当てはまっている。


  私はキリスト教徒だが、
  キリストとの出会いは私にとって
  あまり気持ちのいいものではなかった。
  キリストは小児期の惨めな記憶と同居している。
  何かの理由で平手打ちされた後、
  深夜になると決まって目が覚めた。
  喉の奥に熱っぽいものが流れて
  口の中に鉄錆臭い味がした。
  枕とシーツが血でべっとりしていた。
  寝具を汚して両親に叱られる事を心配しながら
  ティッシュを探した。
  拭ったところで
  シーツや枕に染み込んだ血は隠せないが。
  家族全員が寝静まった暗闇の中で
  鼻を押さえて血が止まるのを待った。
  朝になって母が私を見るなりぶつぶつ言った。
  「あんたのおかげで気分が悪くなった。」
  私は復活したイエスに無性に会いたかった。
  未熟な信仰の始まりというよりも
  単なる逃避に過ぎなかったが、
  抵抗できない惨めな年齢の間ずっと
  両親に望めない「理解者」を
  私は復活したイエス・キリストに期待していた。
       (「5歳児」2006.7.1『ぱんくず日記』)


イエス・キリストは確かに
子供の頃の自分に同伴して下さっていた。
誰よりも
今の自分よりも
その頃の私自身が一番よく知っていた。

難民生活(マタイ2;13~23)

2007-11-09 13:02:49 | マタイ
聴き書きノート
FEBC『イエスの生涯を黙想する』(英隆一朗司祭)


ヨセフはヘロデ大王の追っ手を逃れて
エジプトに逃げた。


英神父様の表現で言えば
住民登録しにド田舎のナザレから
ベツレヘムにはるばる旅をして
旅の途中で子供が生まれて
そこで生命を狙われて
夜のうちに
着の身着のままで
旅先から遠い外国のエジプトに亡命した。
今でいう政治難民の生活。


聖書の文面に登場しない行間の中の、
ヨセフとマリアの苦難の生活を
その中で育てられた幼少期のイエスの生活を黙想する。


旅先から着の身着のままで命からがら逃れてきた、
経済的に困窮し身分保障も何もない
言葉も通じない外国という環境で
難民として生活する事が
赤ん坊イエスを抱えたヨセフとマリアにとって
どれ程辛く厳しい生活であったか。


聖書の文面には登場しなくても
私達は様々なニュースを通して今現在
身近に見ているではないか。
今のこの時にも
世界中のありとあらゆる所に
水も食糧もなく雨風を防ぐ物もない所で
医者も薬もなく疫病の蔓延する不衛生な所で
迫害や戦禍を逃れ
言葉の違う国で拠り所無く身を寄せ合う人々の姿を
私達は毎日当たり前のように目にしている。


あの中に
生まれたばかりのイエスを抱え
途方に暮れたヨセフとマリアがいる。


イエスは幼少期をそんな環境で育った。
幼少期のイエスはヨセフとマリアの苦労を感じ、
身の回りの同じような外国人の苦しみを
おそらく肌で感じていたであろう。
子供時代のイエスの心を黙想する。


福音書の中で
貧しい人々、病人、罪人に対するイエスの
憐れみと慈しみ、深い愛情があれ程までに豊かに
自然に溢れ出しているのは
イエス御自身が
子供の頃にたくさん苦労したからではないか。
その意味で
イエスの子供時代の経験を黙想する事には意義がある。


頭で考えるまでもなく
日常的に報道などで嫌でも目にするではないか。
苦しい生活をしている難民の子供達を。
あの中に子供時代のイエスがいる。


ここで改めて福音書を読んで思う。
イエスは苦しい生活だった子供時代を
その生き方の、福音宣教の原動力にしている。


自分自身の幼少期を振り返り見直してみる。
自分は何を原動力にして今の人生を生きているだろう。

ヨセフ(マタイ2;14~15)

2007-11-09 11:18:58 | マタイ
聴き書きノート
FEBC『イエスの生涯を黙想する』(英隆一朗司祭)


マタイ2章。
東方から来た占星術の博士達から
イスラエルの王が生まれたと聞いたヘロデ大王は
ベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子を皆殺しにした。


ベツレヘムとエルサレムとはほんの数kmの距離。
ヘロデの手勢が馬で向かえばあっという間に着く。
ベツレヘムでは
生まれたばかりの幼子イエスと母マリアを連れていたヨセフが
夢で天使から危険が迫っている事を告げられた。


 ヨセフは起きて、
 夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
 ヘロデが死ぬまでそこにいた。
            (マタイ2;14~15 新共同訳)


”起きて、夜のうちに”
ヨセフの機転によって
幼子イエスは間一髪でヘロデの刺客から逃れた。
危機を知らせる天使が現れた”夢”とは
ヨセフの眠っている枕元だったのか
ヨセフが祈っている時だったのかはわからない。
身重の妻を連れて
住民登録のためにナザレからベツレヘムに旅をして
その旅先で生まれたばかりの子供と妻とを連れて
夜のうちに外国へ逃げた。
エジプトへ。
旅先から、着の身着のままであった事だろう。
想像したら凄い事だ。


ヨセフの日々の信仰を考える。
マタイの最初の部分で
ヨセフは何度も夢に現れた天使のお告げで
結婚前に身籠った婚約者を妻として迎え入れたり
エジプトに逃げたり
ガリラヤに戻ったりしている。
まるで
野生の動物の臭覚のように
猛禽の視力のように
蛾が星明りで方角を読み取るように
感受性の鋭い信仰者だと思う。


放送の中で英神父様が話した、
ヨセフの神に対する信仰の態度について考える。
ヨセフはぼんやり夢のお告げを待っていたのではない。
祈りの中で彼は神の導きをしっかり聞いていた。
絶えず祈り、神に聞いたからこそ、
ヨセフは危機を脱する事が出来た。
日々の祈りを深め、敏感に直感的に、心の促しを通して
神様の方向へ向かう事で危機を脱する。
ヨセフはそれが見事だった。
研ぎ澄まされた信仰のあり方だと思う。


願うばかりで都合のいい事しか聞きたくない、
鈍くなった自分の心のあり方を考える。

死を意識する(マタイ13;24~30)

2007-10-15 15:45:22 | マタイ
FEBC聴き書きノート
『神との親しみを深めるために
       ―祈りを身につける―』(英隆一朗司祭)


死を意識する。
麦と毒麦を見分けるために。


何が麦で何が毒麦か。
自分にとって現実の日常で見分けるのは難しい。


見知らぬ人を自分に置いてみる。
自分のしてきた事の
何が主を喜ばせ何が主を悲しませるか。
死を前にして一番後悔しない大切なものを選択する。


何が麦で何が毒麦か。
最後の審判の日を思え―何が麦で何が毒麦か。
何が神と自分とをつなぐのか
自分が本当にそれを大切にしているのか。


私達が死を黙想する時に見なければならないのは
十字架上のイエスである。
イエスの死を見つめる事によって力を頂く。


自分のしてきた事の毒麦について考える。
自分のしてきた事の
何が主を喜ばせ何が主を悲しませるか。


毒麦。
嫌々生きている事。
生まれた事にがっかりしている事。
これまでに死ななかった事を失敗と思っている事。
人生に何の展望もない事。
期待したり希望を持ったりしなくなった事。
人生が早く終わらないかと待っている事。
絶望。


では麦は?

焼けた線路(マタイ19;13~15)

2007-07-18 00:35:54 | マタイ
しかし、イエスは言われた。
「子供たちを来させなさい。
 わたしのところに来るのを妨げてはならない。
 天の国はこのような者たちのものである。」(マタイ19;14)


ちょっと前に、
某防衛大臣が長崎の原爆を「仕方がない」と表現して
バッシングを浴びて辞職したりしたので
返って文字に書くのを躊躇っていた。
長崎の原爆について。


数年前、
長崎出身の人から身の上話を聞いた事がある。
考え事をするためによくお邪魔する
近所のカトリックの聖堂で、
その人は親しげに声をかけてきた。
話好きな人だな、と思った。


私の所属する教派にはないロザリオの祈りの話になって、
その人は自分が浦上の出身であると言った。
浦上では何もわからない小さい子供の頃から
理屈も何も無しで
ロザリオは生活の一部だったという話を
その人は私に語った。


ここ北海道とは遠く離れた、
永井隆の本でしか知らない浦上の信徒の
生活の話を聞けるのが私は嬉しかった。
永井隆の著作もほぼ全部買い集めて読んでいた。
子供を残して死んでいかなければならない父親の心情に
胸をえぐられる事もあるけど、
それ以上にもっと日常的な、
生活の土台にキリストへの信仰が根付いている、
浦上の信徒達の素朴な信仰生活が
永井隆の文章から見えて来るようで
私はその素朴さが大好きだ。
その人にそんな事を話した記憶がある。


それから間もなく、
私は腹に腫瘍が発見されて手術した。
入院先までその人は訪ねて来てくれた。
お互いに教会や信仰の話になって、
どこからそんな話になったのか、
その人は自分の生い立ちを語り始めた。
というよりは、
私が突っ込んで聞いたのだ。
カトリック信者であるその人が
幼児洗礼だったのか成人洗礼だったのか、
成人洗礼だったなら
どんな切っ掛けで信仰に導かれたのか。


亡くなった母親によると
その人は幼児洗礼だったらしい。
どんないきさつかはその人自身にもわからないが
母親はカトリックの信徒だと
自分の娘に言っていたという。


「生まれた時、
 私は長崎の教会で洗礼を受けたって
 母が言ってたの。
 でも親族の手前、
 キリスト教徒である事は言わずに隠していたの。」


どんな家庭の事情で母一人娘一人になったのかは
その人自身もわからないという。
当時あまりに年齢が幼な過ぎた。
母親は結核だった。
ずっと療養所で暮らしていて
その人は親類縁者や里親の間を
行ったり来たりして育った。


ある時、母親は療養所を出た。
娘を連れて長崎に行こうとしていた。
その人は10歳にも満たない歳だった。


「今思うとね、
 母は死期を悟って
 私の行く先を教会に頼もうとしたのかも知れないわ。」


汽車の長旅で
母親がどんどん衰弱していくのが子供の目にもわかった。
ところがあと少しで長崎に着くと思っていたら
汽車が動かなくなってしまった。
どうして汽車が動かないのか
何時再び動き出すのか
目途が全く立たないので
母親はその人を連れて線路伝いに歩き始めた。
長崎を目指して。
道の途中、母親は何度か喀血した。


「母はしっかりした気丈な人だったわ。」


力尽きて線路脇に倒れ込みながら、
母親はその人に言った。


「お母さんはもうすぐ死ぬわ。
 死んだら顔を手拭いで巻いて結びなさい。
 お母さんは結核だから
 死んだらこの口から悪い菌がどんどん出て来る。
 だから必ずそうして口を塞ぐのよ。
 お母さんはもう一緒に行けないから
 あなたは一人で長崎に行きなさい。
 長崎に行ったら教会を訪ねるのよ。
 いい?
 必ず教会を訪ねなさい。
 お母さんがここで死んでいる事と
 あなたが生まれた時に洗礼を受けた事を
 そこで言いなさい。
 必ず。」


幼い娘の目の前で母親は
やがて息をしなくなり、
動かなくなった。
その人は言われた通りに
荷物の中から手拭いを取り出し、
母親の顔に巻き付けて後ろでしっかり結んだ。


「お母さんは死んでしまったし、
 私にはもう行く所がない、
 ああ、
 これから私はどうしよう、って思った。」


その人はしばらく
母親の遺体の傍でぼーっとしていたが
言われた通り一人で歩き出すより他になかった。
一人で荷物を担いで歩き始めた。
母親に言われた通り、長崎へ。
長崎の教会目指して。


教会に行けば助けて貰える。
教会に辿り着けば生き延びる道が与えられる。


母親の言い残した言葉を反芻しながら
10歳にもなっていなかったその人は
焼けた線路伝いに歩いた。
長崎目指して。
しかしその長崎は原爆投下で瓦礫の山になっていた。


焼け野原を途方に暮れて彷徨っていて
保護された時、
その人は母親に言われた通り「教会」と言ったが
その教会も瓦礫と化していた。
その人の受洗を証明する台帳も
何もかも焼けて紛失してしまっていた。
誰かが人づてに教会の関係者を探してくれたのだろうか。
その人は司祭に引き合わせて貰えた。


司祭はその人に改めて洗礼を授けた。
その人の幼児洗礼を証言する人も無く
証明する記録も焼失してしまっており、
しかもまだ10歳に満たない子供の話だからである。


「神父様は、
 あなたのお母さんの話は本当だと思うけど、
 もし万一と言う事があっては困るからと言って
 私に洗礼を授けて、
 その時に洗礼名も下さったわ。」


その人がそれからどのような人生を生きて
この北海道に移り住んだのか、
もっと話を聞く筈だった。
しかしその機会がないままに
私は退院し、
仕事に復帰してお互いに会う事もなくなっていた。


私が病棟から手術場に配置換えになって、
ある日、
緊急手術の呼び出しを受けて
スタッフルームで患者さんを待機しながら
誰かの置き忘れた新聞を開いた。
お悔やみ欄の片隅に
その人の名前が載っていた。


病気だった事すら知らなかった。
最後まで話を聞けなかった。
あの聖堂を訪ねたら何時でも会える、
何時でも話を聞けると思い込んでいた。


長崎の地名を聞くと、
焼けた線路伝いに歩く母親と子供の姿が目に浮かぶ。
母親の亡骸を後にして
たった一人で歩き続け目指したその街は
原爆投下で焼け野原と瓦礫の山になっていた。
それを目にした子供の絶望を思う。
原爆が投下されても
キリストは子供の手を引いて導いて助けて下さった。
しかし
もし原爆が投下されなかったら
長崎行きの汽車は止まらず
母と子は途中で焼けた線路伝いに長い道程を歩く事もなく
母親が行き倒れて道端に絶命する事もなく
子供は絶望を味わいながら焼け野原を
一人彷徨う事もなかった筈だ。


出合った時、その人は私に言っていた。


「毎朝、
 お祈りをするのよ。
 今日一日、
 私に出会わせて下さる人、
 擦れ違う人、
 全員が天国に迎えられますように。」

マタイによる福音書読了

2007-03-08 22:56:00 | マタイ
マタイを開くと
視界が天地に二分される。

空と荒野。
空とガリラヤ湖。
空と小高い山。
空と刑場への道。
空とゴルゴタの丘。

あの御方は
先頭に立って風を受けながら
どんどん進んで行く。
新しい契約、
新しい掟の到来を告げながら
あの御方はどんどん先に進んで行かれる。
唯一絶対なる神との
新しい契約の到来。

黎明。

キリストを見る子供の目(マタイ21;14~16)

2007-02-07 01:10:00 | マタイ
えっと・・・
私のマイミク、まるがりたさんの
写真にある、
十字架のキリストの首抱きついてる子供、
この子供に共感します。
(単なる絵だと言われればそれまでだが)
私の信仰の原点はうまく表現出来ないけど
この子供のようなもので、
理屈で納得した訳ではなかった。


5歳で見た映画『奇跡の丘』(マタイ福音書)で
神殿の商人達の出店を蹴散らして怒るイエス・キリスト。
カモメ眉毛のキリストだ。
マタイの描くイエス・キリストは
子供だった私には何だかわからない何かを始終批判し、
攻撃し、怒っていた。
愛想も何も無い。
マタイの描くイエス・キリストは宗教革命者。
漫然と既得権益の上にあぐらをかく
宗教指導者達を厳しく批判していた。


イエスが蹴散らした神殿の出店で
イエスとその弟子達と
宗教指導者達の間で一瞬睨み合いになり
緊張する。
そこに四肢の不自由な人々の群れと
大勢の貧しくばばっちいちびっ子達がなだれ込んで来る。


手に木の枝を持って
わあわあ騒ぐ子供達に
仏頂面だったキリストがくすっと愉快そうに笑う。
キリストが笑うのはこの長い映画の中で
唯一この一瞬だけ。
5歳の私はこの一瞬で
キリストに惚れたのかも知れない。


まるがりたさんのところの写真にある、
十字架のキリストの首にしがみつく子供の視線は
この一瞬の眼差しを捉えている。


この大勢の子供達は実際に私と同年代だ。
映画が撮影された当時私もこんな年齢だった。
この大勢の
歯が欠けたり鼻水垂れてるような
ばばっちいちびっ子達の中に、
私もいる。
キリストに向かって
祝福を叫び、
枝を一生懸命振っている。


迷ったり
疲れたり
疑いそうな時は
その事を考える。

映画『奇跡の丘』(マタイ19;13~15)

2006-12-22 13:55:59 | マタイ
15年前の今日、私は洗礼を受けた。
当時は父とも母とも絶縁状態で、
幼児期の不愉快な記憶や
恨みを棚上げにしたままの受洗だった。
ただ無条件に教会の家族が
私という者を受け入れてくれたからだ。


昨夜、父と映画『奇跡の丘』を見た。
最近仕事が荒れていて
礼拝にも聖書研究会にも出られない事が続き、
疲れと魂の飢え乾きがあってか、
あの映画を無性に見たくなった。


夕方、窓から日没を見て眠気が襲ってきた。
父がデイケアから戻るまで30分ほど横になって
眠ってしまってはいけないと思いながら、
あの映画を見よう、とぼんやり思った。


少し前に『偉大な生涯の物語』を見たばかりなので
うんざりして拒否するかと思ったら、
意外にも父はテーブルに身を乗り出していた。


お父さん、
この映画もキリストの映画だけどね、
この前のとは違って台詞がほとんどなくて
出演者も殆ど一般人なんだよ。
そのせいか、
人々がまるで聖書の中の実物のような錯覚が起こる。
皆一般人で俳優とかではないから
顔の整った人は出てないし、
演技らしい演技してる人もいなくて臨場感がある。
賞を幾つか受賞したよ。


「ほう。」


こないだ見た映画と比べたらナレーションもないし
わかり易い演出もなくて全然不親切。
台詞は殆ど
新約聖書のマタイの福音書に書いてある言葉だけ。
キリストはずっと怒ってるしね。
宗教改革者としての側面が強調されてるから。
マタイの福音書はそういう要素があるのさ。
だから
全然キリスト教を知らない人が見たら解り難いんだよね。
牧師先生も教会の友達も、
映画としては全然面白くない、解り難いって言ってた。


「ははは、そうか。」


でも私は過去に見た数あるキリスト映画の中で
この『奇跡の丘』が一番好きなんだよ。
人生で最初にキリストを認識した映画だからね。
幼稚園の時にさ、
テレビの洋画劇場で見たんだよ。
お父さんは仕事から帰って来て、何となく見てたよ。
お母さんは茶碗洗ったりがさごそしてたけど見てた。
でもあんまり真剣には見てなかったんじゃないかな。
見た覚えない?『奇跡の丘』ってタイトル。


「いやーわからん。
 見た覚えないなぁ。」


だろうね。
だってキリスト教に関わらない人にとっては
解り難いもの。
台詞もほとんどなくてストーリーが解り難いし
キリストはずっと怒って説教ばかりしてるし。
きっと見る番組なくて仕方なく
洋画劇場見てたんじゃないかな。


「そうだな。」


私は教会で洗礼受ける時に皆の前で
自分がどういう経路でキリストと出合って
どうやって信じるに至ったか話さなければならなくて
いろいろ記憶を辿っていくと
最初にキリストと出合ったのは幼稚園の時、
映画で見たと思い出した。
で、ずっと映画探ししてたけど、
今年の春に絶版になってたと思ってたのが手に入ってさ、
見てみたらこれだった。
最初の音楽というか歌、
銭湯の中で反響してるような合唱でしょ?
これ聴いてすぐに間違いないと思った。
懐かしいね。


「へええ。」


で、いきなり画面がマリアとヨセフの気まずい沈黙。
台詞なし。
字幕にただ一言「処女懐胎」。
困った。
出だしから訳がわからない、これじゃ。


マリアは結婚する前に
何だかわからないけど妊娠したのさ。
ユダヤ教ではそういうのは死刑なんだよ。
それで婚約者のヨセフは
マリアを晒し者にしたくないし、
かと言ってこのまま結婚する訳にいかなくて
悩んでたら天使が夢枕で
「生まれる子供は神の子だから妻として迎えろ」
って言った。
それで結婚して、
今で言う国勢調査のために登録しに旅に出た。
旅の途中でイエスが生まれたのさ。馬小屋で。


解説しながら見ていたけど、私は疲れていたし、
父は途中でうとうとしていた。
多分私が5歳の時もこんな具合だったのだ。


左右の眉毛がカモメの形につながったイエス・キリストは
マタイ伝にある通りの言葉をどんどんぶつけていく。
まるで凄い速度で福音書を読んでいるみたいだ。
途中、画面の字幕の幾つかの聖句に父は見入っていた。


私の母とは誰か。


7の70倍まで許しなさい。


駱駝が針の穴を通る方が優しい。
金持ちが天国に入るよりは。


聖書を読まないのか。
イザヤの
“犠牲よりも憐れみを好む”という言葉を知っていたら
罪なき者を咎めなかったであろう。


画面は常に二層に分かれている。
広大な原野と空。
麦畑と空。
丘と空。
湖と空。
父、うつらうつらしては覚醒して画面を見る。
これをずっと繰返していた。


エルサレムに入る場面。
イエスは神殿の商人達の露店を片っ端から蹴散らす。


父は身を乗り出している。


祭司達とイエスの一瞬の睨み合い。
突然そこにボロ布をまとって杖にすがった人々と、
枝を手にしたばばっちいチビっ子達の群れが
雪崩れ込んでわあわあと口々に何か叫んで
一同呆れ返る。
映画の始まりからずっと不機嫌で
怒り口調で説教し続けていたイエスが、
この子供達を見て一瞬だけくすっと愉快そうに笑った。


お父さん、私はこの場面をよく憶えている。
私はこの歯の欠けた子供達と同年代だったんだよ。
当時5歳くらいでこの場面を見て、
キリストは自分達の味方だと思った。
ここでわあわあ言ってる子供達に共感してしまった。
だから、
キリストが何を説教してたかもわからないし
映画の内容も全然わからなかったけど
すっかりキリストに惚れこんでしまったんだと思う。
正義の味方のようにね。


「ははは・・・」


それが、
十字架につけられるでしょ。
ショックで納得いかなかったんだよ。


イエスの手のひらを十字架に
釘で打ちつける生々しい場面。
父は泣いていた。


ああ、
この映画の中の老母マリア。
胸を掻き毟られる。


そっけない復活。
そして映画が終わった。


私は
しばらく父に自分とキリストとの出会いについて話した。
父は眠気がすっ飛んだ顔で聞いていた。


私は納得がいかなくて、
お母さんを追い掛け回していろいろ聞いたんだよ。
「キリストは何で殺されたの」とか
「キリストは本当にいたの」とか
「キリストは何で十字架にかけられたの」とか、
お母さんが知ってる筈ないよね。
怒られたよ。
「うるさいねっ
 辞典でも見てなさいっ」て。
私が辞書を引いた最初の言葉は「キリスト」なんだよ。
でも5歳だもの。
辞典の文字が読めないんだよね。
仕方ないから十字架の写真と小さい絵だけ見てた。


「ははは・・・」


その後小学校に行ったら図書室に伝記の本があって、
『野口英世』とか『キュリー夫人』とか
『ベートーベン』と一緒に
『キリスト』があったから、
それ借りて読んだね。


近所のパプテスト教会で英語習ってた時も
玄関の棚に並んでた聖書を読みたかったね。
子供用の聖書あげるよって言われたけど
私は生意気な子供だったね。
要らないって言ったよ。
子供用に書き変えたものは本物じゃないからって。


空恐ろしいと思わない?
5歳の時にこの映画を見た時から始まってるんだよ。
5歳って
今うちの教会に来てる子供達の一番小さい子ほどだよ。
子供は恐ろしいよ。
こんな事は見てないだろう、
こんな事はわからないだろうと思ってても
ちゃんと見て聞いて覚えてる。

星を追い求める(マタイ2;1~12)

2006-11-01 22:14:29 | マタイ
今の季節は

深夜、白鳥座が地平線に沈む。

もし晴れていれば、

今夜まもなく午後11時頃、

(今から1時間後だね。)

西北西の地平線に

白鳥座の巨大な十字架が立つのを

見る事が出来る。

白鳥座は明るいので

都市部でも見られる。




あの十字架の所まで行ってみようかと

西へ西へ行きたくなる。

東の三博士達が目当てにしていたのは

特別に出現した天体ではなくて

もしかしたら

案外

何時でも誰でもが目にしていた

珍しくもない、

あって当たり前の

目立たない星だったかも知れない。

博士達にはわかって

それ以外の人にわからなかったのは

博士達が追い求める心を以て星を見ていたから。


       (M牧師 1998年クリスマス説教より)