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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

じじと読む一日一章(マルコ5;1~20)

2008-02-21 22:24:09 | マルコ
2月21日(木)マルコ5;1~20


ゲラサの悪霊憑きの箇所。


この箇所を読んで、
じじにちょっと私の仕事話をした。
墓場を住まいとするこの人は、
枷や鎖で縛られていたが
鎖を引きちぎり、
枷を砕くほど暴れていた。
自分も回りもずいぶん傷つけた事だろう。


「この人はさ、
 今で言う心の病気の人だね。」


「そうだな。」


「私はこういう興奮状態の人と
 仕事で出遭った事が何度もある。
 危ないんだよ。
 手近な物を何でも、
 事務用品でもタオルでも凶器にする。
 筆記用具を迂闊に出しといたら奪い取られて
 危うく刺されそうになった事も何度かあるし、
 一緒に夜勤やってた人は私が別の人と一緒に
 他の患者さんを見ている間に押し倒されて
 首絞められてた。
 危機一髪で引き離したけどね、
 朝になったら嘘みたいに正気に戻って
 "お早うございます"って挨拶してくるのさ。
 精神科の病院でなくてもよくそういう事があったよ。
 誰でも極度の不安とか夜間譫妄とか
 いろんな原因でこの人みたいになるのさ。
 でもそれはその人の本性ではない事を私達は知ってる。
 聖書のこの箇所を読むと、
 そういう状態だった患者さん達の事を思い出すよ。
 凄まじい状態なんだよここの箇所は。」


「ほぉ。」


「イエスが命令すると、
 悪霊はこの人から出て豚の群れに入って、
 崖から湖に雪崩込んで豚全部溺れ死んでしまった。
 後にはこの人が正気に戻って座ってた。」


じじ、
笑って首をかしげている。


「悪霊の名前は"レギオン"と言ってるけど、
 レギオンは軍団という意味だよ。
 何百何千という連隊が集まって師団になって
 それも集まって軍団になるでしょ。
 一人の人にそれだけたくさんの悪霊が憑いてた。
 家族はとてもじゃないけど一緒になんて暮らせないし
 回りにもたくさん迷惑かけて村八分とか爪弾きにされて、
 それで墓場にいたんじゃないかな。」


「そうだな。
 こんなのが家にいたら大変だ。
 皆ケガしてしまう。」


「うん。
 家族もバラバラになるだろうし。
 苦しむだろうねこの人も家族も。」


「そうだな。」


「お父さん、悪霊というのは、
 人を神様から引き離してばらばらにする力だよ。
 人が神様を信じられなくなって神様から引き離される、
 人が人を信用出来なくなって信頼関係も愛情も無くなる、
 信じる心を神様から引き離してバラバラにする力。
 私達は常にこれと戦わなければならないんだ。」


「・・・・・」


じじ、
考え込んでるな・・・。


「私達を神様から引き離して
 信じられなくしてしまう物事はたくさんあるからね。
 いろんな出来事とか心配事とか悩み事とか。」


「そうか。
 そうだな。」


「墓場で暴れていた人は
 元からそんな人だった訳ではないと私は思うよ。
 苦しみに負けて
 神様から離れてしまっていたと思うのさ。
 いや、負けるさね。
 この人一人の力でなんて勝てないよ。
 だって大勢の悪霊がこの人一人に憑いていたんだもの。」


「そうだな。
 それは大変な事だ。」


「イエス様を遠くから見て、
 走り寄って来てひれ伏したのは
 助けて貰いたかったんだろうね。
 でも助けて貰いたいのに"かまわないでくれ"って
 滅茶苦茶に混乱してる。
 この人は本当に苦しんでいたと思わない?」


「そうだなぁ。」


「イエス様はその悪霊の軍団をこの人から引き離して
 豚の群れに入らせた。
 豚というのは、
 イスラエル人にとって汚れた動物とされているんだよ。
 聖書のこの始めの方にその戒律が書いてあって、
 豚を食べてはならない、
 食べた者は汚れると書いてあるのさ。
 ユダヤ教の人はそれで豚を食べない。
 食べると汚れるから。
 ここに出て来る豚飼いという仕事は
 イスラエルの中では底辺、最下層の、
 蔑まれた最低の職業なんだって。」


「へぇー」


「豚飼ってた人達は貧しかったろうね。
 イエスが悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出して
 飼ってた豚に乗り移って
 豚2000匹全滅してしまった。」


「そりゃびっくりするだろうなぁ。」


「びっくりしたさぁ。
 それで街の人々はイエスに出て行ってくれって。」


「そうだろうな。」


「悪霊に取り憑かれていた人は、
 正気に戻って、
 イエスと一緒に付いて行きたいと言ったけど
 イエスは"家に帰りなさい"と言った。
 悪霊に取り憑かれて以来
 ずっと家に帰ってなかったんだろうね。
 家族とも社会とも切り離されたままだった人を、
 イエスは家族の中に帰らせて、
 社会復帰して家族や周りの人と一緒に暮らす事を望んだ。」


「うむ。」


「家庭にも社会にもちゃんと復帰して
 神様が癒して下さった事を言い広めなさいって事。
 悪霊を追い出して貰って正気に戻って
 そのままイエスと一緒に行っても
 バラバラになった家族は元に戻らないし
 悪霊に憑かれて暴れていた人が正気に戻った事に
 回りの人が気づかないままになってしまうからね。
 救われた人は自分が神様に救われた事実を
 周りの人に示して証しなければならないのさ。」


「ふぅん。
 そういうものか。」


「そういうものだよ。
 教会で"証しする"と言うのは
 自分が救われた事を皆の前で言い表す事なのさ。」


じじ、
話の途中しきりにルーペで聖書を見ていた。

じじと読む一日一章(マルコ4;1~41)

2008-02-16 23:24:32 | マルコ
2月16日(土)マルコ4;1~41


種蒔きの譬。
じじにとっては理解し易い譬だったのか、
よく頷いていた。

「お父さん、ここはわかり易いよね。
 種を蒔く人は、イエス・キリスト。
 種は神の言葉。
 種の落ちる土は私達の心。」


「うん。
 そうだな。」


道端に落ちて鳥に食べられてしまった種。
蒔かれてすぐ、
芽も出さないうちに悪魔に盗られて失われる。
神の言葉を聞いても受け入れず、実らない。


石だらけで土の少ない所に落ちた種。
すぐに芽を出すが、
浅い土の上で根が伸びず日に焼けて枯れる。
神の言葉を聞いてすぐ喜んですぐ受け入れるが、
心の深い所に根付いていないので試練が来ると負けて
福音を手離してしまって、実らない。


茨の中に落ちた種。
茨のある土地で芽を出しても茨に邪魔されて伸びない。
神の言葉を心に受け入れても、
生活の苦労や金やいろいろな誘惑に邪魔されて、
実を結ばない。


良い土地に落ちた種は、
芽生え、成長して実を結んで、
30倍、60倍、100倍もの収穫になった。
神の言葉を聞いて受け入れ、たくさんの実を結ぶ。


神の言葉を受け入れる良い土地。
素直で従順な心。
神様の憐れみ、慈しみ、愛を自分の心に受け入れて
自分もそれに習い、従って生きる。


「イエス・キリストを救い主と信じる事は、
 イエス・キリストに習って、
 イエス・キリスト従って生きる事だと
 私は教えられた。
 自分の心が良い土地であるように願うよ。
 キリストに習って生きると、
 私達の生活にはたくさんの障害があるからね。
 試練に負けないように、
 キリストを見失わないようにしなきゃと思う。」


「そうか。」


イエスの譬話。


「聞く心を持つ人にだけ、
 わかるように話されたって事だと思うのさ。」


「うん。」


「回りを照らして明るくするためのともし火を
 わざわざベッドの下に置いたりしない、
 皆が見えるように置く。
 このともし火も神の言葉だよ。
 イエスは皆に聞こえる所で神の言葉を話すのだから
 聞く耳のある者、
 聞く心のある人は聞きなさいって。
 自分が何を聞いているか注意しなさいって。」


「そうだな。」


「私達はイエスを通して神様の言葉を聞いてるのさ。
 だから素直に聞く耳を持って、
 イエスに素直に聞いて
 教えを受け入れる心を持って聞きなさいって。
 その心を持っている人には
 神の言葉が恵みとしてさらに与えられるけど
 イエスに聞く心を持っていない人からは
 持っている僅かな恵みも取り上げられるって。
 だから聞く耳のある者は聞きなさいって
 イエスは言ったんだきっと。」


「なるほどな。」


「イエスの話を聞きに集まった人々は
 きっと農民が多かったんだろうね。
 だから種蒔きに譬えて
 わかりやすいように説教したんだろうね。
 聞く人達の聞く力に応じて話したんだ。」


「そうだな。
 わかり易いし面白いな。」


面白い。
じじ、それはよかった。


成長する種の譬とからし種の譬。


人が土に種を蒔いて、
知らない間に種は芽を出して成長する。
どうしてそうなるのか、その人は知らない。


「お父さん、
 ここの箇所はお父さんの事を言ってると思うよ。
 お父さんが若い頃に
 バプテストの教会員だったHさんと職場で出合って
 チラッとだけ聞いた聖書の話とか、
 再就職先でカトリック信徒のNさんもN社長さんと出合って
 チラッと垣間見た人に対する姿勢とか、
 その人達はイエスの教えを身をもって
 お父さんに表現して示していたと私は思う。
 お父さんはその人達の事を
 何十年も経った今になってもちゃんと憶えている。
 HさんもNさんも
 目立たない所に小さな種を蒔いてたんだ。
 それが何十年も経った今になって芽を出して、
 お父さんが教会に行くようになって
 洗礼を受けようとしている。
 でもHさんもNさんも、
 まさか今こんな所でお父さんが教会につながって
 洗礼受けようとしているなんて全然知らないと思う。」


「そうだな。
 HさんもNさんも
 知ったらきっとびっくりするだろうな。」


「びっくりするさぁねぇそりゃ。
 蒔かれた種はからしの種に譬えられるほど
 小さい粒だけど、どんどん成長して
 枝に鳥が留まって巣を作れるほどになる。
 イエスが2000年前に蒔いた種が
 この2000の間にどれだけ大きくなって
 どれだけ実を結んだか、考えたら凄いと思わない?
 目立たない貧乏な大工の息子だったイエスが
 十字架で死を遂げて、復活して、
 その教えが2000年経った今、
 世界中に広がったんだもの。」


「すごいなあ。
 何処でどんな事になるか、
 わからないものだなあ。」


イエスの不思議な力について。


「小船の上から説教して、
 その後夕方になって漕ぎ出したら
 風で小船が転覆しそうになって、
 弟子達は慌てた。
 イエスは寝てたんだって。
 弟子達が転覆する転覆するって
 慌てふためいたので、
 イエスは"黙れ。静まれ。"と言ったら、
 風も波も静まったんだって。」


「ほほー」


「イエスは弟子達が
 信じ切れない恐れを心に抱いた事を叱ったんだよ。
 完全にイエスを信じ切っていれば
 恐れる事はなかったけど、
 弟子達は誰もそこまで信仰強くなかったのさね。」


「そうだな。
 船が沈没したら溺れて死ぬからなぁ。」


「じゃ、どうすれば良かったかというと、
 しばらく前にインターネットのラジオで聴いた、
 カトリックの神父様の話では、
 弟子達も風とか波とかに気を取られていないで
 イエスと一緒に船の上で寝てたらよかったんだって。」


「そうか。
 それはいいな。」


「信仰者になったって
 人生全てがうまくめでたく万々歳ではないって事さ。
 いろんな困難や試練に遭うから。
 でもそういう時にも目の前の事に動揺しないで
 神様に信頼し切って自分の人生を委ねろって事だよ。
 信仰を強く持つという事はそういう事なんだねきっと。」


「う~ん。」


じじが感慨に浸ったところで
本日はお開き。

じじと読む一日一章(マルコ3;20~35)

2008-02-15 22:25:49 | マルコ
2月15日(金)マルコ3;20~35


次行こう。
ベルゼブル論争について。


「親戚連中が皆して
 イエスを取り押さえに来たんだって。」


「そうだろうな。
 頭がおかしくなったと思ったんだな。」


「うん。
 何せ貧乏な大工の息子が
 突然神様の話をし始めて、
 病人を癒したり悪霊を追い出したり
 律法学者に喧嘩売るような事を言ったり
 群集に向かって説教するようになったんだから。
 お父さんどうする?
 井上家の遠い親戚の息子の誰それが
 いきなり全国を旅して
 神様の話をし始めて新興宗教の教祖様になって
 マスコミに騒がれたりしたら。」


「どうするかな。
 それはびっくりするなぁ。
 慌てるだろうな。」


「イエスの親戚という人達だっていたからさ、
 そうだったと思うよ。
 野次馬とかケチつける人達とか、
 騒ぐ連中はたくさんいただろうしね。」


「そうだなぁ。
 今でもそういうのよくあるからなあ。」


「大体騒ぐ人はさ、
 何やったって騒ぐし噂する、
 ケチつける人は
 イエスが病人を癒さなかったら
 インチキだってケチつけたろうし
 癒したら癒したで
 悪霊に取り憑かれてあんな事やってるんだとか
 どっちらしろケチつけたのさね。」


「世の中とはそういうもんだな。」


「イエスはそれに対してはっきり反論してるね。
 人間が犯す罪を、
 神様は何でも寛大に許して下さる、
 でも神様の霊を愚弄する罪は決して許されないって。」


イエスの母、兄弟について。


「イエスの母親も兄弟姉妹も、
 あんたんちの倅が騒ぎを起こしてるって
 きっと親戚中から責められてたんだろうね。
 心配してやって来たんだきっと。
 そしたらイエスは
 "わたしの母、わたしの兄弟とはだれか"って。
 お父さん、イエスのこの言葉を薄情だと思うかい?」


「・・・・」


じじ、考え込んでいる。


「イエスは
 私達が家族と呼んでる一般的な血縁の家族を
 否定したのではないと思うんだ。」


「何だかよくわからんな。」


「人間が生まれてきて育てられる、
 この世の家庭とか家族も、
 神様が与えて下さったものだよ。
 でも、
 イエスがここで言っている家族は
 血縁があろうと無かろうと、
 神様の御心を行う人は皆、
 イエスの兄弟姉妹、母だと言ってる。
 教会で、
 教会員同士がお互いに
 兄弟姉妹って呼び合ってるの、聞いた事あるでしょ。
 気づかなかったかな。」


「そうだったかな。」


「そうだってば。
 今度教会に行ったら皆の会話をよく聞いてごらん。
 教会は家族なんだ。
 お父さんが洗礼を受けて教会員になるという事は
 教会の家族の一員になるという事だよ。
 イエス・キリストを頭する家族の一員にね。
 家族は皆で祈り合って協力し合って支え合っている。
 楽しい事も苦しい事も何でも皆で分かち合っていく、
 教会とはそういう家族だと
 私は洗礼を受けた教会で教えられた。
 今、お父さんが行ってる私達の教会も同じだよ。」


「教会とはそういうものか。」


「そうだよ。
 洗礼を受けて教会員になるという事は
 教会の家族の一員になる事だよ。」


じじが
感慨深げな顔で聖書の頁を捲ったところで、
主の祈りを唱えて、お祈りして、
本日はお開き。

じじと読む一日一章(マルコ3;13~19)

2008-02-15 22:20:53 | マルコ
2月15日(金)マルコ3;13~19


イエスの12人の弟子について。


漁師。
シモン・ペトロとアンデレの兄弟。
ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟。


「お父さん、この人達は
 自分から師匠、弟子にして下さいさって
 志願して弟子入りしたんじゃないのさ。
 イエスの方から"おいで"とお呼びになったので
 彼らは付いて行ったのさ。
 自分の仕事か親とか雇い人とか
 それまでの自分の生活を横に置いて、
 イエスに付いて行った。」


「ほぉ。」


「これは大事な事なんだよ。
 私達の方から神様を選んだのではないって事さ。
 お父さんも、私も、
 自分の方からキリストを選んだのではないんだ。」


「・・・?」


「私達は神様から招かれて、
 呼ばれなければ付いて行く事は出来ないんだ。
 お父さんが教会に行くようになったのも、
 その後もずっと続けて教会に行く事が出来るのも、
 牧師先生や教会の皆から歓迎されて、
 ヘルパーさんに助けられて、
 毎週教会に行くために必要な
 全ての条件を整えて下さったのは神様だよ。
 お父さんや私の力ではないのさ。」


「そうか。」


「そうだよ。
 イエスがお呼びになった12人の弟子達は皆、
 特別に優れた才能があった訳でもなく
 招かれた時は立派な信仰者でもなかった。
 目立たない、貧しいそこいらの人だった。
 イエスはそういう平凡な一人一人を弟子として選んで
 "おいで"とお呼びになった。
 お父さんも私も、招かれたのは
 特別に優れているから招かれたのではないし
 才能があるからでもないし
 人格が立派な訳でもないし
 信仰的に優れている訳でも何でもないのさ。
 ただ神様が"おいで"とお呼びになった、
 そしてそれに気づいて付いて行ったんだよ。」


「ふぅん。」


「私達は
 呼ばれたら、自分の生活をその場に置いて
 イエスに従って付いて行くんだ。
 この弟子達もそうだった。
 キリストに従う人は皆そうやって
 自分のそれまでの生活を置いて付いて行くんだ。
 うちの教会の牧師先生もそうだったって。」


「ほぉ。」


「牧師先生は若い時に
 キリストを信じるようになって洗礼を受けて、
 さらに自分の人生を神と人々に捧げる決心をして
 牧師になるために
 それまで働いていた職業も辞める事を決めた時、
 親戚中から猛反対されたんだって。
 黙ってそのまま働いていれば
 生活に不安も無く老後に恩給もつくのに、
 安定した職を手放してまでキリストに付いて行く事は
 親族の人々からは簡単には理解されなかったと思うよ。」


「そうだな。
 そうだろうな。
 仕事を辞めるという事は大変な事だ。」


「それに牧師という仕事は苦労の多い仕事だからね。
 今の私達の教会の
 明るい、活気のある所しかお父さんは見てないから
 想像も付かないでしょう。
 これまでの牧師先生ご夫妻の
 目に見えない苦労と祈りの上に
 私達の教会は建てあげられている。
 牧師先生はイエス・キリストとずっと一緒に
 道のりを歩いて来られた。
 お父さんは毎週その教会に
 神様に招かれて行ってるんだよ。」


「それは知らなかった。」


「今度、牧師先生に話を聞いてみなよ。」


「うん。そうだな。」


じじ、
考え込んでいる。


「イエスはユーモアのある人だったと思わない?
 シモンにペトロってあだ名つけてた。
 ペトロは"岩"という意味だよ。
 きっと頑固だったのかも。
 ヤコブとヨハネの兄弟も"雷の子ら"って、
 きっと怒りっぽいとか荒っぽい性格だったのかもよ。」


「はは。
 面白いな。」


じじ、珈琲に砂糖入れ過ぎ。


12人の弟子達の、最後に出てくる名前。
イスカリオテのユダ。


「ああ、
 裏切り者のユダな。
 知ってる。聞いた事ある。」


「うん。
 確かにユダは律法学者達にイエスを銀貨30枚で売った。
 だけどね、
 イエスを裏切ったのは
 イスカリオテのユダだけじゃないんだよ。
 ここに出て来る12人全員がイエスを裏切った。
 最後の土壇場で、
 全員がイエスを見捨てて逃げたから。
 イエスを裏切ったのは皆同じでしょ。」


「そうだな。
 いざという時に逃げたら同じだ。」


じじ、また考え込んでいる。

じじと読む一日一章(マルコ3;1~12)

2008-02-15 22:15:28 | マルコ
2月15日(金)マルコ3;1~12


律法学者達との論争について。
「安息日に律法で許されているのは
 善を行うことか、悪を行うことか。
 命を救うことか、殺すことか。」


律法学者達の頑迷さに対するイエスの怒りについて。
じじはこの章を読んで思うところがいろいろある様子だ。


「日曜日だからって
 医者が俺は信者だから今日は急患が来ても
 診てやらないぞと言ってるのと同じだ。」


「そうそう。
 この時代の宗教的指導者だけの話ではないのさ。
 いつの時代になっても
 優先順位を間違える事ってあるよね。」


「そうだなぁ。」


「それほど当時の宗教的指導者達が
 神様本来の御心から離れてしまってたのさ。
 イエスはそこんとこに突っ込みを入れたので
 律法学者達にとって煙たい存在だった。
 それで命を狙われた。」


「似たような話は今の世の中でもあるなぁ。」


「人を救う筈の宗教が
 人を食い物にしてたんだから、
 そうだよね。
 でもこれは、キリスト教徒だって同じかそれ以上なのさ。
 キリスト教徒も歴史的にこれと同じどころか
 もっと酷い事をたくさんしてきた。
 中世の異端審問から今のイラク戦争に至るまで、
 私達キリスト教徒の立場は
 何一つ正当化したり反論したり出来ないんだよ。
 だから
 この福音書の中のユダヤ教指導者達を非難する資格は
 私達には無い、
 むしろこれは
 私達の事を言われていると思うんだよ。」


「うん。」


イエスはどんどん注目されて評判になり、
群集にもみくちゃにされないために小船に乗って
岸辺の群集に説教した。
それも律法学者達にとって目障りだったに違いない。


「皆、苦しい生活してたんだろうね。
 癒されたかったんだきっと。
 だからイエスの癒しが評判になったんだね。」


「そうだなぁ。」


「水の上の小船から群集に説教するなんて、
 斬新でしょ。」

「聞いたこともない話が次々出てくるなぁ。」

じじと読む一日一章(マルコ2;1~28)

2008-02-14 22:48:05 | マルコ
2月14日(木)マルコ2;1~28


屋根を剥がして中風の人を釣り下ろす4人の男達の話。
4人が群集に阻まれてイエスに近寄れず、
そこで諦めてしまったらそれまで、
見方を変えて入り口がダメなら屋根剥がしてと、
自分達のものの見方を変えて
自分達から神に近寄ろうとする、
彼らの信仰によってこの中風の人の罪が許されると告げた。
律法学者達がイエスのする事にケチをつける。


同胞から税を取り立てる徴税人は忌み嫌われていた。
でもイエスは徴税人とも罪人とも一緒に食事を共にした。
ここでも律法学者達がイエスのする事にケチをつける。
じじ、感心している。


「医者を必要とするのは病人、
 全くその通りだな。」


「もっともだと思うでしょ。
 でも律法学者達にとっては戒律を守る事の方が
 最優先だった。」


「今の時代でもそういう事はある。」


断食問答の箇所。
ここでもイエスにケチをつけてきた律法学者達に対して
イエスは神と人との新しい約束、新しいあり方の到来を
布切れの譬、と葡萄酒・皮袋の譬を用いて語る。


「俺、この話知ってる。
 昔仕事で一緒だったHさんが言ってた。
 あの人はキリスト今日の人だった。
 おとなしい人だったな。」


Hさんは、
私が小学生の時に英語を習いに通っていた近所の
バプテスト教会の信徒だった。
存命だろうか。
もしまだ存命だったらかなりの高齢だと思う。


「もう30年以上も昔の話でしょ。
 その時どう思った?」


「別に、変わった話だなあと思っただけだ。」


「葡萄酒と皮袋の譬の話を
 キリスト教を知らない一般の人達に話してたの?
 難しい話してたんだね。」


意味はわからなくても
職場の先輩の言葉を通して
じじは何らかのインパクトを受けていたらしい。


安息日に弟子達が麦畑の穂を摘んで食べたのを
律法学者達はここでも戒律破りだとケチをつける。


「規則が大事か人間が大事かという話だな。
 こういう事は今の世の中でもよくある事だ。」


「イエスもイエスの弟子達もお腹空いてたんだよね。
 貧しかったからね。
 でも麦の穂を摘んで籾殻を落とすでしょ。
 それが脱穀という仕事に当たるのさ。
 安息日には仕事禁止だったから
 掟破りだとケチつけてきたんだよ。
 イエスはその律法学者に対して
 戒律を遵守するだけでは足りない、
 人を労わったり思いやったり憐れむ事の方が
 大事だと示してるんだよ。
 律法を守る事を否定はしないけど
 人を大切にする事を神様は望んでおられて、
 それが神様の心だって事さ。」


「安息日は人のために定められた。
 人が安息日のためにあるのではない。
 全くだ。
 人を大事にしないとダメだ。
 俺は昔な、・・・」


む・・・
じじのスイッチが入ってしまった。
しばらく昔の話が続いた。
じじ、
イエスの教えの一つ一つに頷きながら読み進んでいる。

じじと読む一日一章(マルコ1;1~40)

2008-02-13 23:25:31 | マルコ
2月13日(水)マルコ1;1~40


冒頭に引用されているイザヤ40;3を一緒に読んで
じじに簡単に説明した。


「イスラエルの民族は
 大昔から近隣の大国から侵略され支配されていた。
 エジプト、バビロニア、アッシリア、ペルシャ、ローマ。
 人々はいつか"救い主"が現れて
 自分達を苦しい抑圧された生活から救ってくれる事を
 切実に待ち望んでいたのさ。」


「ほぉ。」


「キリストが生まれる何百年も前から
 神様の言葉は預言者を通して語られていた。
 イザヤは神の言葉を預かって語る預言者の一人。
 イザヤはその時代の独裁者マナセ王によって
 斬首刑で殺されたんだよ。
 マナセにとっては都合の悪い預言で邪魔だったのさ。」

「へぇ。」


「イザヤに預言された救い主がイエス・キリストであると
 私達は信じているんだよ。
 お父さんも洗礼式の時には
 イエス・キリストを救い主と信じますと告白して
 洗礼を受けるんだよ。」


「そうか。なるほど。」


実は数日前、
じじは私にこんな質問をしていた。


「洗礼を受けるには、いくら払えばいいのだ?」


「お父さん洗礼をお金で買えると思ってるの。
 とんでもない誤解だそれは。
 洗礼にお金は要らない。」


「そういう意味ではない。
 しかし何もなしと言う訳にはいかんだろう。
 相場はいくらくらいだ。
 細川ガラシャは百両持って伴天連を訪ねたと
 三浦さんの本に書いてあるぞ。」


「バテレンて・・・・orz
 お金をいくら積んでも洗礼は買えないよ。
 これから生まれて来る赤ん坊が
 僕の出産費用いくら払えばいいですかと聞くのと
 同じくらい変だ。
 献金の意味は牧師先生が後で教えてくれるから
 その時聞いてみなよ。」


じじが洗礼を受けると言い出して、
しばらくこんな会話をしていたのだった。
そこで、マルコ。


悔い改めて洗礼を受ける。


「イザヤの預言では
 救い主が来る前に、
 道を整える者が現れると言われている。
 それがバプテスマのヨハネだよ。
 道を整えるとは、
 人々が罪を心から悔い改めて
 神様に立ち返る事だからね。
 悔い改めて洗礼を受けるって事は、
 そういう意味だよ。」


「ほぉ。」


「つまりお金捧げるんじゃなくて
 悔い改めた魂を捧げないとならないのさ。」


「そうか。」


「イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けた。
 そしたら鳩が飛んで来て留まるみたいに
 聖霊がイエスに降って来て、
 天から父なる神様の声がしたんだと。」


「ほー」


「"あなたは私の愛する子、・・・"
 イエス・キリストは天の父なる神の一人子だよ。」


「・・・」


「お父さん起きてる?」


「ん。」


「洗礼を受けた後、
 イエスは荒れ野で40日間断食して祈って、
 悪魔の誘惑に打ち勝った。」


「へぇ。」


「だからさ、お父さん。
 洗礼を受けて何もかも万々歳ではないのさ。
 誰にでも洗礼を受けた後に試練は来る。
 試練は乗り越えなければならないのさ。」


「そうか。そうだな。」


じじ、感心して頷いてるけど
わかってんのかな本当に。


「で、悔い改めよって言ったバプテスマのヨハネが
 当時の権力者に逮捕されたのさ。
 イエスは宣教活動を始めた。
 弟子達を連れて歩いた。」


「ふぅん。」


「イエスの弟子になった人達は皆、
 貧しい漁師とか軽蔑されてた税金取りとか
 特別に何かの才能があった訳ではないし
 人間的にも信仰的にも優れてた訳ではない、
 貧しい、力の無い目立たない人達ばかりだよ。」


「そうか。」


「それと、
 弟子たちの方から"師匠、弟子入りさせて下せぇ"って
 志願して弟子入りしたのではなかったんだよね。
 イエスの方から一人一人を呼んで、招いた。
 彼らはそのイエスの招きに応えて
 自分の仕事や生活を置いてイエスについて行った。」


「ほぉ。」


「お父さんも招かれてんだよ。
 私達は神様に招かれなかったら
 自分の方から行く事は出来ないのさ。
 お父さんの方から神様を選んだのではなくて
 神様がお父さんを呼んでるのさ。」


「ほぉ。そうか。」


「牧師先生もそうだったって。
 昔、牧師先生が若い頃、
 信仰の道に入ってさらに牧師になる決心をした時、
 親戚皆から猛反対されたんだって。
 だってそうだよね。
 黙ってそのまま働いていれば
 恩給も出ただろうし蓄財も出来たろうし
 出世もしたかも知れない。
 それを全部置いて、
 牧師先生はイエスの招きに従ったんだよ。
 それも決して楽な道程じゃないのね。」


「うーむ・・・」


じじ、考え込んでるぞ。


「イエスはそれから、
 ユダヤ教の教会で説教したりしてたけど、
 今で言う精神病の人や重病人の病気を
 次々に癒したんだって。
 それで人々がたくさん集まって来て騒ぎになった。」


「へぇ。」


「ここでらい病人が出て来るけど
 ここでいうらい病って、
 昔は伝染病医学なんか無くて、
 ユダヤ教の坊さんが医者も兼業していたのさね。
 それで、
 皮膚に現れる異常は天然痘や水疱瘡もハンセン氏病も
 ただの湿疹や水虫も、何でもかんでも十把一絡げに
 一緒くたに"汚れたもの"とされて
 社会からも家族からも追い出されて絶縁された。
 汚れた者に触った者も汚れるとされていたからね。」


「昔は医療と言うものが無かったからなぁ。」


「そうなのさ。
 でもここでイエスは
 自分からこのらい病の人に触ってるよね。
 ここが大事なのさ。
 汚いとか気持ち悪いとか伝染すると言われている病人に
 イエスは自分の方から手を差し伸べて触った。
 そしてこの病人は癒された。
 イエスはそういうお方なのさ。」


「なるほどな。」


「お父さんわからない事とか、何かない?」


「ないなー。」


「感想とかは?」


「いろいろと、
 考えてもなかったな事があるもんだなぁ。」


なんじゃー
そんだけかい。


この後、しばし珈琲を入れ、
近所の菓子屋の一番小さいケーキを切って
じじの誕生祝いをした。


しばらくいろいろ話して
今月中に、日勤の日の仕事帰りは
一緒にマルコを読むために私はじじ宅に通う事とした。
じじは聖書を読む事に対して予想外に意欲的で、
珍しく聞きの体勢に徹している。
牧師先生が来て下さる時は
自分の喋りたい話ばかりべらべらと
牧師先生が口を挟めないほど喋るのに。


今後の日程を立てて勤務表とカレンダーに印をつけた。


2月は今日13から14、15、16、17の5日間、
その後4日間は遅番、夜勤入り、明け、休み。
休みの翌日は日勤なので無理せず。
それからまた21、22、23、24、25の5日間、
その後2日間夜勤の入りと明け、
28の休みは翌日が遅番なので大丈夫、出来る。
29は遅番。
一日1章読むと2月中に10章まで進む。
3月は受難週に有給休暇を4日間消化する。
申請出したけど上司はダメとは言わなかったな。


じじがケーキ食べている間に
主の祈りをA4の紙に大きく手書きした。
食べ終わって珈琲飲んで
再び主の祈り。
最後に感謝の祈りをしてお開き。


がんばろう。

今日から一緒にマルコを読もう(マルコ1;1)

2008-02-13 08:25:34 | マルコ
天の父なる神に感謝します。
今朝、
父は78歳の誕生日を迎えました。
そして今夜から
仕事の後に時間を設けて
一緒にマルコによる福音書を
父の受洗までに読んで分かち合う事にしました。
主イエス・キリスト、
これからの歩みをお導き下さい。
アーメン。


じじが今年のイースターに洗礼を受ける。
決心は揺るがない様子だ。
読みたい気持ちはあるのだろうが
特大ルーペを手放せない老眼とひどい難聴で
毎週教会に通っていても
誰が何の話をしてるのか
どんな話をしてるのか
じじは全然わからないでいる。
昔私が贈った聖書を大事に持ってはいるが
厚さと文字の細かさで挫折してしまう。


それで
一緒に聖書を読む事にした。
教会の夜の聖書研究会のように輪読して
じじが持っているわからない事や引っかかる事を
引き出して私が調べたり答えたりして
私自身も1年ぶりにマルコを読んで初心に帰ったりして
分かち合いをしようと思った。


これまでに食卓を共に囲む事の殆どなかった、
機能不全な家族の時代を取り戻せるなど甘い期待はない。
信者として求道者に対してすべき最低限度の事を
私もしなければならない。
一緒に祈る事。
一緒に聖書を読む事。
聖書を囲んで話し、分かち合う事。


まずそのためには私が時間を工面する事。
今日から受洗の日まで
一日1章、一日1時間。
マルコを一緒に読む事にした。
私も初心に帰ろう。
初めて聖書を自分で読んだ頃、私は何を考えただろう。


じじ、
誕生日おめでとう。
誕生日に聖書を読み始めるんだね。

レギオン(マルコ5;1~20)

2007-12-22 02:39:56 | マルコ
聴き書きノート
FEBC『イエスの生涯を黙想する』(英隆一朗司祭)


イエスの病人を癒す一つの形として
悪霊を追い出す働きがあった。
ここに登場する"汚れた霊に取りつかれた人"とは
現代でいう精神疾患、心の病を抱えた状態を表している。
墓場に住み着き、昼夜問わず墓場や山で叫んだり
石で自分を打ち叩く。
その人の中にある苦しみ、狂気が表されている。



彼は、
イエスを見て自分から走り寄ってひれ伏した。
イエスの所に来て助けてくれというかと思ったら
構わないでくれと言動と行動が矛盾している。


レギオンとは、
ローマ軍の一師団の事である。
4000から6000人規模の軍団。
それほどに大勢の悪霊、
大勢の汚れた霊が豚の中に乗り移らせてくれと願い、
2000匹の豚の群れの中に入って
崖から落ちて溺れ死ぬ。


驚く事に、たった一人の人の中に
4000から6000もの悪霊が住み着いていた。
その人の苦しみの凄まじさは計り知れない。
どれほどの苦しみだった事か。


私達は黙想する時、"レギオン"を忘れてはならない。
何が自分を苦しめているか。
それは"レギオン"である。
今の苦しみは様々な事が原因となっている。
様々な問題が絡んで一つの病気が生じている。
それがこの"レギオン"に象徴されている。



ある勉強会の場で
英神父様が投げかけた質問。


現代の社会でレギオンは何処にいると思いますか?


一人の鬱病を抱える人が参加していた。
その人が答えたという。


「レギオンは会社にいる。」


その人は言った。
レギオンは自分の勤める会社にいる。
セクハラ、業績主義、非人間的組織、
ゲラサの悪魔憑きは自分の働く会社だ。


レギオンの恐ろしさ。
レギオンは複数。
集団で社会の中にいて、
人間性を圧迫し人を痛めつける。
会社、学校、社会全体に
レギオンの力がいつも働いており、
その中で誰かが犠牲になって病気にならざるを得ない。
その人は会社を退職する事によって
立ち直る事が出来た。


私達はレギオンをあなどってはならない。
一つの病の中に様々な要因がある。
私達はそれをよく見なければならない。
レギオンの力は
私達が一人で立ち向かう事は出来ないほどの
豚2000匹もの圧倒的な力を持っている。


しかし、
イエスはこのレギオンと格闘する事も無く
たった一言で追い出した。
神の力はもっと強い。
豚2000匹に象徴されるほどの圧倒的な悪霊の力よりも。
イエスのこの力が私達に働いている事は事実であり、
私達はそれを信じなければならない。
レギオンがいくら強くてもいくら私達を圧迫しても
それを超える神の力が必ず働いている。
私達はそれを第一に信じなければならない。
私達はそこから
今抱える苦しみや複合的に働く悪の原因をよく見て
それを超える神の力を信頼して
苦しみを乗り越える事が出来る。
こに大きな希望のメッセージを悟らねばならない。


イエスはレギオンから解放され癒された人に
家に帰れ、と言った。
自分の家に帰って自分の家族に
主の憐れみ、して下さった事を伝えよと。
"家"とは共同体である。
共同体の回復。
この人はずっと家に帰っていなかった。
レギオンによってバラバラにされていた孤独な一人一人が
イエスの力によって
もう一度共同体として協力し合い回復していく事を
イエスはここではっきりと宣言している。


救いとは何処にあるか。
"家(共同体)"が回復していく中に救いがある。
救われた結果として最後に回復があるのではなく
レギオンに立ち向かう時に
イエスの力を中心として、イエスを信じて
共同体として団結し協力し
諦めずに立ち向かっていくなら、
その中でイエスに信頼するなら、
イエスの力はそこに必ず働いている。


どんなに複合的な、
構造的な悪の力があったとしても
イエスはそれを追い出した。
私達もイエスの力に終結するなら
必ずそれを乗り越える事が可能だ。
悪霊を追い出すイエスの力強さを心に刻み、
私達一人一人の決意と勇気が必要。
それをイエスに願って日々の力としたい。


(以下、井上の感想。)


現代の社会でレギオンは何処にいると思いますか?


職場と教会と家庭にいる。
ここで言うレギオンの力を
私は職場と教会と自分の生まれた家庭で見た。


職場。
以前勤めていた職場のえげつない有様は
書きたくもない。
今も、過酷な業務内容に対して
最低水準の賃金。
無意味な時間外拘束。
劣悪な労働条件から退職者が次々出る。
しかし穴埋めする人材は確保出来ない。
何故なら労働条件が劣悪だから。
人件費を削りに削ったギリギリの人数で業務を回している。
若い人を低賃金で雇用しているので
デキ婚や離婚後妊娠者も出現する。
職場で1人目までなら
何とか皆でフォローしながら業務を回せる。
2人目からは妊娠を申し出た時点で人事異動。
「一つの職場に二人も妊婦は要らない。」
問答無用で異動を言い渡された人の心理的ストレスなど
誰も考えない。
「子供が生まれる事は悪い事なの?」
「当たり前でしょ。皆迷惑してる。」
「避妊に失敗するようなクズ男と付き合うからよ。」
もし子供が無事生まれていたら、
誰か祝福したんだろうか。
わーカワイイとか、
きぃきぃ猫撫で声で褒めそやしたんだろうか。
結局流れて生まれて来なかったけど。
回りの声は非人情に聞こえるけど皆それぞれに正論。
フル活動出来る人材が減ると患者さん達に皺寄せが行く。
仕方ない事なのだ。
しかも一生懸命働いてる。
誰もが皆一生懸命に人間性を押し潰す、
非人間的組織。


教会。
私がここに移転してから
同じ教派の各地の教会の群れの中から
教会が2つ地上から消えた。
今3つ目が消えようとしている。
残った教会同士の間で諍いが生じている。
延々と埒も無い議論に時間を費やして
互いの不信感を膨れ上がらせている。
教会の宣教史の冊子を見て、
これまでの群れの中のいろいろな問題の推移を
見て聞いて思った。
閉鎖に追い込まれた教会の中にも
今揉めている教会同士の中にも同じ悪霊がいる。
英神父様が複合的、構造的に働く悪の力と表現したのは
まさにその通りだ。
誰もがそれぞれの立場で正論を言い、
その理想や信念に基づいて正しい事をしている。
そしてお互いの正当性を主張して
相手を捻じ伏せようとする。
自分の意に沿わない者を排除する。
利害関係を使って味方を増やし、陰で根回しして、
意に沿わない者を孤立させて悪者に仕立て上げる。
後は会議の場で詰問し、糾弾し、吊し上げる。
「教会共同体のために必要な正しい事だ。」
捻じ伏せられそうになった側は
意固地になり、
或いは毒を吐き、後足で砂をかけて教会を立ち去る。
自分の所属する教会の宣教の記録を見ると、
そのような孤立無援な針の筵に座らされたり
追われるように教会を立ち去った牧師や
教会代表者が何人もいる。
散々教会を掻き回した教会員が
他の教会員達を誘って根こそぎ立ち去った事もあった。
いずれも図式に共通点がある。
教会の中で特に
学識がある人。
社会的地位が高い人。
財力がある金持ちの人。
信仰の理想に燃え、奉仕に熱心、伝道熱心な人。
そのような何か恵まれた条件を持って
教会の運営や奉仕に大きく貢献し活躍する誰かがいる。
教会の黎明期は上手く行く。
皆で持てるものを持ち寄って力を合わせようとする。
長い時間が経って
教会が内外のいろいろな問題に直面した時。
いつの間にか神とは別物の王様が
教会の中を支配している事に誰彼が気づく。


その人が欠けると
財政上にも運営上にも教会が立ち行かないという
歪な依存関係が生じている。
問題に気づいた者は
教会存続の危機と王様の報復を恐れて
教会員会で指摘する事も出来ず傍観者になる。
誰も教会の中の王様に逆らえない状態。
王様は牧師や教会代表者を失格者呼ばわりし排斥する。
或いは王様独自の教会観を実現しようとして
教会に自分独自の事業を持ち込む。
その運営を教会に負わせようとする。


信者個々人の信仰にとって様々な無理が生じる。
教会員は一人また一人と立ち去り、
最悪の場合王様と取り巻きだけが居残る。


また別の場合は
教会の中の面倒な管理や運営を
牧師や教会代表、特定の誰かに負わせて
他の誰もが日曜日の客と化し、
教会の会堂の管理を当然して欲しい、
他の教会や他教派との集まりも出といて欲しい、
教会員会をもっと簡潔に短くまとめて欲しい、
もっと教会員の家庭を巡回訪問して家族伝道して欲しい、
もっと心に響くような説教をして欲しい、
もっと親身に身の上相談に応じて欲しい、
もっと教会が盛り上がるような事をして欲しい、
もっと聖書がわかるように指導して欲しい、
もっともっともっともっともっともっと・・・・・
して欲しい事を山のように要求するが、
重荷を負わされた人に手を貸す事はしない。
自ら教会に足を運ぶ労力を惜しみ、
協力もせず、一緒に祈る事もしない。
負わされた人は弧軍奮闘するしかなくなり、
追い詰められる。
一人で頑張っても足りない事が生じてくる。
するとワンマンだと批判され、
意固地になって殻に閉じ篭る。
そのような悪循環が生じる。


そして教会閉鎖。
閉鎖した後も、
先に立ち去った者達が居残った者に
呪詛と攻撃を浴びせる。
教会の群れの中に働く恐るべきレギオンの力。
教会を構成する一人一人を互いに不信感で切り離し
バラバラにする。


私のいる教会も例外ではなかった。
数年前までは。
今、喜んで礼拝に集まって来る仲間達が増え、
子供達が産まれ、
うちのじじまでもが毎週行くのを楽しみにしている、
こんな
今の教会の姿が想像出来なかった時が確かにあった。
牧師先生や仲間と夜の集会の場で時々話した。
「あの当時を振り返ると、
 今の教会の姿が想像出来なかったね。」
お互いの不信感を増幅させていたあの悪循環には
二度と陥るまいと仲間と話した事もあった。


私達の教会のあの危機を救ったのは神の力だと
私は確信を持って言う事が出来る。
皆が教会から距離を置き、
牧師先生に面倒な事を何もかも負わせて
バラバラになっていた時、
一人の教会員だけは牧師夫妻と共に
聖書の学びのテーブルに着き、
牧師夫妻と共に祈り、
牧師夫妻のために祈っていた。
皆が距離を置いていた時も。
私はまだ来たばかりの新参者で
呆れ返って遠巻きにしていた。
札幌の母教会に戻りたいとまで考えていた。
私はその人に声をかけられた。
「一緒に祈ってくれない?」


神の力は不思議だ。
私達が一緒に集会に参加して
祈りを共にするようになってから
別の仲間が突然夜の集会に現れた。
霊的な飢えを感じたからと言っていた。
帰り道、
モスを齧りながらお互いの信仰や教会観について
遅くまで語り合った。
しばらくすると別の仲間も祈りの輪に加わってきた。
気がつくと
その年の暮れにはあの人もこの人も一緒に
祈りを共に出来るようになっていた。


「一緒に祈ってくれない?」


一人の仲間の言葉から
既に神の力が働いていたと思う。
教会が危機に陥った時、
その場に留まって
重荷を負っている人と祈りを共に捧げる人が
誰か一人でもいるだろうか。
もしいたら、
そこから道が開かれる。
私達は現実にそれを見た。


家庭。
このブログの最初の頃の記事に散々書いた。
レギオンは今も働いている。

起きて床を担いで歩け(マルコ2;1~12)

2007-12-10 21:35:46 | マルコ
聴き書きノート
FEBC『イエスの生涯を黙想する』(英隆一朗司祭)


中風の人を癒す。


イエスの評判が高まった理由には病人の癒しがあった。
英神父様の表現で言えば
イエスはカリスマティック・ヒーラーだった。
福音書では
あんまりたくさん病人を癒す場面が出て来るので
返ってどう黙想していいか戸惑うほど。


イエスの癒しの力の働き方を考える。
私達の救いの中で
その力がどのように働くのかを黙想する。


イエスに癒して貰おうと
どんどん人々が集まって来ていた。
イエスに会おうとする人々が病人を連れて押し掛け、
戸口が一杯だった。
群集に阻まれて
4人の男達は中風の人をイエスの元に連れて行けなかった。


群集に阻まれて・・・。
ここでいう"群集"とは、
人とイエスとの間を阻むものの事である。


自分にとっての"群集"は何か。
世間的な考え、他人の目とか・・・。
自分にとって何が群集なのか。
何が自分とイエスとの間を阻むのか。


英神父様が出会ったある高校生は
自分とイエスとの間を阻む群集は自分だと答えたという。
うむむ・・・なるほど。。。


4人の男達は諦めなかった。
中風の病人を
戸口からイエスの元まで連れて行けなかったので
イエスのおられるあたりの屋根を剥がした。
そしてそこから床ごと病人を吊り下ろした。


イエスに近付きたいが群衆に阻まれて行けない、
しかしそこで諦めずに視点を変えてみる。
違う見方で、違う方法で、違う回路でイエスの元に行く。


自分がそれをするかどうか。
4人の男達のように。


イエスは、
その人たちの信仰を見て、
中風の人に、
「子よ、
 あなたの罪は赦される。」
と言われた。
         (マルコ2;5 新共同訳)


屋根を剥がしてまで病人をイエスの元に吊り下ろした、
4人の人達の実行、信仰の態度をイエスは見られた。
彼らの信仰の行動を。
信仰の行動。
ものの見方を変えるか、
心の向き加減を変えるか。
悩む人は狭い戸口と群集しか見ていない。
そこに囚われ、縛り付けられてしまっている。
あとひと工夫と視点さえ変えれば
剥がす事の出来る屋根があるのに。


イエスは、彼らのチームプレーを見ている。
4人の人達と1人の病人、5人のチームプレーを。
相談、協力、工夫、それらを合わせた信仰を見ている。
自分だけで頑張ろうとしてはいけない。


チームプレー。
教会ってまさにそうだ。
今さっき、
教会の仲間と電話でそんな話をしていた。


優れた能力がもし与えられていたとしても、
一人でスタンドプレーはダメだよね。
誰か一人だけが大活躍しても
それっていずれ罠になるよね。
物事うまく行ってる時はいいけど
問題や困難が起こったら
スタンドプレーの人が全部抱え込んで孤軍奮闘して
他の皆はドン引きして遠巻きにして
手も物も貸さない一緒に祈りもしない、
口でワンマンだと批判し文句だけ言って
うまく行かない事の責任や面倒な後始末を
全部ただ一人の人に負わせて潰そうとする。
孤立した人はますます意固地になって四面楚歌に陥る。
そんな悪循環が起こって
教会が内側から崩れてしまう現実があるよね。


あああ
脱線してしまった。
聖書に戻ろう。


病人の病は罪の象徴として表現されている。
罪によって歩けない、寝たきり。


「子よ、
 あなたの罪は赦される。」


イエスは解放を宣言された。
イエスからこう言われた時、
英神父様が言うには、
中風の人には自分の何が赦されるかピンときた筈。


律法学者達は
そんなイエスのやり方、考え方にケチをつける。
何にでもケチつける人っている。
(自分で自分にケチつけてる人もたくさんいますね。
 人のケチはともかく
 自分のケチをどうつけてるかも大事です。―by英神父)


罪が赦されると言うのと
床を担いで歩けと言うのと
どちらが易しいのか。
人間にとって
罪の赦しが難しいのか。
起きて床を担いで歩くのが難しいのか。


起きて床を担いで歩く方が明らかに難しい。


英神父様の出会った、
ある心の病の人の言葉。


「自分は治りたくなかったのだと思う。
 起き上がりたくなかった。
 起き上がったら自分の責任を伴うし、
 困難を背負わなければならないし、
 自分の問題に直面しなければならないから。」


起き上がるには力も要るし、勇気も要る。
囚われたり、
誰かのせいにして恨み節を言って
寝ている方が楽だった。
自分が責任を負わなくていいから。


私にとって何が"床"(とこ)であるか。


イエスは
起きて床を担いで歩けと言われた。


イエスは
私達が起き上がって歩いて行く事を望んで
励まして下さる。

弟子の道(マルコ1;16~34)

2007-12-10 13:39:16 | マルコ
聴き書きノート
FEBC『イエスの生涯を黙想する』(英隆一朗司祭)


マルコ1;16~20
マルコ1;29~34


イエスに呼ばれる。


イエスは単独での宣教ではなく、
仲間と共に宣教活動をした。
イエスの弟子達は、
自分達から志願してイエスに弟子入りしたのではない。
イエスの方から一緒に来なさいと招かれた。


この弟子達が
特に人間的に優れているとか
信仰的に優れているとか
何か能力が優れているという理由で
イエスが高い評価をして弟子にしたのではない。


イエスの弟子達を見る眼差しを黙想する。
イエスは弟子達の中に何か秀でた才能を見出したり
優れた能力を評価する目では見ていない。
何の力もない、貧しい無力な人間を
イエス御自身が自らお呼びになった。


イエスの弟子になる時に、
私達は信仰的に優れているとか
品行方正だとか能力があるとか
そんな理由で選ばれたのではないという事。


イエスに従う。


イエスに招かれた弟子達は
今それまでしていた仕事を置いて、
親も船も置いて、
イエスに付いて行った。


イエスに従う時、
私達は何かを捨てなければならない。
自分はイエスのために何を捨てるか。


そうだ。
私自身、
イエスのために何を捨てて来ただろうか。
何かを捨てて来ただろうか。


唐突に、
賛美歌332番を思い出した。


  主は生命を与えませり
  主は血潮を流しませり
  その死によりてぞ我は生きぬ
  我何をなして主に報いし


  主は御父の元を離れ
  侘びしき世に住みたまえり
  かくも我がために栄を捨つ
  我は主のために何を捨てし
      (賛美歌332番 日本基督教団出版局1971年)


私自身、
イエスのために何を捨てるべきだろうか。


人々に仕える。


イエスは
熱を出して寝ていたシモン・ペトロの姑の傍に行き、
手を取って起こされた。
病む人、痛む人、苦しむ人と1対1で向き合う。
イエスの姿勢。関わり方。


癒された人は一同をもてなした。
もてなす事とは、人々に仕える事。


イエスの弟子になるという事は
イエスに従う事であると同時に人々に仕える事。

あ!目からウロコ(マルコ2;1~12)

2007-11-26 16:24:19 | マルコ
聴き書きノート
FEBC『イエスの生涯を黙想する』(英隆一朗司祭)


今日は仕事休みで
朝飯しながら
今日更新されたばかりの
FEBC『イエスの生涯を黙想する』を聴いていた。
聴き書きノートはまだアップできないけど
今日もまた目からウロコが落ちたであるよ。
中風の病人を癒すところ。
これまで
何となく漠然と読んだり
変にひねくって解釈しようとしたのを
思い出した。
特に印象に残ってるのが
当時若者が極度に少なかった母教会で
大学生や高校生が数人でほそぼそと集まり
この箇所を読んでた時の会話。


「“罪が許されたと言う”のと
 起きて床を担いで歩くのと
 実際どっちが簡単で
 どっちが難しいんだろ?」


「“罪が許されたと言う”の方が 簡単だよ。
 言うだけなら簡単じゃね?」


「え?罪なんて
 そう簡単に許されないっしょ」

「そぉかぁ?
 だってイエス様って
 何でも出来るんだから
 寝たきりの人に
 床を担いで歩かせるなんて
 全然簡単じゃね?」


「で、結局どっち?」


こんな会話。w


そもそも“床”とは何の事を言っているか。
全然考えてなかったな。

最後の食事(マルコ14;22~26)

2007-04-06 12:26:55 | マルコ
昨日は受難週の最後の晩餐の木曜日だった。


私は昨夜は掃除をしていて、
古いCDがあったので聴いてみた。
何年か前にCMでも使われた曲だ。
それを聴いた途端、
たくさんの人達の姿が目に甦って来た。
私にとって特別な人々だ。


その曲がテレビのCMでよく流れていた頃、
私は外科病棟で抗癌剤療法や
モルヒネ剤による疼痛コントロールをする人達を受け持ち
仕事が終わって自宅に戻ってからも
多剤併用療法のマニュアルや薬剤の文献を読んでいた。
日勤が終わって帰宅した夜更けに
テレビから流れてくるその曲をぼんやり耳に聴きながら
病室の天井を眺めて眠れないであろう人達の
長い長い時間を考えた。
家に帰りたかっただろう。


病名を告知されてもされなくても
殆どの人が自分の病名を悟っていたと思う。
病名を知るというよりも
自分の死期が近い事は
私達よりも本人が誰よりも早く感知していた。


死期を悟ると
最後に誰かと食卓を囲みたくなるものなのだろうか。
終末が近づいて食べ物を受け付けなくなっているのに
唐突に「あれが食べたい」と訴えた人を何人も見た。
そして
そんな時彼らは必ず誰かに
一緒に食卓を囲んで食べて貰う事を切実に望んでいた。


ある40歳代の女性は思いをぶつける相手がなかったのか、
主任看護師の後をついて歩き、
泣きながら訴えていた。


「助けてください。
 死にたくない。
 私にはまだやり残した事がたくさんある。
 子供達を残してどうして。
 死にたくない。
 私は今死ねないんです。
 死にたくない。死にたくない。死にたくない。」


それから間もなく、
その女性は泣かなくなった。
痛みが強くなってきていたので
モルヒネ剤も使い始めた。
手足がどんどん細くなって眼窩が落ち窪んできた。
出された食事も口に出来ない事が多くなっていった。
体を起こす事さえ難しくなった頃、
その人は訴えてきた。


「看護婦さん、
 私、おそばが食べたいんだけど
 だめかしら。
 出前ここで取ってお友達と一緒に食べたいの。
 だめかしら。」


胃癌の末期で三分粥でさえやっと飲み込んでいるのに
そばを食べるのは無理だと誰もが思った。
主治医は食べたい気持ちのあるうちに
好きな物を味わわせようと言った。
友人が持ち帰りでもりそばを病室に持ってきてくれた。
その女性は顔を輝かせて
仲の良い友達と二人でそばを三分の一も啜り、
満足した表情を浮かべていた。
その女性が最後の戦いを終えた時、
死後処置をしながら私は
その時の事を思い出し、考えていた。


一緒に食べてくれる家族も友達も
誰もいない、そんな人もいる。
それでも人は死期が近くなると
誰かと何か一緒に何かを食べたいものなのだろうか。
誰にも一緒に食卓を囲んで貰えない人は
時に主治医や受け持ち看護師にそれを望む事があった。
ある年配の女性は主治医を息子のように慕っていた。
肺癌末期で他にも余病がたくさんあった。
ある日、その人はヘルパーに千円札を握らせて
寿司折りを買って来て貰っていた。


「先生には本当にお世話になった。
 今晩、先生にご馳走したい。
 一緒に食べたいから。」


主治医はその夜当直だった。
きっと夕方病室に来てくれるだろうとその人は思っていた。
看護師はそれを主治医に伝え、主治医は「わかった」と言った。
その晩は急患もなく急変らしい急変もなかった。
夕食の配膳の時間になって
その人はベッドに起き上がって待っていた。
夕食の時間が過ぎても主治医が来ないので
看護師が何度か主治医を呼んだ。
主治医は「うん。後で行く」と答えた。
急患がなくても仕事は山積みなのだろう。
消灯近くなっても主治医は来なかった。
呼んでみたが連絡が取れなかった。
ヘルパーと看護師がその人を説得した。


「ごめんなさい。
 先生は今夜は忙しくて来られないみたい。
 ○○さん、
 お腹空いちゃったでしょ。
 先生待たないでお寿司食べて。」


その人は頑として寿司に手をつけず、
とうとう消灯の時刻になってしまった。
その人は私達が正視できないほど
ぺしゃんこに沈み込んでしまった。


「私は食べられないから、
 これ、あなた方で食べて頂戴。」


ヘルパーと看護師達は途方に暮れた。
それ以後、その人はものを食べる事はなく
話もしなくなった。
こちらから話しかけても諦めたようにふっと笑って
会話にならなかった。
病状は急斜面から転がり落ちるように悪化した。


「どうしてあんなひどい事をしたんですか。
 ○○さんはずっと待ってたんですよ。
 最初から断わった方がましだった。
 その方がまだ思いやりがあった。」


看護師達が口々に主治医を批判し、責めた。
後でベテランの看護師が言った。


「先生は来なかったんじゃなくて
 来れなかったんだよ。
 ○○さんの家族は何年も殆ど来ないし
 長い間ずっと先生先生って
 息子みたいに頼りにされて慕われて
 今この段階になって最後のお別れに
 寿司折りなんか開かれたら
 先生の方が泣けてきたんじゃないかな。」


昨夜、その曲を聴いていると、
あの人もこの人も、
死期が間近に迫った事を知った時に
一度だけ
誰かと何かを一緒に食べたがっていた事を思い出した。
誰かと一緒に食卓を囲んで貰えた人は
幸せそうに世を去っていった。
誰とも食卓を囲んで貰えないまま
ぽつんとうなだれて世を去っていった人達の姿は
今もちょっとした事で
当時耳にした歌なんかに誘発されて甦ってくる。
誰でもこの世を去る前には
誰かと一緒に「おいしいね」とか「ありがとう」と
分かち合いたいものなのだろうか。


主イエス・キリスト
あなたも
弟子達と一緒に食卓を囲む事を望まれました。
あなたは
彼らの長い長い夜を
誰よりも御存知です。

マルコによる福音書再び読了

2007-03-10 11:24:00 | マルコ
昨夜マルコを再読した。
一番苦しい時に
誰一人心を合わせてくれない。
一番大事な時に
誰一人祈ってくれない。
ゲッセマネに一人
取り残された御方の孤独を
考えた。

『イエスの天の国を愛する人は多いが、
 その十字架を担おうとする人は少ない。
 慰めを望む人は多いが、
 苦しみを望む人は少ない。
 イエスと共に食卓につきたい人は多いが、
 イエスと共に断食する人は少ない。
 キリストと共に楽しむ事を望むが、
 キリストのために
何事かを忍ぼうとする人は少ない・・・・』
   (De imitatione Christi)

マルコによる福音書読了

2007-03-08 13:45:00 | マルコ
昨夜消灯後から読み始めて
先程読了した。
マルコは共観福音書の原形と言われてる。
知ってる事だけ書きましたという感じの
そっけないほどシンプルな文章なのに、
生々しい臨場感。
こんな風に読んで欲しいとか
こう受けとめてくれ、みたいな
書き手の意図が一切表されていないだけに
かえって現地リポートのように
貧しい民衆の生活臭や
炎天下に晒された魚の臭いや
乾いた葡萄の汁の臭いや、
家畜の臭いまでも伴って
人々の喧騒が聞こえて来る気がする。
砂埃に霞んだ群衆の向こうに
あの御方の横顔が微かに見えてくる。