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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

じじと読む一日一章(マルコ11;27~33)

2008-03-01 23:46:11 | マルコ
3月1日(土)マルコ11;27~33


権威についての問答。


「何の権威でこんな事をするかって
 宗教指導者達はイエスに難癖つけてきたけど、
 彼らは自分達にこそ権威があると思っているから
 こういう言葉が出たのかもね。」


「そうだな。」


「権威の上にあぐらをかいて
 人々から献金を搾り取ったりピンはねして
 私腹を肥やすための道具に神までも利用する、
 それを暴いたイエスを闇討ちする口実を作るために
 イエスの言葉尻を捕らえようとした。
 そうやって自分達から議論をけしかけながら、
 返事に困ると逃げる。
 打算で成り立ってんだ。」


「うむ。」


「イエスがエルサレムに来て、
 この後しばらくこんな問答がいくつか続くよ。 
 祭司長達と律法学者達とファリサイ派達は
 あの手この手でイエスを論破しようとするから。」


「うーむ。」


おーいじじ、
2000年前の世界から戻って来~い。

じじと読む一日一章(マルコ11;12~14、11;20~25)

2008-03-01 22:50:29 | マルコ
マルコ11;12~14、11;20~25


実のならない木。


「イエスが何か食べたいと思って
 実を探したけど実のついてなかった無花果の木がさ、
 イエスが呪ったら枯れたんだって。」


「ほぇ~。」


「実を結ばない木というのは、
 祭司長や律法学者やファリサイ派の人々を指していると
 言った人もいるよ。
 象徴的な意味に解釈すると、
 神の御心から離れた信仰のあり方は、
 植えて育てたのに実のならない木と同じかも。
 洗礼者ヨハネが別の福音書で
 "悔い改めに相応しい実を結べ"と言ってるから。」


「なるほどな。」
 

神を信じなさいという事、
疑わずに祈る事、
祈り求めた事は既に得られたと信じる事。
神に向かう時の姿勢、
神を信頼する態度について。
ここは、
深く掘り下げずにさらっとだけ説明した。
いずれ牧師先生から教えて頂く必要があると思ったので。
私などの薄っぺらな説明などではなく
日々の生活の中で
ゆっくり時間をかけて少しずつ体得すべきものだと思う。


 「また、立って祈るとき、
  だれかに対して恨みに思うことがあれば、
  赦してあげなさい。
  そうすれば、
  あなたがたの天の父も、
  あなたがたの過ちを赦して下さる。」(11;25)


「お父さん、
 ほらここは主の祈りにあるよ。
 "私達の負い目をお許し下さい。
  私達も私達に負い目のある人達を許しました。"」


「おお。」


じじ、
ここでまた感心している。

じじと読む一日一章(マルコ11;1~11、11;15~19)

2008-03-01 22:27:20 | マルコ
3月1日(土)マルコ11;1~11、11;15~19


エルサレム。


 「主がお入り用なのです。」(11;3)

 
まだ誰も乗った事のない子ロバ。
イエスはその子ロバに乗られた。


「お父さん、
 イスラエルの人々はローマ帝国の占領下で
 苦しい生活をしていて、
 いつか救い主がやって来て
 自分達をこの苦しい生活から
 開放してくれると信じて待ち望んでいたのさ。」


「そうだな。」


「イスラエルの人々にとって救い主は
 ローマを力で制圧してくれるような、
 例えば軍事クーデターなんかを起こしたり
 軍事力も経済力も指導力も有力な人脈もあって
 かっこよく勇ましく、華麗に現れる、
 大昔のダビデ王みたいに颯爽と現れるような
 期待をしていたかも知れない。」


「へぇ。」 


「大昔に、ダビデ王っていたの。
 貧しい一人の羊飼いの少年が
 イスラエルを統一国家にまでした王様さ。」


「へぇ~」


じじ、身を乗り出している。
大河ドラマ好きなんだよ。


「ま、とにかくイスラエルの人々は
 救い主がダビデみたいに華々しく現れて
 ローマの圧政から自分達を救い出してくれると
 期待していたのさ。」


「うん。」


「だけどね、
 救い主が現れる事を書いた預言書には
 そうは書いてないのさ。
 預言書では、
 救い主がそんなかっこよく現れるとは書いてない。」


「ほぉ~。」


「救い主は柔和で、
 子ロバに乗ってやって来ると書いてあるのさ。
 イザヤだったかな、
 旧約聖書の預言書の一つに、
 本当に書かれてあるんだよ。
 イエスが生まれるずっと昔の預言者の預言で。
 終わって自宅に帰ったら後で電話で教えるわ。
 今調べ始めたら朝になってしまうから。」


「そうか。」


「イエスは立派な馬ではなくて
 子ロバに乗って
 トコトコとゆっくりエルサレムに入った。
 貧しい群衆がイエスの前からも後ろからも集まって来て、
 手に棕櫚の葉とか木の枝とか持って振りながら、
 ほら、
 天皇陛下がパレードすると沿道で皆日の丸振ってるでしょ。
 2000年前のイスラエルの貧しい群衆は
 手に葉っぱの付いた木の枝を持って
 ホサナ、ホサナ、って
 叫びながらイエスに付いて来た。
 自分の着ている服を脱いで道に敷くのは
 王様に対して最大の尊敬を表わす行為なのさ。
 自分の服を道に敷いて、
 王様にその上を踏んで歩いて頂く。
 "ホサナ"というのは、
 救い主に向かって"今救って下さい"
 という意味なんだって。」


「ほぉ~」


じじ、
笑いながらしきりに感心している。
じじは周りの者の思惑を覆すような
イエスの言動行動が出て来ると
愉快そうに笑う。
じじはイエスのそんな所が好きらしい。


翌日、
イエスはエルサレム神殿の境内で
両替商や生贄用の家畜を売る商人達を
追い出した。


「イスラエルの神殿に献金する時は、
 外国であるローマの貨幣は使えなかったから、
 両替しないと献金出来なかったんだよね。
 それで両替商が神殿にいた訳さ。」


「ピンはねしてたんだな。」


「そうそう。
 生贄の動物も、
 イスラエルの律法で
 全く傷の無い雄の第一子でなければならないと。
 そういう決まりがあったから神殿で売ってたのさ。
 きっと値段を吊り上げて
 貧しい人にも高く売りつけて
 ぼろ儲けしてたんだよ。
 そして、
 燔祭として捧げた生贄の一番良い部分は
 祭司の物という決まりだったからね。」


「ぼったくりだな。」


「そう。
 イエスは強盗の巣と言ってるね。
 神殿は神様の御心とは何の関係も無くなっていて、
 むしろ欲たかりの宗教指導者達が
 私腹を肥やす場となってた。
 それでイエスは怒って
 商人達を神殿から追い出したんだよ。」


「なるほどな。」


「イエスがそんな事をしたから
 祭司長達も律法学者達も頭に来たけど
 手出ししなかった。
 表だって手出ししないで闇討ちしようとしていたのさ。
 群集がイエスに大勢付いて来ていたから
 イエスに手出ししたら暴動になり兼ねなかったし。」


「そうだな。
 暴動になったかもわからんな。」

じじと読む一日一章(マルコ10;32~52)

2008-02-29 23:59:05 | マルコ
2月29日(金)マルコ10;32~52


エルサレムへの道を、
イエスは先頭切って進まれた。


「弟子達は相当びびってたと思うよ。
 エルサレムと言えば、
 神殿目指して行くんだし、
 そこは、
 イエスを目の敵にする祭司長、律法学者、
 ファリサイ派達の
 根城というか、総本山というか、拠点だったからね。
 イエスは命を狙われていたし、
 何時闇討ちに遭うかわからない場所目指して、
 堂々と先頭切って進んで行かれたのさ。」


「ほぉ。」


ここでもイエスは自分が殺される事を予告する。
イエスご自身による3回目の予告。


「師匠がこれからエルサレムへ殺されに行くと言ってるのに
 弟子達は誰が一番偉いかとか
 ヤコブとヨハネの兄弟二人して
 自分達を左大臣と右大臣にしてくれとか
 願い出たりしてんのね。」


「呑気な話だな。
 わかってなかったんだな。」


「弟子達はこの時点で
 誰一人イエスを理解していなかった。
 だからイエスから
 "このわたしが飲む杯を飲み、
  このわたしが受ける洗礼を受けることができるか"
 って問われて、
 "出来ます"なんて答えてる。」


「ははは」


「お父さん、
 杯と言うのは、ここでは飲み物じゃないのさ。
 杯って苦しみの事を言ってるんだよ。
 洗礼も、儀式の事を言ってるんじゃなくて
 死に方の事を言ってるのさ。」


「ほぉ。」


「イエスがどんな苦しみを受けて
 どんな死に方をするか、
 弟子達は全然理解してなかったから
 "出来ます"とか答えたんだと思う。
 確かに、
 ずっと後になって弟子達は殉教する。
 でもイエスと一緒にいた頃の彼らはまだ
 その事を知らなかったと思う。
 知ってたら
 ひとつ返事で"出来ます"とは
 答えられなかったんじゃないかな。」


「そうだな。」


「全然わかってなくて、
 自分達の中で誰が偉いかとか議論し合ってた。
 このみっともない、
 恥ずかしい姿が私達人間の本性だよ。
 だから笑えない。」


「・・・・」


「そんな惨めな人間達の罪を贖う身代金として
 イエスはご自分の命を捧げに来たと、
 ここではっきり言ってる。
 だから、
 イエスに倣って
 偉くなりたい者は僕になれと言ったんだよ。」


じじ、
腕組みして考え込んだ。


エリコに来て、
イエスは目の見えない人を癒した。


「ここでも言ってるでしょ。
 "あなたの信仰があなたを救った。"
 信仰によって救われるんだ。」


「・・・・」


「次回はいよいよエルサレムに入城するよ。」


「そうか。」


考え込んだところで本日はお開き。
じじ、次回を乞うご期待。

じじと読む一日一章(マルコ10;13~31、ヨブ1;21~2;10)

2008-02-29 23:09:28 | マルコ
2月29日(金)マルコ10;13~31


神の国に入る事について。


 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ
  決してそこに入ることはできない。」


「お父さん、
 子供というのは、
 当時のイスラエルでは
 人間として数に入っていなかったのさ。
 子供のように神の国を受け入れる人というのは、
 力もなく、知恵もなく、頼るものもない、
 何も持っていない弱い立場、
 神様に頼るしか生きていく術のない弱い立場でさ、
 子供のように無垢で、
 ただ無心に神様を慕う、
 そういう心のあり方の人を
 神様は祝福して迎え入れて下さると言ってるんだ。」


「そうか。」


金持ちの男について。


「この金持ちの男は
 子供の時から真面目に律法を守って生きてきた。
 それでもなお
 善良な生き方をして神の国を求めていた。
 愚かでもなく傲慢でもなく、善人だったと思う。
 だからイエスに声をかけてきたんだよ。」


「そうだな。」


「でもイエスはこの人に、
 それだけでは足りないと言った。」


「うん。」


「財産を売り払って貧しい人々に施せと言われた。」


「うん。」


「でもこの人はたくさんの財産を持っていたから、
 がっかりして立ち去った。
 金銭や物や家畜、使用人、商売、
 いろいろな資産を持っていただろうと思うよ。
 この人はその財産を手放す事が出来なかったんだ。
 一度手にしたものを手放す事は簡単じゃないよね。
 どうしても執着してしまうでしょ人間て。」


「そうだな。
 そう簡単な事ではないだろう。」


「うん。
 そしたらイエスはこう言われた。」


 「金持ちが神の国に入るよりも、
  らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(10;25)


「う~~~ん・・・・・」


じじ、腕組みして考え込んだ。


「そんなんだったら誰も天国に行けないだろう。」


「行けないんだって。
 欲や執着やこだわりを捨てないと。」


じじ、首を捻っている。
納得いかない様子だ。


「キリスト教では、
 私達の持っているものは全て、
 物も財産も、命も、能力も、人間関係も、
 全て神様のものなのさ。
 私達は神様から与えられて養われている、
 そういう考え方なんだよ。」


「ふぅん。」


「私達が神様から与えられたものは全部、
 本来は神様の御用のために使われるべきものなのさ。
 自分のものであって自分のものじゃないんだよね。
 この人は
 それを手離して付いて来なさいと言われたけど
 出来なかった。
 執着があったのか何かしがらみがあったのか、
 わからないけど捨てる事が出来なかった。」


「・・・・・」


「イエス・キリストに従って行く人は
 それまでの生活を置いて、
 執着とかいろいろな何かを捨てて
 イエスに従って行くんだ。」


「・・・・・」


「ペトロはここで言ってる。
 “わたしたちは何もかも捨てて
  あなたに従って参りました。”
 そうだよね。
 ペトロと兄弟のアンデレも漁師だったけど
 仕事辞めて父親と雇い人達を置いて、
 家業を捨ててイエスに従って行ったからね。
 こないだ、
 牧師先生の事話したでしょ。
 牧師先生も仕事辞めて牧師になった。
 イエス・キリストに従って行く人は皆、
 それまでの生活を一度置いて、
 イエスに付いて行くのさ。」


じじ、
納得できない顔してる。
そうだろうな。


「イエス・キリストは神の子だけど、
 十字架に架かって
 ご自分の全てを私達に与えて下さった。
 私達の罪を贖うためにさ。
 私の罪や、お父さんの罪を贖うために十字架の上で
 死なれたんだよ。
 ならば自分は何を捨ててイエスに付いて行くか。
 それが問われているのさ。」


じじ、考え込んでいる。


私達のものは全て、もともと主なる神様のもの。
えっと・・・
では、ちょっとマルコは今日はここまでにして、
ヨブ記を読んでみる事にした。
じじ、虫眼鏡でヨブ記を朗読する。


(ヨブ記1;1~2;10)


ヨブの信仰。
ヨブの神に対する態度。
ヨブの与えられる事と失う事に対する考え方。


 「わたしは裸で母の胎を出た。
  裸でそこに帰ろう。
  主は与え、主は奪う。
  主の御名はほめたたえられよ。」(1;21)


 「わたしたちは、
  神から幸福をいただいたのだから、
  不幸もいただこうではないか。」(2;10)


「う~~ん。
 これはなかなか大変な事だ。」


「お父さん、
 ヨブは信仰の姿勢のお手本だよ。
 ヨブのようにいられる人は
 実際そんなにはいないと思う。」


「そうだな。」


「私達は神様からたくさんのものを頂いてるけど、
 それは神様が私達を通して
 他の人々を救いたいからだと思う。
 私達の持っている物や
 お金も能力も時間も手間隙も努力も、
 全部、神様が人々を助けて救うために、
 私達に託されたものなんだけど、
 私達は弱くて、
 一度手にしたものを手離す事が出来ないのさ。
 財産を捨てられなかった人も、
 真面目な信仰がありながら、
 手離す事が出来なかった。
 この人は財産に対する執着を手離すまで
 決して神の国に入れて貰えないと、
 イエスはここで言ってるんだよ。」


じじ、考え込んでいる。


「私達は自分が神様から与えられて、
 養われて生きている事を忘れてはならないのさ。
 忘れると、
 自分のものは自分のものと思って
 執着してしまうからね。」


「難しいなぁ。
 そんなんだったら誰も救われないぞ。」


「だからさ、
 日々養って下さる神様に感謝しないと。
 主の祈りの
 "私達の日ごとの糧を今日もお与え下さい"も、
 そういう意味だよ。」


「なるほどなぁ。」


「だけどね、
 私はヨブのような人に会った事がある。
 釧路に来たばかりの時に、
 お父さんにちょっと離した事があったと思うけど。」


「そうだったかな。
 憶えてないな。」


ここで、
じじに私が出会ったあるキリスト者の話をした。
(ぱんくず日記2006/08/22)
 ↓
http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/89eb56819f34c0a8f5b280b67dd30b00


「井上さん。
 俺が負けたと言うのはさ、
 裁判には勝ったけど何もかも失った、
 だから負けたんだ。
 俺は負けたんだよ。」


私はPさんに聞いた。


「医者も病院も、生涯許せないでしょうね。」


Pさんは私に答えた。


「井上さん、
 俺達は神様から幸せを頂いてるんだ。だから、
 辛い事も頂くんだよ。」


Pさんはヨブの信仰を持った人だった。
あの時のPさんの言葉を、
話した時の声も、表情も、
私にとって生涯忘れられるものではない。


じじは考え込み、
私も自分自身考え込んだ神の国。

じじと読む一日一章(マルコ10;1~12)

2008-02-28 22:20:53 | マルコ
2月28日(木)マルコ10;1~12


離縁についての律法解釈。


「ファリサイ派の人々が
 イエスのあげ足を取ろうとして
 いろいろと議論を吹っかけてくるのさ。」


「そうだな。」


離縁の箇所について、深くは掘り下げなかった。
じじもその配偶者だった人も
いずれも再婚してはいないから姦通にはならないのかな。
姦通よりももっと複雑な、
根深い罪によって熟年離婚したと
子供である私は思っている。
離婚者である自分を
じじはこの箇所を読んでどう考えるのか。

じじと読む一日一章(マルコ9;30~50)

2008-02-25 23:01:33 | マルコ
2月25日(月)マルコ9;30~50


イエスは再び予告する。


 「人の子は、
  人々の手に引き渡され、殺される。
  殺されて三日の後に復活する。」


師がこれから殺されると言っているというのに、
弟子達は誰が一番偉いか議論し合っていた。


「イエスがこれから十字架で死刑になるというのに
 自分達の中で誰が一番偉いかって、
 弟子達はこの時全然危機感無かったんだ。
 この情けない姿が
 私達人間の本性だよね。
 偉そうな事を言える人はいないと思うさ。」


「はははそうだな。
 わからなかったんだろう。」


「教会だって同じ。
 それぞれ自分が偉いと内心思って議論し合うから
 物事決まらない。
 道内の教会が一ヶ所に集まって会議するんだけど
 議論の様子なんか見てたら迷走しっぱなし。
 偉い人ばかりたくさんいて。
 いずれ沈没して散り散りになるかも。」


「教会とはそういうものか。」


「そういうものだよ。
 ただ許されただけの弱い罪人の集まりだから。
 イエスの弟子達と同じように。
 ここを読んで笑ってはいけないのさ。
 自分の事を言われてると思わなきゃ。」


「そうだな。」


じじ、
何時になく素直だな。


弟子達の了見の狭い事が次に出ている。


「弟子達は自分らの仲間でないのに
 イエスの名前で悪霊を追い出してた人を
 やめさせようとしていたのさ。」


「ふん。そうだな。」


「でも、
 イエスは逆らわない者は味方だからやめさせるなと。
 キリストの弟子だからって
 水一杯でも飲ませてくれる人は
 神様から喜ばれて祝福されるのさ。 」


律法の解釈、罪への誘惑について。(9;42~50)


「律法学者達は人々に対して
 規則を守る事、律法を遵守する事を厳しく守らせて
 人々の生活をがんじがらめに
 規則で縛り付けていたよね。」


「そうだな。」


「それに対してイエスは
 神様は人々を慈しみ、憐れんでおられる事を示した。
 人々にとって優しくいたわりに満ちた姿勢で
 神の御心を表わしてきた。
 但し、律法の解釈については
 律法学者よりもイエスの方が厳しいんだよ。」


「ほう。」


「例えば、律法では
 "殺すな""姦淫を犯すな"という戒めがあって
 実際に人を殺した者や姦通をした者は
 死刑にする決まりなのさね。
 でもイエスは、
 心の中で人を憎んだだけで人殺しと同じ、
 異性を情欲の目で見ただけで姦通と同じと
 言っているのさ。
 厳しいでしょ。」


「そうだなぁ。
 誰も守れないだろうそんなんじゃ。」


「うん。100%守れる人はいない。
 だから自分は罪人であると自覚して
 日々悔い改めろという事なのさ。」


「そうか。」


じじ、
考え込んだな。

じじと読む一日一章(マルコ9;14~29)

2008-02-25 22:36:11 | マルコ
2月25日(月)マルコ9;14~29


悪霊に取り憑かれた子供を癒す箇所。
弟子達にはこの子供を癒す事が出来なかった。
父親は「出来れば、助けてくれ」とイエスに言う。


 『できれば』と言うか。
 信じる者には何でもできる。(6;23)


 信じます。
 信仰のないわたしをお助けください。(6;24)


神様から目を外さず疑わずに信じ、
神に委ねる。
それが信じる者の姿勢。


じじ、
またも引いてるな。
奇跡の箇所を読む時、
じじはいつも一歩引く。


「お父さん、
 私は仕事でもびっくりするような奇跡を
 見た事が何度かある。」


「ふふん。」


笑ったな。
ここで、私の体験した奇跡をじじに話した。
(↓ぱんくず日記2006/08/23)
http://blog.goo.ne.jp/t-801025/e/96275a3f77ed8c0f76f5b9ea297214ab


じじ、感心しているが。


「世の中には、
 何だかわからん事がたくさん起こるものだなぁ。」


「私もさ、
 祈ったくせして祈った事自体を忘れてんのね。
 でもちゃんと祈りは聞き届けられてたんだよ。」


「なるほどなぁ。」

じじと読む一日一章(マルコ9;1~13)

2008-02-25 22:34:28 | マルコ
2月25日(月)マルコ9;1~13


イエスの変容の箇所。


「お父さん、ここの箇所は難解な箇所で
 この箇所の論文書いてる神学者って少ないらしいよ。」


「そうか。」


「ま、
 わからないものはわからないんだから
 知ったかぶりしないで
 一礼して通り過ぎるのが一番いいのさ。」


「ふっ(笑)」


「だって、
 だれも解説出来ないでしょ。
 イエスの姿が弟子達の目の前で真っ白に輝いて、
 モーセとエリヤが現れて
 イエスと話してたんだもの。
 モーセとエリヤという二人は、
 そういう先駆者で預言者で指導者だった。
 イスラエルの信仰では歴史的に重要な預言者だよ。」


「うん。」


「モーセという人は、
 出エジプト記に出て来る。
 昔『十戒』という映画があったんだけど
 エジプトの奴隷だったイスラエル民族を
 神様との約束の土地だったカナンに向かって率いて
 エジプトから脱出させた指導者さ。」


「ほぉ。」


「エリヤという人は、
 列王記に出て来る預言者。
 こないだ話したイスラエルの王国が分裂した
 片割れの南ユダ王国のアハブ王の時代の預言者でね、
 暗愚な王だったアハブが
 妃イゼベルに倣って偶像礼拝したり
 個人の土地を横取りするために持ち主を殺したり、
 神との本来の約束を破って堕落したんだよね。
 それに対してエリヤは悔い改めろと
 警告したためにイゼベルから迫害された。
 仲間の預言者達も迫害されて殺されたのさ。
 預言者達が皆殺しにされた時、
 エリヤだけが一人生き延びて
 神様に導かれて次の王と次の預言者に油を注いだのさ。」


「ほお。」


「エリヤは普通の人間みたいに死んだのではなくて
 天に上げられたと書いてある。
 それで、イスラエルの人々はいつか救い主が来る時に
 預言者エリヤがまず先に来るはずだと信じていたのさ。
 でも、
 弟子達はびっくり仰天してしまって、
 ペトロは何喋ったらいいかわからなかったと思うよ。
 記念に小屋三つ建てましょうとか言ってる。」


「ははは。
 そうだな。
 そりゃびっくりするだろうな。」


「イエスがここで
 "エリヤそは来たが、人々は好きなようにあしらった"
 と言ってるのは、
 洗礼者ヨハネの事だよ。
 イエス・キリストが来る前に、
 "主の道を整え、道筋を真っ直ぐにする、荒れ野で叫ぶ者"
 が神に使わされて来る。
 それがあの首を切られて盆の上に乗せられた
 洗礼者ヨハネだった。」


「ふんふん。」


じじ、
列王記あたりの話をすると
興味深そうに身を乗り出す。
いつか新約を読み終わったら
サムエル記や列王記読み飛ばすのも
これまた楽しからずや。

じじと読む一日一章(マルコ8;1~38)

2008-02-24 22:50:45 | マルコ
2月24日(日)マルコ8;1~38


7つのパンを裂いて4000人に分け与える奇跡。
イエスを慕って3日も一緒にいた大勢の人々は
貧しく、空腹だった。
イエスはそんな彼らを深く憐れまれた。


「7つのパンを裂いて
 4000人に配って
 パンくずを集めると7つの籠に一杯だった。
 7という数字には何か象徴的な意味があるんだって。」


「へぇ~」


「詳しい事は私もよくは知らない。
 牧師先生に今度聞いてみて。」


「うむ。」


しるしを欲しがる人々について。


「ファリサイ派の人々は
 イエスに難癖つけて
 "納得出来る証拠を見せろ"と言って
 議論を吹っかけてたのさ。」


「ふん。」


「イエスが十字架につけられるまで
 それはずっと続いたのさ。」


「いつの時代も似たようなものだなぁ。」


「そうだね。」


ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種


「小麦を膨らますパン種。
 ここで言うパン種は、
 信仰のあり方、心のあり方だと思うよ。
 ファリサイ派のように
 戒律を厳守する事にばかり心が向いているのも、
 ヘロデのように
 欲望に支配されて神様に心が向いていないのも、
 どちらにも陥らないように気をつけなさいって。」


「なるほど。」


ベトサイダの盲人の癒し。
イエスはその人を癒した後、
ベトサイダの村に入るなと言われた。


「イエスの言葉に
 耳を傾けなかった村だったんだろうね。
 別の福音書でも
 悔い改めない町の一つに挙げられてる。」


「ほぉ。」


イエスとは誰かについて。
イエスの癒しや奇跡の業と教えは
評判が広まって人々の間で噂が立った。
洗礼者ヨハネ。
エリヤ。
他の預言者の一人。


「洗礼者ヨハネはこないだ読んだ、
 ヘロデに首を切られて死んだ預言者だ。
 覚えてる?」


「おー。」


「エリヤは、旧約聖書の列王記に出て来る。
 統一国家だったイスラエルが
 どんどん退廃して分裂した時の、
 南ユダ王国のアハブ王の時代の預言者だよ。
 このアハブ王は暗愚な王で、
 女房の尻に敷かれて異教の道に脱線したんだよ。
 この女房というのがイゼベルという、
 則天武后や西太后に匹敵する悪女で、
 アハブ王をたぶらかして
 国を偶像礼拝の道に堕落させたし、
 その時代の預言者達を皆殺しにした。
 エリヤはその時代の預言者で
 イゼベルに迫害されながら
 たった一人辛うじて生き残った預言者。
 お父さんの好きな大河ドラマみたいなのが
 旧約聖書の中にもあるのさ。」


「ほー。」


じじ、
身を乗り出している。
歴史物好きだし。
話がわかれば食い付き良いぞ。


「イエスが評判になった時、
 あれは預言者エリヤが現れたんだと
 言う人もいたのさ。」


「なるほど。」


「ペトロはここで、
 イエスをメシア、救い主だと言う。
 これはペトロの信仰告白だよ。
 お父さんも、洗礼式の時に同じ告白をする。
 私達もしてきた。
 イエス・キリストを救い主と告白するんだよ。」


「そうか。」


・・・・σ(-_- )


じじ、
にこにこして頷いてるけど、どうよ。


イエスは自分が救い主である事を
弟子達に口止めして、
ご自分が祭司長、律法学者、ファリサイ派の手で
殺される、
そして三日後に復活すると告げた。
ペトロがイエスを脇に連れて行って諌める。


「だってそうだよね。
 普通に考えたら、
 救い主が殺されて死んでしまったら
 誰も救われないもの、
 それじゃ困るでしょ。」


「そうだ。もっともだ。」


「でもイエスはそんなペトロを叱ったんだよ。
 神様の御意志ではなく人間の側の思いだって。
 人間の思い通りにではなくて
 神様の御意志の通りになるって事。
 何でも。」


「・・・」


じじ、引いたであるよ。
しかし、一番大事な所。


"わたしの後に従いたい者は、
 自分を捨て、自分の十字架を背負って、
 わたしに従いなさい。・・・"


「お父さん、
 これがキリスト者として生きるという事だよ。」


「・・・・」


「イエスは全ての人の罪を贖うために、
 お父さんや私の罪を贖うために、
 重い十字架を背負って歩いた。
 そして私達の罪を贖うために、
 ご自分の命を捨てて捧げて下さった。
 私達のために。」


「・・・・」


「だから
 私達もイエスに倣って
 自分を捨てて、
 自分の十字架を背負ってイエスに従って行く。
 イエスがご自分を私達に捧げて下さったように、
 私達も自分を捨てて神様と人々に自分を捧げる。
 お父さんが洗礼式で牧師先生に応えて
 "はい。"と自分の口で言う。
 それにはこれだけの意味があるんだよ。」


あの・・・
じじ、何か涙拭いてんですけど。
まさか感動したか?
眠くなったのか?
今日はこれにてお開き。

じじと読む一日一章(マルコ7;24~37)

2008-02-23 23:47:32 | マルコ
2月23日(土)マルコ7;24~37


テーブルの下のパンくずの箇所だ。
まるがりたさんも私も
ここからブログタイトルを貰ったのだ。


「ここに出てきた女は、
 イエスにとっては外国人だよ。
 イエスはこれまでに、
 イスラエルの人々に教えたり病気を治したり、
 イスラエルの宗教的指導者達を批判したりしてきたけど
 イスラエル人にとって外国人は神の救いの圏外、
 対象外だったんだよね。
 イエスも始めはこの外国人の女を断ってるでしょ。」


「宗教とはそういうものか。」


「ユダヤ教は一民族の宗教だったからね。
 しかもイスラエルは
 宗教的に堕落してしまっていたから
 イエスはまずイスラエルの人々に
 悔い改めて本来の神への信仰に戻るように教えてた。
 本来救うべき人達を差し置いて
 外国人を救う事はしないとイエスは断ったんだ。
 子供の食べ物を取り上げてまで
 犬にはやらないというのはそういう事。」


「ふん。」


「でも、この外国人の女はあっぱれでしょ。
 "自分は犬ですが、
  犬も子供の食べかすを頂きます"と言った。
 自分のプライドを捨てて救いを求める姿勢だよ。
 立派だと思わない?
 イエスはこの人の信仰を認めて子供を癒して下さった。」


「そうか。」


「お父さん、私達も外国人なんだよ。
 聖書ではユダヤ人以外は皆外国人。
 この外国人の女の願いを聞き入れたところから
 ユダヤ人以外の私達外国人にも
 救いの門が開かれるようになった。
 この女の信仰の姿勢は私達にとって重要なんだよ。」


「へぇ。」


"開け"の箇所。
耳の聞こえない、話せない人の癒し。
イエスがその人の耳に指を差し入れ、
指に唾をつけてその人の舌に触れると、
たちまち聞こえ、話せるようになった。


「これも癒しの奇跡だね。
 口止めしてもそりゃあ余計に喋りたくなるさ。
 だって話せるようになったんだから。」


「そうだなあ。(笑)」


「耳が聞こえないと言うのは、
 心が閉じてしまって
 神様の言葉を聞いても
 心に響かない状態の事だとも聞いた事がある。」


「ほう。」


私達の心が神に向かって常に開かれるように祈ろう。
という訳で本日はお開き。

じじと読む一日一章(マルコ7;1~23)

2008-02-23 22:27:15 | マルコ
2月23日(土)マルコ7;1~23


律法学者やファリサイ派の人々が
堅く守っていた戒律について。


じじは、
イエスの奇跡や癒しには
ちょっと距離を置いて退きながら見ている様子だが
イエスが律法学者・ファリサイ派に対して
批判を展開する場面に対しては非常に食い付きがいい。
信仰に対するイエスの姿勢に納得してるのか、
もっともだ、もっともだと頷きながら
私の話を聞いている。


「当時の宗教的指導者達は
 戒律をがっちり守っていて、
 戒律を守る事によって救われる、
 戒律を守らなければ
 呪われて地獄に落ちるというものの見方をしていた。
 その戒律というのが物凄く細かくて
 人々の普段の生活や行動を厳しくこまごまと制限した。
 だから安息日も、
 "週一回、安息日には休んで疲れを取りなさい"ではなくて
 "安息日には仕事をしてはならない、
  ○○をしたら仕事とみなす、
  この戒律を破ったら石打ち刑"とか、
 そういう規則で人々の生活ががんじがらめになってた。
 戒律は破ったら処罰されるか場合によっては殺された。
 イエスはそれが信仰か?と突っ込みを入れたから
 宗教指導者達から反感を買ったんだよ。」


「今の世の中もそうだなぁ。
 何でも法律通りで済まない事が多いだろう。」


「うん。
 今の日本では法律を新しく作ったり
 改正したり出来るけど
 当時のイスラエルでは法律と宗教が一緒だった。
 法律は神の掟で絶対だった。
 世相に合わせて改正するなんてあり得なかった。」


「そうか。
 どこの世界もそうだろう。」


「うん。
 でもここでイエスは、
 神様は本当はそんな事を言っているのではない、
 戒律だけ守って安心する指導者達の
 本末転倒ぶりを指摘してるね。
 指導者達は口先だけで神を敬いながら
 内心では神様と全然かけ離れた事をやっている、
 と暴いてるんだよ。」


「うん。
 そうだな。」


「ここでイエスが上げてる具体例は
 お父さんと私とに置き換えてみれば
 全くその通りでしょ。
 もし私が戒律通りにお父さんの分も献金しました、
 だからもう買い物にも行かないし
 食材の補充もしない、
 ケアマネやヘルパーやデイケアとの連絡もしないし
 お茶も珈琲も入れない、
 車椅子具合も見ない、
 あれもしないこれもしない、ここにも来ない、
 お父さんの分も献金したので何もしません、
 というのと同じでしょ。」


「(笑)そうだなぁ。」


「私がもしそんな事をしたら、
 お前それでも本当にキリスト教徒か、
 どういう神を信仰してるんだって思うでしょ。
 それと同じ。
 イエスの時代のイスラエルの宗教的指導者達は
 それでよしとしていた。
 どうしてかというと、
 献金さえちゃんと寄越せば後はどうでも良かったんだね。
 献金は彼らが私腹を肥やす財源だったから。」


「そんな事になったら宗教も終わりだな。」


「うん。
 だからイエスがここで言ったんだよ。
 "あなたたちは、
  受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。"」


「全くその通りだと思うなぁ。」


「もともと神様は人間を大事に、
 慈しんでおられるのに、
 その神への信仰の専門家や指導者達が
 見当違いな方向に脱線して私腹を肥やして
 人々を救うどころか苦しめている、
 そういう現実があったんだね。」


「そうだな。」


「でも、
 イエスからの時代から2000年経った今に至るまでの
 長い時間の間に、
 キリスト教徒だって同じ間違いを積み重ねてきた。
 中世の異端審問もイラク戦争も。
 だからここに出て来るユダヤ教指導者達の事は言えない。」


「うん。」


「イエスは、
 律法学者やファリサイ派が特にこだわる
 "汚れる・汚れない"について、
 汚い茶碗でものを食べようと、
 ばばっちい手で食べようと、
 何を食べようと、
 食べた物は腹に入って便所に出されるだけで
 人間を汚したりはしない、
 人間の口から出る言葉が人間を汚すのだと
 はっきり言ってるよね。
 言葉は人間の心から出て来るから。
 イエスは戒律を遵守する事よりも
 心が大事だと言ってるのさね。」


「うん。うん。
 なるほどなぁ。
 全くその通りだ。」


じじ、
やたらと納得してしきりに頷いている。
わかってんのかな。
どうよ。

じじと読む一日一章(マルコ6;1~56)

2008-02-22 22:49:40 | マルコ
2月22日(金)マルコ6;1~56


イエスは故郷のナザレで受け入れられず
ごく僅かの病人を癒しただけだった事。


「ナザレでは
 イエスを小さい頃から知ってる人達がたくさんいて、
 "あの貧乏大工の倅が何を偉そうに喋ってんだ"って
 ちゃんと正面から受け止めて聞く人がいなかったんだと。」


「そうだな。
 そういうものだ。」


「有名人の地元では知り合いという人が
 インタビューに出てたりするのと同じだね。
 "あの人は昔洟垂れガキでよくおねしょしてた"とか。
 イエスが神の話をしても何の話をしても
 そういう地元の人々にとっては
 小さい子供だった頃からよく見かけた
 近所のイエスとしてしか見る事が出来なくて
 イエスの話す事の中身に注目出来なかった。
 神の救いを説いてもナザレの人達は
 自分達の目先の近所のイエスとしてしか
 見る事が出来ないから
 福音が心に伝わらなかった。」


「世の中ってそういうものだなぁ。」


12人の弟子達を派遣した事。


「旅の準備もせずに
 何も持たないで伝道の旅に出なさいって。
 弟子達は物を持たずに出かけて行って、
 イエスと同じように悪霊を追い出したり
 病人を治したりしたんだって。」


「ほぉ。」


じじ、
また首をかしげている。


「何も持たないで行けという事はさ、
 神の救いを宣べ伝えるために
 予め必要な物の揃った、
 条件の整った所で働くんじゃなくて
 何も持たない無い所で
 貧しい中で神様のために働く、
 神様の力に頼って働けって事なんだよ。」


「へぇ~」


・・・・・・・orz


バプテスマのヨハネの斬首について。


イエスが評判になってくると、
人々は預言者だと噂した。
ヘロデだけは違った。
自分が殺したバプテスマのヨハネが生き返ったと恐れた。


「殺人者の心理だね。
 ヘロデは自分の兄弟の女房を寝取った。
 本来ならユダヤの律法では死刑に相当する罪だよ。
 だけどヘロデは権力者だからね。
 女の方も妃の地位に居座って私腹を肥やしていたけど
 バプテスマのヨハネに姦淫罪を指摘されて恨んでいた。
 この女は自分の娘にヘロデと客の前で踊りを踊らせて
 褒美にヨハネの首を盆に乗せてくれと言わせた。」


「何だかひどい話だな。」


「そう。
 自分で手を下さないのさね。
 ヘロデはヨハネを殺したくなかったけど
 客の手前、自分のメンツもあるし、
 約束通りヨハネの首を刎ねた。
 首は娘に渡されて、娘から母親に渡された。
 聖書には、特に旧約聖書には何人かこんな
 則天武后や西太后みたいに残忍な女が出て来るよ。」


「ほぉ」


食い付きいいな。
じじは歴史大好きだから。


5つのパンと2匹の魚の増加について。
じじ、ここも笑って首をかしげている。


「何だかよくわからんな。」


「イエスが祈って裂いた5つのパンと2匹の魚で
 男だけもで5000人が満腹したというから
 女子供も数えたら倍以上の大勢の群集だったはず。」


じじ、笑っている。


「わからない所は知ったかぶりしないで
 そのまま一礼して通り過ぎるんだよ。
 現代人の私達には理解するのは難しいのさ。
 だから、私は深く追求しないで
 ああパンと魚が増えたのねって先に進むのさ。」


イエスが湖の上を歩かれた事。
ここも、じじは笑って首をかしげている。
イエスは何故湖の上を歩いたか。
ううう。
私はあれを喋りたい誘惑に駆られた。


「イエスの弟子達は漁師やってたりして
 泳げる人もいたけど
 イエスは大工だったから
 泳げなかったので湖の上を歩いたのかも。。。
 という話を私は某所で最近聞いたよ。
 ・・・・そうして湖を渡ると、
 向こう岸の地方でも人々はイエスを追って
 病人連れて癒して貰おうとしたんだって。」


じじ。
そんなに愉快そうに笑ってんじゃないよ。
はい今日はこれでお開き。

じじと読む一日一章(マルコ5;35~43)

2008-02-21 22:59:24 | マルコ
2月21日(木)マルコ5;35~43


服に触った女の所で足止めされているうちに、
行こうとしていた先の
会堂長ヤイロの娘が死んだという知らせが来た。


「恐れることはない。
 ただ信じなさい。」


じじ、
首をかしげている。


「イエスがその家に行くと、
 子供が死んだので皆して泣いてたのさ。
 イエスは泣いている人達に、
 "子供は死んだのではない、眠っているだけだ"と言った。
 そしたら皆して嘲笑ったんだと。」


「そうだろうな。」


「で、
 イエスが子供の手を取って名前を呼んで
 "起きなさい"と言ったら
 子供はすぐに起きて歩き出したんだって。」


「へーぇ」


笑ったなじじ。
笑いながら首かしげてるぞ。


「皆びっくりしたさね。」


「そうだろうな。」


「この奇跡がどんな風に起こって
 どんな風に子供が死んで生き返ったのか
 現代の私達には想像するのは難しいんだけど、
 何か食べさせるようにとイエスが言ったのは、
 子供が本当に生き返ったのだと私は思うのさ。」


「ふん。」


「食べるという事は生きている事の証明だからね。
 死体がただ機械的に動き出したのではなくて、
 この子供が本当に
 現実に生きて再び普通の生活をするようになった。
 それをイエスは言い表してる。」


「・・・」


「"ただ、信じなさい"というのは、
 死んだ者が本当に生き返ったのかどうかとか
 何でどうして生き返るのかとか
 医学的にどんな根拠で生き返るのかとか、
 そういう枝葉に脱線しないで
 救われた現実を確信して
 そこから目を逸らすなという事だと
 私は個人的に受け止めている。」


「・・・」


じじわかるかな。
わっかんねーだろーな。
いいんだ無理にわかろうとしなくて。


「"ただ信じなさい"という事は、
 死人が科学的にどうやって生き返るかよりも
 今現実に自分が
 神様から生かされて生きている事に注目して
 その現実を認める事だと思うのさね。私は。」


「うーん。・・・」


じじ、
聖書のページに目をやったまま固まった。
話がじじにとって難しくなったので
今日はお開き。

じじと読む一日一章(マルコ5;21~34)

2008-02-21 22:45:07 | マルコ
2月21日(木)マルコ5;21~34


イエスが会堂長ヤイロの
死にそうな娘の所へ行こうとした時、
誰かが服に触れた。


「イスラエルでは
 生理の期間の女は汚れているとされていた。
 汚れている期間は行動が制限されてた。
 この女は12年間も
 ずっと出血が止まらなかったというのは
 ずっと汚れた期間のままで
 ユダヤ人社会から弾き出されていたって事だよ。
 何か婦人科の病気だったと思うけど
 いろんな医者にかかっても治らなくて
 全財産使い果たして絶望的な状態だった。」


「今の時代でもそういう事はたくさんあるな。」


「そうだよ。
 癌でも難病でも何でもいろんな病気で
 今でもこういう事は普通にあるね。」


「そうだ。」


「この女は、
 大勢の人が押し寄せて揉みくちゃになりながら
 せめてイエスの服だけでも触れたら治して貰えると
 信じてたのさ。
 イエスはこの女にとって万策尽きた最後の望みだった。」


「うむ。」


じじ、頷いてる。
病人が癒される奇跡は理解出来なくても
切実に神の救いを求める人間の気持ちに
少しでも共感出来たらいいと私は思う。


「お父さん、イエスは
 イエスだけを切実に信じて来た人の事はわかるんだ。
 だから大勢に揉みくちゃにされていても
 その女が自分の服に触った事に気づいたんだと思う。」


「そうだな。」


えっ!?
じじも共感するのか。
びっくり。想定外だ。


「お父さん、
 自分の服に触った事のがこの女がだと
 イエスは知ってたと思わない?
 私はイエスは知っていたと思うよ。
 イエスは知ってて、
 "触ったのは誰か"と言って見回したと思うのさ。
 これは私が読んで思った事だけどね。」


「ふん。」


「この女はイエスの服に触れて、
 自分の病気が治った事に気づいた。
 それで"やった♪ラッキー!"とか言って
 知らん振りして隠れて立ち去る事も出来たけど、
 この女はそうしないで名乗り出た。
 イエスは名乗り出た女に言ってる。
 "あなたの信仰があなたを救った"
 イエスは女が自分から名乗り出るのを待ってたと
 私は思うのさ。」


「そうかな。」


「私はそう思うのさ。
 牧師先生にもどうなのか聞いてみてよ。
 イエスにただ病気を治して貰って終わりではなくて
 自分の口で神と人の前で宣言する事が
 大事なんじゃないかな。
 "私はイエス様を信じて癒され、救われました"とね、
 皆の前で自分の口で言い表す。
 イエスはそう告白した女に
 "あなたの信仰があなたを救った"って言ってくれた。」


「うんうん。」


わかってんのかなじじ。
何だかしきりに頷いてるけど。
どうよ。


「だから、
 病気さえ治れば、
 願いさえ叶えばハイめでたし、ではなくて
 この女のように自分の信仰を自分の口で言い表す事が
 大切なんだよ。
 お父さんも
 これから洗礼式の時には牧師先生から言われたように、
 自分の口で
 "イエス・キリストを信じます"と言わなければならない。
 それと同じだよ。」


「そうか。」


「そうだよ。
 イエスは自分から信仰を言い表した人に対して
 "あなたの信仰があなたを救った。
 安心して行きなさい。"と言って下さるのさ。」


「なるほどな。」


「だから自分の口で
 人前で信仰を言い表す事が大事なんだよ。
 お父さんは洗礼式の時にそれをするんだ。」


「・・・」