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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

皮袋の譬え話を探す(マルコ2;21~22)

2007-01-16 23:36:02 | マルコ
一昨日から
聖書を開いていたじじ。


イザヤ書のページを開いたままになっていたので
そんな難しい預言書から読んでるのかと思ったら
違った。
じじ本人に聞いてみた。


面白いか?


「いや、
 今探しているのだ。
 昔オレが仕事の事で人とやり合った時に
 古い酒は古い皮袋、
 新しい酒は新しい皮袋にと言って相手を説得した。
 その話を牧師先生が来た時に話したら
 牧師先生が
 それは聖書に載っていると言って開いてくれた。
 しかし一度聖書を閉じたらどこだかわからなくなった。」


あー
そうだったのか。
それなら
じじ、
イザヤ書を一頁ずつ虫眼鏡で読んでも
その譬話は出て来ないよ。
その譬はイエス・キリストが話した言葉だから
新約聖書だ。
3つの共観福音書それぞれに出てるよ。
ほれ。


「おおー
 これだこれだ。
 オレはな、
 昔、・・・
 (じじ、過去の仕事自慢を語る。
  以下、エンドレス)
 ・・・の時にこの話をしてやったのだ。」


じじ、
とんでもない知ったか野郎だったんだね。
どこからそんな話を聞いたの。


「それが何処で誰に聞いたんだったかなぁ・・・。
 忘れたなぁ・・・。
 職場の先輩にキリスト教の人がいて、
 近所のバプテスト教会の人だった。
 その人から聞いたかも知れん。」


あー
私が小学生の時に英語教室に通ってた
あの教会だ。
そこの教会員の人が職場にいたんだ。
へぇ。
せっかく開いたんだから
読むなら新約の福音書から読みなよ。
こないだ映画見たから
ある程度読んでわかると思う。
わかんない事は牧師先生に聞きなね。
最初の、
キリストの系図のところは
今は訳わかんないと思うから
無理しないで飛ばして2章から読むといいよ。
こないだ見た映画『奇跡の丘』は
これを映画化したんだ。


「うむ。
 そうか。」


こうして
じじはマタイの出だしを開いて読み始めた。
マタイを読むじじを後に、
私は昨夜帰宅した。
ここまでは昨日の話。


で、
今日仕事終わってじじ宅に行ってみたら
また聖書が食卓の上に開いたまま放置されている。
虫眼鏡の乗った所までは読んだと言う。


・・・(゜_゜;)・・・


虫眼鏡、
マタイの最後のページに乗っかっている。
マタイを昨夜と今日の1日で
全部読んだのか?
じじ。
キリストが十字架にかけられたところも
読んだのか?


「読んだ。
 明日はその次からだ。」


じじ。
早過ぎる。
明日はマルコから読むのか?


「知らんけど
 その次からだ。」


じじ、
聖書読んで面白いか?


「面白い。
 牧師先生も面白いって言ってたぞ。」


それはそうだけどさ。
ま、
いいか。
気の済むまで読みなよ。
読んで
いろんな事を牧師先生と話して
イエス・キリストと友達になって貰いなよ。


主イエス・キリスト
よろしくお願いします。

びっくりしたこと(マルコ11;24)

2006-08-23 04:41:37 | マルコ
ある日交通事故で
ハンドルに胸を強打して搬送されて来た人がいた。
一時停止を怠って交差点に突っ込み
横から来た車と衝突した。
スピードもかなりオーバーしていたという。
本人が悪いのだ。
意識はあって話も出来る状態だったが、
外科医達も技師達も胸腹のCTを見て絶句した。
肝臓がずたずたになっていた。
CTで輪切り画像の肝臓は5つか6つに裂けて
ジグソーパズルのようになっていた。
肋骨も数本折れて肺に刺さり血気胸を起こしていた。
手術で何とか修復できないか、
いや、下手に手術して胸と腹を開けば
返って大出血するかも知れない、
かといって何もしないでただ見ている訳にもいかない、
いや、手術した方がむしろ危険だ、
麻酔をかけた時点で死んでしまうかも知れない・・・。
結局リスクの高い手術はしない事になり、
翌日ICUから一般病棟の個室に移す事になった。
ICUは助かる見込みのある人しかいられないのだ。
手の付けようのない絶望的な状態で
手術のリスクも高い状態だと、
医師は親族を呼んで説明した。


「まだ意識があって少し話も出来るから、
 今のうちに会いたい人に会わせてあげて下さい。」


個室に移してその日のうちか、翌日には私達の手で
霊安室にお見送りしなければならないのだと思うと、
その人の死が
自分の勤務帯に当たるかも知れない事を想定して
皆一様に緊張しながら夜勤に入っていた。
私の準夜勤務の時にその人の血圧が下がり始めた。
ああ、もうすぐかも知れない・・・。
親族に連絡を入れて間もなく夫と老母と、
小学1年か2年頃の息子がやって来た。
深夜、暗い病棟の廊下を
父親と祖母に背中を押されて歩いて行く
その小さな男の子の姿を見ると胸が痛くなった。
その場にいた医師も看護師も同じ年頃の娘や息子がいる。
職員達は皆その子の後ろ姿を見て立ち尽くしていた。
事故は母親自身の過失には違いない。
あの大怪我で生命を失ったとしても
ある意味自業自得と言えばそれまでかも知れない。
しかしあの男の子はどうなるのだ。
母親のちょっとした不注意のために
まだこんな幼い年齢で母親を失うのだ。
あの子が悪い訳でもないのに。
まだ10歳にもなっていないのに。
私は明け方帰宅した。
夜勤明けの休みが終わって日勤で出勤する頃には
もうその人はこの世にいないのだと思った。


夜が明けて、
私はまた散歩しながら近所の教会の御聖堂に立ち寄り、
ボーっと考え事をしていた。
今頃、あの子供は母親の遺体の横に
ぽつんと座っているのかも知れない。
そう思うとやり切れなかった。
天の父なる神様、あの子が可哀想ではありませんか。
あの子供を哀れんで下さいませんか。
はっきりと言葉は思い出せないが、
あの日私は主なる神に向かって
そんな意味の事を何度も話しかけた。


休みが終わって日勤に出てみると、
その人はまだ病棟にいた。
医師は毎日同じ事を親族に説明していた。
「いつどうなっても不思議はない状態」
「いつ急変してもおかしくない状態」
「会いたい人には今のうちに会わせてあげて」
いつ急変して死亡しても不思議の無い程、
目の離せない状態が続いていた。
その人を受け持つ度に、今日かも、今夜かもと
緊張し覚悟して勤務についた。
夫や母親の疲労色が濃くなっていった。


今夜かも・・今日かも・・そんな緊張も長く続くと
だんだん慣れてきてしまうから人間は恐ろしい。
日を重ねる毎にその人の事を何とも思わなくなり、
毎日次々入って来る新しい重症患者の方に
主な関心が移ってしまった。


ある時深夜明けの早朝に、
受け持ちだった私はその人に聞かれた。
「看護婦さん、あの、私、暇だし、
 顔パックしてはダメですか?
 毛穴がざらざらしてイヤなんですけど。」
今日亡くなるかも、
明日亡くなるかもと思って見ていた重患の、
この全身チューブだらけの人が顔に毛穴パック!
助かる。この人は助かる。
私は休憩室で同僚と先輩相手に喋った。
夜勤明けの疲労でテンションが変に高かった。
「そうそう、私祈った祈った。
 そういえばあの時祈ったんだったわ。
 本人には同情出来ないけどあの小さい息子ちゃんが
 あまりにも可哀想だから、
 神様どうにかして下さいって、祈ったわ。
 いやーびっくりだわ。祈りは聞かれたよー。
 感謝のお祈りしなきゃ。」
同僚も先輩も笑って聞き流していた。
私も半分冗談交じりに喋っていたが、
それ程奇跡的な回復だった。


しかし確信はそれから現実のものとなった。
貧血が改善されて輸血を中止した。
血気胸だった両肺の持続吸引は
壜に血性の廃液が溜まらなくなり、
片側ずつ閉鎖してみても血中酸素飽和濃度が下がらず
呼吸苦も生じなかった。
深呼吸で洩れも起こらない。


「よし。管を抜こう。」


胸腔ドレーンが抜かれた。
抜いた後も問題は起こらず酸素吸入も中止、点滴も中止、
食事を食べられるようになった。


本人はパックの他に
「ネイルケアしてはダメ?
 色を塗らなきゃいいでしょ?
 磨くだけなら。」
「脱毛は?してもいい?」
「自分でシャンプーしたいんですけどダメですか?」
「雑誌買いたいんですけど売店に行っていいですか?」
「髪切って染めたいんだけど、
 外出許可まだダメですか?」


どんどん行動半径が広がっていった。
やがてお気に入りのシルクのパジャマを着て
バレッタで髪を上げ顔にパックを貼ったまま
サンダルをカポカポ鳴らして
病棟内を歩き回るようになった。


結局その人は自分の足で歩いて退院した。


祈った事は既に聞かれていたのだ。
その時になってやっと気付いた。
あの5つにも6つにも断裂したずたずたの肝臓は
何だったのだ。
バラバラに折れた肋骨が何ヶ所も刺さった肺は
一体何だったのだ。
手の施しようが無い、
後は霊安室にお見送りするだけ、
そう覚悟して
緊張していた夜勤の日々は何だったのだ。
びっくりだ。
こんな事があるのかと思った。


祈って求めるものは何でも、
すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、
そのとおりになります。(マルコ11;24)


ほんとだ・・・・・・


しかし何よりも、
自分で祈っておきながら
これほどはっきり現実に示されているのに
祈りが聞き届けられた事にすら気付かなかった、
こんな私自身の信仰とは一体何なのだ。