後期シルバーの戯言

一寸した日常生活・身辺雑記と旅日記

典厩寺の桜

2018年04月07日 | 名勝旧跡巡り

3日発行の ながのライフを楽しむ観光・イベント情報春号 「お出掛け通信ながの」に、典厩寺の桜が載っていた。長野の桜といえば城山公園・松代城跡・光林寺・素桜神社の神代桜・塩生の巡礼桜 は知っていたが、典厩寺の桜は今回のパンフレットで始めて知った。長野市の桜を検索してみたら、他にも 篠ノ井茶臼山の桜並木・大岡の天宗寺の合唱桜・鬼無里高橋のしだれ桜 と知らない桜の名勝があった。長野市に50年近く在住していながら、未だお訪れたことの無い桜の名勝があることに驚いた。

Wikipediaによれば典厩寺は「長野市篠ノ井杵淵にある曹洞宗寺院である。山号は松操山(しょうぞうさん)。川中島の戦いで討ち死にした武田信繁の墓がある。かつては瑠璃光山鶴巣寺と号して薬師如来を本尊としていた。561年(永禄4年)の川中島の戦いで、武田信玄の弟・武田信繁が当地八幡原で討死したことに因み、合戦から60年後、
松代藩主真田信之が信繁の官職「左馬助(さまのすけ)」の唐名「典厩」から寺号を典厩寺と改
めて菩提を弔った」とある。

      
            典厩寺入口                               典厩寺本堂                            武田信繁の墓

       武田典厩信繁 公信玄の実弟)の墓(長野市篠ノ井杵淵)
                                       G
rave of Nobushige Tennkyu Takeda

   武田典厩信繁は、大永5年(1525)、父武田信虎と母大井夫人のあいだに次男として生まれた。 信虎は文武両道に優れる
  信繁に家督を譲ろうと考えていたが、天分10年(1541)、信玄により駿河に追放されると、信繁は武田家副将として、
 信玄の領国支配、軍事行動を補佐した。信繁は嫡男信豊に家臣団の倫理規定ともいえる99ヶ条からなる「武田信繁家訓」を
 与えている。これは江戸時代に武士のこころ構えとして広く読まれていた。 信繁は永禄4年(1561)9月10日の第4回
 川中島合戦で信玄本陣を守り壮絶な死を遂げた。その遺骸は鶴巣寺に埋葬され、典厩塚とよばれた。享年37歳。
 その死は「惜しみても尚惜しむべし」と評され、敵の上杉謙信からも、文武両道に優れた名勝としてその死を惜しまれたと
 いう。 その後、鶴巣寺は真田信之の命により典厩寺と改められた。信繁公の墓碩には「正操院殿鶴山巣月大居士」と刻まれ
 ている。                                           「川中島の戦い」ゆかりの地整備保存会                                                              


*境内の桜 住職によると樹齢200年という

     

    

 

 

 



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