車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

新自由主義が嫌われる理由

2009年01月20日 | 経済学

新自由主義や市場原理主義は相変わらずそこらじゅうで嫌われている。その理由には、市場に対する無理解や、ただ単なる市場化によって特権的な保護が奪われることに対する恐怖心というものもあるかもしれないが、それ以外にも理由があるような気がする。それは、新自由主義的な考えを主張する人たちがあまりにもあらゆる形の市場化を肯定するので逆に市場主義から遠ざかっていっていることがあるからだ。

新自由主義的な考えを主張する人たちは、保護や平等が競争を阻害し経済停滞や、逆に不平等・悪平等をもたらしていると主張する。しかし、そのような保護主義や平等主義が、経済に悪影響をもたらした非常に大きな理由はそれが一部のものだけを保護するものだったからである。本来は、すべての人を平等に保護し公正に扱わなければならないのに、恣意的に一部の者だけを保護したために経済全体が大きく歪んでしまった。にもかかわらず、新自由主義的な考えを持つ人たちは、平等や保護自体を否定しようとする。そこが、大きな問題点なのではないだろうか。

そして、その結果弱者の保護に反対し、弱者の保護をなくすことを主張する。また、特権的な保護を得ている労働者貴族の特権をそのままに、保護されていない労働者の市場をさらに自由化し市場化しようとする。これは、平等主義が一部のものの間だけの差別的な平等主義によって失敗したのと同じように、一番自由化市場化が必要なところを無視して、都合のいい部分を市場化する過ちではないだろうか?

恣意的で差別的な平等主義が失敗したから、恣意的で差別的な市場主義をすれば成功するはずだ。これはまるで、一部の人間を保護して特権的な地位を与える平等主義が失敗したから、逆に今まで保護されていなかった人たちの保護をさらに削れば市場が機能するはずだといっているようなものではないだろうか。結局は、ちゃんとした平等主義を取らずに失敗したのに、その結果間違った市場主義の正しさを確信する。結局恣意的に自分の都合のいいように物事を解釈しただけではないだろうか。このような、恣意的な発想が失敗の原因であるように思う。

恣意的な政策はいらないという方どうぞご協力を。


日中共同歴史研究

2009年01月20日 | 政治

ついつい、書くのを忘れていたこの話題を、周回遅れでどうぞ。アジアの真実の記事も合わせてお楽しみを。

日中歴史共同研究、両国の溝埋まらず:産経
 日中両国の有識者による歴史共同研究で、民主化運動を武力鎮圧した天安門事件(1989年)に関する日本側の記述を中国側が「極めて敏感」な問題として削除するよう求めていることが関係者の証言で明らかになった。中国側が「愛国主義教育」と称して“反日教育”を行っているとの日本側の見解にも、中国側は強く反発しているという。天安門事件から20年の今年は「政治的に敏感な年」(中国当局者)で、世論引き締めを強化する中、中国政府は国民を刺激しかねない記述には神経をとがらせており、研究報告書の公表が大幅に遅れる原因にもなっている。

 研究をめぐっては昨年末にまとめの報告書が発表される予定だった。当初は南京事件(1937年)などに関する記述が注目されていたが、関係筋によると、日中戦争史の部分について双方が「両論併記」の形で簡単に触れることで合意したという。

 しかし、戦後の日中関係史の部分で、双方の意見の相違が露呈。天安門事件(6月4日)については、現代中国に対する関心を高める大きな出来事として、日本側は「避けて通れない史実」として報告書に盛り込んだが、中国側は「今年は事件20周年」で敏感な問題と懸念を示したという。天安門事件の死者数は数百人とも千人以上ともいわれるが、真相は公表されていない。再評価を求める声もあるが、中国政府は「反革命暴乱」とした公式評価を変えようとしていない。
また、日本側は戦後の日中関係に関し論文で、「中国政府の青少年に対する愛国主義教育が日中戦争の歴史を過度に強調、戦後の日本を客観的に評価していないことが両国関係に悪影響を与えた」との主旨の記述をしているが、中国側はこれにも猛反発し削除を求めてきたそうだ。

 中国側の学者は報告書に対する国民感情を考慮していることを示唆しており、中国側が日本側に要請するたかちで、報告公表の時期を遅らせているとの指摘もある。

「報告書に対する国民感情を考慮して」って部分が傑作だが、中国の学者には自分たち以外の国民感情や客観的な事実というのは関係ないのだろう。中国は共産党の一党独裁国家なのでそのようなことを考えてもどうしようもないことはわかっているが、日本は地道に客観的な事実に基づく歴史を主張していく必要があるだろう。

この記事でもよくわかることは、中国や朝鮮半島や日本の左翼他、左翼的な考え方の人たちは「国民感情」や「相手がどう感じるか」といったものが判断をよく左右するということだ。問題は、その「相手の感情」がただ単なる「自分がどう感じるか」だけでしかないために、結局は事実や理論を無視して、自分たちが悲しい、自分たちがそれがほしい、相手が憎い、といった自分の欲求だけで物事を判断してしまうことだ。これについては、こっちこっちにも書いたが、知識人が一番「恣意的で感情的」ではないかと考えている。

極左の絶叫は要らないという方はどうぞご協力を。


MLBがサラリーキャップを検討?

2009年01月20日 | スポーツビジネス

MLBのオーナーの一部がサラリーキャップの導入を希望しているようだ。鈴木友也氏のブログにも記事が出ているが、いろいろと課題があるようだ。このような声が一部のオーナーから出たのには、「この不況にも関わらず既にヤンキースが5億ドル(約450億円)を超える大型補強を行っている」のが非常に大きな影響を与えているのだろう。あまりにも、ヤンキースとそれ以外との財力の差が大きく、戦力差に対する危惧が出てくるのは当然だろう。

しかし、選手会としてはサラリーキャップの導入には、オーナー側が財務内容を公開することを要求するだろう。完全に利益等すべてを公開する必要はないとしても、MLBの財務内容は、周辺ビジネスへの利益移転(一番大きいのは提携関係にある地元放送局やケーブル会社)によって大きく粉飾されているので、まずそれを公開しないと前には進まないだろう。

サラリーキャップ自体は、サラリーフロアやレベニューシェアリングと合わせれば、必ずしも年俸を抑制する制度ではないので(「サラリーキャップは年俸を抑える?」と「サラリーキャップが年俸抑制政策ではない理由」参照)、選手会としても合意できない内容ではない。しかし、高収入クラブはレベニューシェアリングに反対するだろうし、低収入ながら低コストで利益優先で運営されている球団はサラリーフロアによる利益の減少を嫌うだろう。かといって、サラリーキャップだけを導入することは選手会にとってあまりにも不利な内容なので合意を取り付けることは難しいだろう。

サラリーキャップ、サラリーフロア、レベニューシェアリングの三つが上手く組み合わせて導入されれば、リーグとしては大きな恩恵を得ることになるだろう。その恩恵を最も得るのは、選手全体か中規模の球団かと思われる。しかし、選手会が恩恵を受けるかどうかは、合意内容に大きく左右されるのでコミッショナーのリーダーシップが必要なのではないだろうか。後一つ、選手会を牛耳る一部高年俸選手がリーグや選手全体の利益を無視して、高収入クラブが高年俸を出せるようにすることを優先するのはいい加減やめてもらいたいものだ。

野球もサラリーキャップが必要だと思う方はどうぞご協力を。


感情論?どうしてもよくわからない

2009年01月20日 | 経済学

池田信夫blogより、この主張は何度も繰り返されているのだが、何度聞いても納得いかないので、何が納得いかないかを少し書いておく。

雇用問題は身近で切実なので、アクセスもコメントも多い。経済誌の記者はみんな「池田さんの話は経営者の意見と同じだが、彼らは絶対に公の場で『解雇規制を撤廃しろ』とはいわない」という。そういうことを公言したのは城繁幸氏辻広雅文氏と私ぐらいだろうが、辻広氏のコラムにも猛烈な抗議があったという。

解雇規制が労働市場を硬直化させて格差を生んでいることは、OECDもいうように経済学の常識だが、それを変えることが政治的に困難なのも常識だ。これは日本だけではなく、フランスのようにわずかな規制緩和でも暴動が起きてしまう。人々は「雇用コストが下がれば雇用が増える」という論理ではなく「労働者をクビにするのはかわいそうだ」という感情で動くからだ。

納得いかないのは、論理ではなく感情で動くという部分だ。感情で動くとすれば、解雇や失業者に対しては同じように「感情的に」可哀想だという反応があるはずだ。現実的には、そうではなくて非正規雇用の解雇や失業者に対しては、そのような同情的な反応はあまり起こらず、逆にその人たちに責任があると非難する人たちがたくさんいた。つまり、解雇や失業者に対して「感情的に」反応することが問題ではなく、守られている特定の労働者の権利に対してのみ「感情的に」反応することが問題なのである。

そして、その「感情的な」反応の中心にいるのは、大衆ではなく労働組合員や労働左派、知識人などのインテリ層ではないだろうか。つまり、労働組合や知識人等が一般民衆の痛みに対しては無関心である一方、自分たちや自分たちの仲間の痛みに対しては「感情的に」反応してしまうことがこのような自体を招いているのではないだろうか。その意味で、「感情的」であることが問題なのではなく、それが恣意的で多くの人の悲惨な痛みを無視する一方、一部の者の痛みに過剰に反応し、すべてがその過剰反応に支配されてしまうことではないだろうか。

これは、戦後のほかの部分の現象に対しても言えることだろう。第二次大戦が終わった後も多くの悲劇があったが大部分はほとんど誰も相手にしなかった。多くの途上国では植民地支配の傷跡に苦しみ、アフリカでは多くの者が飢え、ソ連・中国の横暴によって多くの人々が犠牲となった。これらのものに対してほとんど「感情的に」社会が反応しない一方で、日本の朝鮮半島に対する植民地支配や、ヨーロッパのユダヤ人差別といった一部の問題に対してのみ、異常かつ執拗な「感情的」を通り越して「激情的」、「直情的」、「狂乱的」反応が繰り広げられた。そして、9.11テロに対しても、それ以外のたくさんの事件においては起こらなかった異常な反応が起こり、ものの見方自体を変えるほどの影響を与えた。そして、これらの一部のものに対する異常な反応は常に、大衆ではなく知識人によって先導されてきた。

つまり、専門的な研究者はこれらの問題に対して、正しい理解に基づき正しい判断を下していたかもしれないが、その下の知識人やインテリ層は恣意的で異常な反応をしていたのではないだろうか。そして、そのような知識人による恣意的で異常な「感情的な」反応は、日本の歴史問題に代表されるように一般大衆の反対によって、その偽善、欺瞞が明らかにされていっている。つまり、知識人はいつもおかしいというのが正しいのではないだろうか。

これを書いていて少し前に似たようなことを書いたのを思い出したのでリンクしておく。

馬鹿な知識人はいらないって人はどうぞ。


理想状態と経済学

2009年01月20日 | 論理

理想状態と経済学について書こうと思ったら、理想状態の話だけで1話終わってしまったので、前回の続きをこちらで。

理想状態というのは、余計な影響のない、落下運動では空気抵抗のない、落下と重力による加速度だけからなる、理想的な状態のことである。前回書き忘れたが、有名なのに慣性の法則というのがある。外力が働かない場合には、物体は等速運動をし続けるというのだ。これは、最初にガリレオが考え、後にニュートンが他の運動と一緒に、運動方程式としてまとめたものだ。これも、理想状態の一つの例だ。

それはともかく、経済学においても自然科学の理想状態と同じような考え方が用いられる。経済学においては、経済を分析する場合に様々なモデルが立てられるが、モデルは様々な要因を無視しており現実の経済を完全に復元しているものではない。新古典派のモデルにおいては、市場は現実の市場よりも完全に出来ており(そういう意味で理想的な市場とも言える)、すべての人がすべての情報を持っているとか、瞬時に均衡点に達する等の前提が当然のように置かれる。そのようなモデルを分析することによって、経済の現象を理論的に説明しようというのが経済学だ。

だから、経済学の数式を使ったやり方や、モデルによる分析自体が間違ったものであるというのはいえないだろう。しかし、問題は、そもそも置かれている基本的な前提が正しいのかということや、理想的な状態において成り立つことが、現実の世界の理想的でない制約要因のたくさんある世界に援用できるのかということが問題だろう。よく非難されることとして、すべての人がすべてのことを知った上で行動するというのは非現実だというのがあるし、現実の世界は複雑だから重要な現象は理想的な状況ではなく例外的な状況によって起こるかもしれないというのもある。

このように、経済学は他の科学の方法論を援用して、モデル分析を行ったりしているのだが、歴史が浅いせいもあってその方法論の正しさに疑問の声があるのも確かだ。

今日も少し賢くなって良かったという方はどうぞご協力を。


理想状態

2009年01月20日 | 論理

理想状態について書こうかと思ってネットを漁っていたら面白いものを見つけた。

ニュートン力学の理想世界それは、真空状態でなされる、物体の落下運動のことであり、この中で、人間が窒息死するのは、必定であるが、これを、物理学者は、「理想状態」と呼ぶのである。なぜ、「理想状態」と呼ぶのかといえば、真空状態にして、人間が窒息するような状況にしないと、ニュートンの運動方程式は、あまり正しくないからである。

この「理想状態」の空間では、ニュートンの運動方程式を微分・積分演算して算出した速度と座標が、恐ろしい精度で実験に一致するのだ。 

同種のものに、「理想気体」というものがある。

これもまた、ニュートンの運動方程式に始まり、数ページにわたる演算から導出される状態方程式に、その気体が完全に従うので「理想気体」というのであるが、実際には、それに近い気体は、あるがそういう気体は実在しない。さらに、「理想流体」というものもある。この「理想流体」はエネルギーの散逸がないので、いろいろなパラドックスを生みだした。なぜ、パラドックスかといえば、どう考えてもそんなことはあり得ないという計算結果が理想流体からは、導出されるからである。この「理想流体」は、実在しないが、またしても、数式に恐ろしいまでに従うのでこう呼ぶのである。(ヘリウム4を絶対零度にすれば、「理想流体」になるらしいが、またしても、そんな中で人間が生きられるはずもない。)

上の記述は、理想状態の本質を上手く表現していると同時に、理想状態に対する皮肉を上手く表現している。理想状態というのは、対象としている現象(物体の落下運動では落下と重力による加速度)以外のものが影響を与えない状態である。余計な影響を無視する(より抽象的な表現を用いると「捨象する」)と現象を明快に表現できる。物理学において、厳密に成り立つといわれる場合、この理想状態において厳密に成り立つということを意味する。

逆に、現実の世界は理想状態とは違って、様々な微小な力が無数に働いている。だから、理想状態に比べて多くの誤差が生じる。しかし、ここが重要なのだがもしその誤差が小さいものであれば、理想状態はある程度信頼できる近似であると言える。だから、理想状態での答えがわかれば、その近くで微調整すれば正しい答えに簡単に近づくことが出来る。だから、理想状態というのは重要な概念なんである。また、大砲を撃つときに、空気抵抗が影響を与えるとしても、弾頭の初速と角度からどのように理想状態で飛ぶのかがわかれば、どれだけ何を操作すれば目的の結果を手に出来るかを予想するのに役立つ。その意味でも、理想状態は役に立つものだ。

つまり、理想状態というのは、余計な影響が発生しないという例外的な状態を設定して物事を考えているのだが、中心となる現象以外の影響が少なければ、よい近似となる。それに、影響がある程度大きくても、現象内部の関係を理想状態は上手く表現している。だから、その理解によって余分な外部の影響を除いた部分で、中心となっている現象がどのような反応をするかを理解することによって、より優れた結論へと導く手助けをしてくれるものである。

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