車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

平等な権利

2009年01月04日 | 経済学
人権という迷信という記事が池田信夫blogにアップされているが前々回紹介した記事の続きなので補足を

「著作権にしても労働基本権にしても、本質的には定型的な契約にすぎず、絶対不可侵の自然権ではない。それは法律として絶対化されれば国家によって強制されるが、本源的にはバークもいうように慣習によって形成されるものだから、実態にあっていなければ変更するのが当然だ。規制強化や権利のインフレによる官製不況を逆転させるには、まず人権という迷信から覚めることが必要だろう。」以上引用

ということなんだけど、今現在問題になっているのは、パターナリズムや規制強化や権利のインフレではなく、権利の不均衡ということなのではないだろうか。ある権利は法律によって保護されているが、他の権利はないがしろにされている。正社員の権利は保護されているが、それ以外のものはまったくといっていいほど保護されていない。つまり、基本的人権を尊重するかどうかは問題の本質ではなく保護されない人と徹底的に保護される人がいることが問題なのではないだろうか。

この問題は、新しいものではなくヨーロッパでは昔からあったものだ。古代ギリシャ・ローマにおいては権利意識が発達し選挙権を市民に与えることが要求されたが、同時に苛烈な奴隷制が正当化された。つまり、強いものが権利を持つものと認定すれば強固な権利が与えられ、それは絶対的なものとされるが、何らかの理由付けで権利を剥奪し他の基準を適用してもよいとされればまったく基本的な権利が顧みられなかった。

つまり、奴隷と市民であれ、正社員と非正社員であれ、制度が不完全なため二重基準になってしまっているということだろう。だから、この問題の基本的な解決策はすべての者に同じ権利を保障できるように法律を改正していくことだろう。その意味で現在の問題は、基本的人権が根拠のないものだとか権利のインフレが問題とかではなく、二重基準のため多くの人の「基本的人権」が守られておらず、弱者が困窮していることではないだろうか。

論理的かつ意味不明な学者の論法 その2

2009年01月04日 | 経済学
書いた記事が消えてしまって傷心している管理人です。前の記事では池田氏に批判的過ぎたかもしれないので少し和らげて。

問題は、一つの政策の最適化がいい結果をもたらさないこともあるということだ。独占や寡占の場合を考えればわかりやすいが、一部の資源が独占や寡占されている状況で他の部分で自由競争を認めたら、大事な資源を握っているものたちが好き勝手にその優位性を発揮することになるだろう。現在の日本の、テレビ局と制作会社との関係を考えればわかりやすい。

だから、独占や寡占が存在している場合には次善の策として規制が行われる。つまり、一定の管理をすることによって独占や寡占が悪影響を与えすぎないように管理するという考えがある。これは一般的な考え方で、規制には規制というように、元から市場が機能していなくて歪んでいる場合には介入も正当化されるという考えだ。このような考えは理論的にも客観的にも正しくて歪んでいる状況を規制によってたださないと非常に大きく歪むことは明らかだ。

しかしながら、学者の世界にはこのような考えを否定し部分最適化を主張する人がたくさんいるのは確かだ。貸金法の上限金利規制のときも、ネットでは多くの人が違法な取立てが悪の元凶だが金利規制も一つの案かもしれないと考えているときに、インテリたちは金利規制を徹底的に批判したのは知っている人も多いかもしれない。

このような主張のもう一つの問題点は、なぜか特定の部分の最適化にのみ多くの人が以上に固執することだ。金利規制に対しては狂ったように反対するのに、違法な取立てに対しては沈黙したりする。不思議なことに、市場競争と称して弱肉強食をひたすら主張するのに正社員の特権には触れない(池田氏は違うが)。だから、このような部分の最適化を主張する人たちの多くは、正社員の特権のような本当の問題を守ろうとする人たちと不思議と被っていたりする。赤木智弘氏が「僕には、ネオリベ論者と、社会主義者の区別がつきません。」と言ったのは大爆笑だが、物事の本質を表しているといえるのである。

論理的かつ意味不明な学者の論法

2009年01月04日 | 経済学
池田信夫blogより奴隷制の効率性

年末年始のNHKニュースは、「派遣切り」などの雇用企画で埋まっていた。「朝まで生テレビ」でも雇用規制強化の大合唱で、民主党の枝野幸男氏が「労働者派遣法の改悪に賛成したのは間違いだった」と反省したそうだ。かつてこういう日本的情緒を否定したはずの小沢一郎氏も、「ニコニコ動画」に出演して「われわれが政権を取ったら派遣法を見直す」と語った。こういうパターナリズムは、彼らの意図とは逆に失業率を高め、「ワーキングプア」を「プア」にするだろう。

こういうとき、よく出てくるのが「労働者を商品として扱うな」という話だが、労働者は商品ではない。近代社会では奴隷は禁止されているので、労働者(人的資本)を売買することはできない。商品として取引されるのは労働サービスである。もし人的資本の売買が認められていれば、労働者は自分を企業に売り切り、企業は経営が苦しくなったら彼を解雇する必要はなく、他の企業に転売すればよい。人的資本を物的資本と同じように市場で取引できる奴隷制のほうが、近代の雇用契約より効率的だというのが、フォーゲルの有名な研究である(彼はノーベル賞を受賞した)。(以上池田信夫blogより)

まさに笑いものになる学者の主張そのものですが、また来ました。主張の内容は簡単で、労働資源の最適な分配のみを考えると奴隷制が実は効率的だということだ。また、奴隷制でなくても労働資源の効率的な配分だけを考えると現在の市場を規制するのはもってのほかで規制せずに市場原理に任せるべきだと言っている。

問題は、労働資源の分配の問題だけでなく、所得の配分の問題もあるということだ。そこで、池田氏はそれは負の所得税で解決すべき問題だと主張している。全体としては、理にかなっているかもしれないが、問題は両方が同時に導入されそうにないことである。

両方同時に導入されれば労働の配分、所得の分配双方で最適化されるかもしれないが、片方だけ導入されれば、弱者を市場競争によってどん底に追い込む可能性がある。プロスポーツでも保留権に縛られて活躍しても低年俸で束縛されることが大きな問題となっている。つまり、片方だけ導入されれば分配が異様に歪む可能性がある。こうなれば、ノンワーキングリッチや経営者の思う壺だろう。

長くなってきたので続く