イスラエル軍がガザ地区に侵攻して、犠牲者が485人突破ですか。
お約束の、イスラム教徒が人を殺害すると非難の嵐が吹き荒れる、イスラム教徒が大量に殺戮されても非難が巻き起こらないというのが起こっていますが。アメリカは、逆にハマス批判を繰り広げていますが。
現在の国際政治の闇を表す事件だと思う。イスラム教徒のテロ事件が起これば、それを非難しなければテロという非道なものを肯定したとして吊るし上げにあうが、イスラム教徒が殺されたときには向こうにも悪いところがあるとして非難されることさえない。
結局、どのように物事が捉えられるかどうかだ。テロ事件という点ですべてを判断すれば、否定せざるを得ない。そして、そこから論理を飛躍させて関係するものすべてが否定される。逆に、向こうにも落ち度があるとして別の要因を少しでも考慮すれば不完全だとして判断が留保される。
これは、日本の戦前を全否定し、ヨーロッパの植民地支配を肯定する思考回路と同じだが、このように物事が判断されるとあまりにも恣意的なので、何が正しいかではなく誰が正しいかになってしまう。そして、チベットやチェチェンのような悲劇が繰り返されてきたといっていいだろう。
ここからは、過去3回ほどの話の補足。日本の労働市場の最大の問題は当然のことながら正社員が保護されすぎであることである。だから、取るべき政策はまず正社員の保護を引き下げ、他の人と同じようになるようにすることだ。その意味で、派遣社員の分野に規制を掛けるとかどうのとかの話は二次的なことだ。
しかし不思議なことに、派遣を規制するとか派遣社員を保護しようとか言う話が出てくると、それに強硬に反対する人たちが大量に出てくる。その言い分は、市場を歪める、競争を阻害する、そして逆に仕事がなくなって当人たちが困る。このような感じだ。
このような主張にはいつも違和感を覚える。なぜ、正社員の保護に対しては大騒ぎしないのだろうか(言ったら次の瞬間に労働組合に抹殺されるかもしれないが)。全体としても問題を無視して部分的に悪化するかもしれないとして大騒ぎする。貸金法のときもそうだったが、部分的に少し悪化するかもしれないということになぜか大騒ぎするのだ。
これは、今日の前半にあげた話と同じでただの二重基準なのではないだろうか。
お約束の、イスラム教徒が人を殺害すると非難の嵐が吹き荒れる、イスラム教徒が大量に殺戮されても非難が巻き起こらないというのが起こっていますが。アメリカは、逆にハマス批判を繰り広げていますが。
現在の国際政治の闇を表す事件だと思う。イスラム教徒のテロ事件が起これば、それを非難しなければテロという非道なものを肯定したとして吊るし上げにあうが、イスラム教徒が殺されたときには向こうにも悪いところがあるとして非難されることさえない。
結局、どのように物事が捉えられるかどうかだ。テロ事件という点ですべてを判断すれば、否定せざるを得ない。そして、そこから論理を飛躍させて関係するものすべてが否定される。逆に、向こうにも落ち度があるとして別の要因を少しでも考慮すれば不完全だとして判断が留保される。
これは、日本の戦前を全否定し、ヨーロッパの植民地支配を肯定する思考回路と同じだが、このように物事が判断されるとあまりにも恣意的なので、何が正しいかではなく誰が正しいかになってしまう。そして、チベットやチェチェンのような悲劇が繰り返されてきたといっていいだろう。
ここからは、過去3回ほどの話の補足。日本の労働市場の最大の問題は当然のことながら正社員が保護されすぎであることである。だから、取るべき政策はまず正社員の保護を引き下げ、他の人と同じようになるようにすることだ。その意味で、派遣社員の分野に規制を掛けるとかどうのとかの話は二次的なことだ。
しかし不思議なことに、派遣を規制するとか派遣社員を保護しようとか言う話が出てくると、それに強硬に反対する人たちが大量に出てくる。その言い分は、市場を歪める、競争を阻害する、そして逆に仕事がなくなって当人たちが困る。このような感じだ。
このような主張にはいつも違和感を覚える。なぜ、正社員の保護に対しては大騒ぎしないのだろうか(言ったら次の瞬間に労働組合に抹殺されるかもしれないが)。全体としても問題を無視して部分的に悪化するかもしれないとして大騒ぎする。貸金法のときもそうだったが、部分的に少し悪化するかもしれないということになぜか大騒ぎするのだ。
これは、今日の前半にあげた話と同じでただの二重基準なのではないだろうか。