車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

理想状態と経済学

2009年01月20日 | 論理

理想状態と経済学について書こうと思ったら、理想状態の話だけで1話終わってしまったので、前回の続きをこちらで。

理想状態というのは、余計な影響のない、落下運動では空気抵抗のない、落下と重力による加速度だけからなる、理想的な状態のことである。前回書き忘れたが、有名なのに慣性の法則というのがある。外力が働かない場合には、物体は等速運動をし続けるというのだ。これは、最初にガリレオが考え、後にニュートンが他の運動と一緒に、運動方程式としてまとめたものだ。これも、理想状態の一つの例だ。

それはともかく、経済学においても自然科学の理想状態と同じような考え方が用いられる。経済学においては、経済を分析する場合に様々なモデルが立てられるが、モデルは様々な要因を無視しており現実の経済を完全に復元しているものではない。新古典派のモデルにおいては、市場は現実の市場よりも完全に出来ており(そういう意味で理想的な市場とも言える)、すべての人がすべての情報を持っているとか、瞬時に均衡点に達する等の前提が当然のように置かれる。そのようなモデルを分析することによって、経済の現象を理論的に説明しようというのが経済学だ。

だから、経済学の数式を使ったやり方や、モデルによる分析自体が間違ったものであるというのはいえないだろう。しかし、問題は、そもそも置かれている基本的な前提が正しいのかということや、理想的な状態において成り立つことが、現実の世界の理想的でない制約要因のたくさんある世界に援用できるのかということが問題だろう。よく非難されることとして、すべての人がすべてのことを知った上で行動するというのは非現実だというのがあるし、現実の世界は複雑だから重要な現象は理想的な状況ではなく例外的な状況によって起こるかもしれないというのもある。

このように、経済学は他の科学の方法論を援用して、モデル分析を行ったりしているのだが、歴史が浅いせいもあってその方法論の正しさに疑問の声があるのも確かだ。

今日も少し賢くなって良かったという方はどうぞご協力を。


理想状態

2009年01月20日 | 論理

理想状態について書こうかと思ってネットを漁っていたら面白いものを見つけた。

ニュートン力学の理想世界それは、真空状態でなされる、物体の落下運動のことであり、この中で、人間が窒息死するのは、必定であるが、これを、物理学者は、「理想状態」と呼ぶのである。なぜ、「理想状態」と呼ぶのかといえば、真空状態にして、人間が窒息するような状況にしないと、ニュートンの運動方程式は、あまり正しくないからである。

この「理想状態」の空間では、ニュートンの運動方程式を微分・積分演算して算出した速度と座標が、恐ろしい精度で実験に一致するのだ。 

同種のものに、「理想気体」というものがある。

これもまた、ニュートンの運動方程式に始まり、数ページにわたる演算から導出される状態方程式に、その気体が完全に従うので「理想気体」というのであるが、実際には、それに近い気体は、あるがそういう気体は実在しない。さらに、「理想流体」というものもある。この「理想流体」はエネルギーの散逸がないので、いろいろなパラドックスを生みだした。なぜ、パラドックスかといえば、どう考えてもそんなことはあり得ないという計算結果が理想流体からは、導出されるからである。この「理想流体」は、実在しないが、またしても、数式に恐ろしいまでに従うのでこう呼ぶのである。(ヘリウム4を絶対零度にすれば、「理想流体」になるらしいが、またしても、そんな中で人間が生きられるはずもない。)

上の記述は、理想状態の本質を上手く表現していると同時に、理想状態に対する皮肉を上手く表現している。理想状態というのは、対象としている現象(物体の落下運動では落下と重力による加速度)以外のものが影響を与えない状態である。余計な影響を無視する(より抽象的な表現を用いると「捨象する」)と現象を明快に表現できる。物理学において、厳密に成り立つといわれる場合、この理想状態において厳密に成り立つということを意味する。

逆に、現実の世界は理想状態とは違って、様々な微小な力が無数に働いている。だから、理想状態に比べて多くの誤差が生じる。しかし、ここが重要なのだがもしその誤差が小さいものであれば、理想状態はある程度信頼できる近似であると言える。だから、理想状態での答えがわかれば、その近くで微調整すれば正しい答えに簡単に近づくことが出来る。だから、理想状態というのは重要な概念なんである。また、大砲を撃つときに、空気抵抗が影響を与えるとしても、弾頭の初速と角度からどのように理想状態で飛ぶのかがわかれば、どれだけ何を操作すれば目的の結果を手に出来るかを予想するのに役立つ。その意味でも、理想状態は役に立つものだ。

つまり、理想状態というのは、余計な影響が発生しないという例外的な状態を設定して物事を考えているのだが、中心となる現象以外の影響が少なければ、よい近似となる。それに、影響がある程度大きくても、現象内部の関係を理想状態は上手く表現している。だから、その理解によって余分な外部の影響を除いた部分で、中心となっている現象がどのような反応をするかを理解することによって、より優れた結論へと導く手助けをしてくれるものである。

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生活保護の実態

2009年01月19日 | ニュース

博士の独り言「闇社会に消える税金」より、読売新聞の記事を元に

表題記事には、いわゆる、暴力団組員の生活保護「不正受給」について、「判明分だけで4億円」と示されている。これがすべての数値ではなく、あくまで、同紙の調査に対して自治体から回答があった分から。また、回答分の中でも、各自治体でこれまでに判明している分をもとにした数値である。ということは、対象が「対象」だけに、示されている不正受給額「4億円」は、「氷山の一角」である可能性が高い、と。この様子が同記事から読み取れる1つである。また、実質的に、暴力団組員に対して“支給”してしまった生活保護費は、その正体が露呈して不正受給であることが判明し、たとえ、一部で返還請求をなしたとしても、自治体に戻される金額は僅少である。ということは、一旦、暴力団組員の手に渡った生活保護費は回収が難かしく、ザルに水、に等しい。また、返還請求も満足に行っていない事例が多いことを、同紙面は指摘している。

このブログでも何度か指摘してきたとおり、生活保護等の社会保障制度が適切に運用されていないという事例だ。生活保護が本来は生活困窮者に行くべきものが、このような違法な暴力団組員への支出に消えている。ヤクザ・・在日と普通の日本人で対応が違うという話もよく聞く。このように、日本政府は社会保障制度を軽視し、弱者の保護をないがしろにしてきたことは、これからもよくわかる。これからは、本当に保護を必要としている人たちに保障が届くようにしていく必要があるだろう。

セイフティーネット再構築を支持する方はどうぞご協力を。


平等に関する複数の観点

2009年01月19日 | 経済学

平等を追求することは社会にとって望ましいのか。平等は社会にとって必要なものなのか。このような問いを投げかけると、色々な反応が返ってくるかもしれない。平等は必要だ、平等を追求していくことが重要だ。平等を追求しすぎることは、個人のやる気を殺(そ)ぎ、社会の生産性を停滞させる。自由競争でいくべきだ。賛否両論、あるだろうが、私はまず平等にはいくつかの側面があることを理解する必要があると思う。

社会の平等性を図るのに、収入を比べるということはよくなされる。年収一千万の人もいれば、年収三百万の人もいるかもしれない。この年収の格差が小さければ小さいほど、その社会は平等だ。この社会の所得の分布がどれくらい平等かを図る指標としてジニ係数がある。これが高いとその社会の所得分配が不平等だということになる。

しかし、結果がどれだけ平等かどうかも重要かもしれないが、その過程がどれだけ平等かどうかも重要ではないだろうか。同一労働・同一賃金という言葉がある。同じ労働であれば、同じ賃金が支払われねばならないということだ。現在の日本においては、正規社員とそれ以外とで著しい格差があるが、このような意味で平等を図るとすると問題があるだろう。

この考えをさらに広げて人間には能力差はあるかもしれないが、その成果に対しては同じように評価すべきであるといえるのではないだろうか。1時間に10の成果を上げられる人もいれば、1時間に5しか成果を上げられない人もいるかもしれない。しかし、報酬が10の成果の人は10、5の成果の人は5だとすれば納得いくかもしれないが、同じ成果の中で報酬がまちまちであれば不公平だといえるのではないだろうか。この考えは、必ずしも完全な平等を主張してはいない。しかし、報酬が支払われる基準において、平等な基準が適用されることを主張していると言って良いだろう。

わかりやすく数式で表すと(わかりやすいのか不明だという人もいるかもしれないが)、収入=成果の量×単価ということになる。収入のほうに、意識が行ってしまう人もいるかと思うが、単価の部分に集中して不平等の問題を考えてみることも必要ではないだろうか。成果の量が違うのであれば、格差も仕方がないかもしれないが、単価が違うことによって格差が生まれているのであれば、それは本当の意味で能力や努力とは関係ない不平等が存在しているということではないだろうか。

身分制社会はいらないという方はどうぞご協力を。


手厚いセイフティーネットが強い国を作る

2009年01月18日 | 経済一般

手厚いセイフティーネットが強い国を作る神野直彦(東京大学経済学部教授)より

スカンジナビア諸国は1990年代後半に高成長を実現しました。これは、セーフティーネットが経済成長を阻害するものではないということを示しています。それに、今後、先進国は従来の重化学工業から自然資源を乱費しない知識集約型産業にシフトしていかなければならない。

この知識集約型産業では人間の能力がすべて。セーフティーネットが幾重にも張られていれば、人々は安心して冒険することができる。逆に、最低限の安心がなければ、人は何かに挑戦し、知的能力を高めようとはしませんよね。セーフティーネットを張り巡らせる方が、逆に経済成長すると私は見ています。

セイフティーネットの重要性を指摘する意見。少し違うところもあるが、共感できる部分が多い主張だ。一つ言っておくと、自由競争とセイフティーネットは共存できる。セイフティーネットとヨーロッパの組合員の権利や、日本の正社員の保護は違う。セイフティーネットは落ちてくる人を、下まで落ちないように助ける制度だ。現在の特権を永久に与える制度ではない。

だから、セイフティーネットを整備することは、過保護にる経済の停滞の悪影響は少ないものと考えて良いだろう。逆に、セイフティーネットがあることによるプラスの点を考えると、北欧型の制度というのは非常に優秀だといって良いだろう。北欧型の制度というのは、セイフティーネットや福祉、教育支援は充実しているが、労働市場は柔軟で仕事に対する賃金は平等で、解雇も比較的行いやすい仕組みだ。これが、産業の競争力を支持しつつ、平等を実現している。

セイフティーネットの充実をという方はご協力を。


男女同権の失敗

2009年01月18日 | 政治

気を取り直して本題です。

もうすでに多くの人が指摘していることであるが、日本において行われた男女同権は無残な失敗に終わったと言って良いだろう。失敗に終わったというのは、男女同権が社会的に好ましい結果をもたらさなかったということではなくて、そもそも男性と女性との格差の是正に見事なまでに失敗したということである。

日本において行われた政策は、主として働く女性を支援することを目指した。そして、それが男女平等を達成し、また出生率を高めるものとされた。しかし、どちらも見事な失敗だった。理由は単純で、平等な権利や支援を最も必要としていたのは、働く女性ではなくて、子供を育てた後働きに出る女性や離婚した女性、シングルマザーといった階層だったからである。このような、もっとも男性や他の女性との格差にさらされている人たちを見捨てて、社会的に余裕のある働く女性を支援しようとしたことが失敗の原因だった。

何を隠そう、政策を立案したのは「働く女性である公務員」だったのである。結果、我田引水で自分たちに対する支援や、保障、有利な制度の導入に終始した。そして失敗したのである。

と、ここで右派ブログであると、男性と女性とでは昔から役割が違ってきたのであるから男性と女性を同じように扱うべきであると考えるフェミニズムを批判し、男性は男性らしく、女性は女性らしくという話に進むのであろうが、ここでは少し違う方向に。

日本が失敗した理由は何度もいうが、最も支援が必要な女性を見捨てたことにある。それは、中年で正社員ではない女性である。日本においては、会社を一度辞めると非常に年収や昇進において、不利になるため。出産のために一旦会社を辞めた女性は非常に不利な待遇を迫られた。その意味で、ここの部分での不平等を是正することが一番男女間の不平等を解消するのに役立つのではないだろうか。年功に依存しない賃金体系や、中途採用が普通に行われる雇用システム、このようなものを実現していくことが、最も社会的に権利が阻害されている人たちに同じ権利をもたらすことになるだろう。

フェミニズムではなく男女平等をという方はどうぞご協力を。


男女同権と男女平等

2009年01月18日 | 政治

wikipediaより

男女同権(だんじょどうけん)とは、男性と女性の権利を同等のものにしようという考え。

近代あるいはそれ以前の多くの社会においては、程度の差はあれ一般に男性が圧倒的に多くの権利を持っており、女性の権利は著しく制限されていた。そのような中で、男性と女性の権利を同等にしようとする考えは歴史上しばしば現れてきたが、現代的な意味での男女同権は1792年にメアリ・ウルストンクラフトが執筆した『女性の権利の擁護』始まるとされる。

男女同権を求める運動は19世紀を通して欧米を中心に発展していったが、その目的が部分的にでも実現されるようになったのは、概ね20世紀に入ってからである。

元々女性の権利が制限されていたという経緯から、男女同権を求める運動は主に女性の側から女性差別の撤廃と女性の権利拡大を求める運動として行われてきた。それらの女性の権利拡大を求める運動・思想は、現在ではフェミニズムと呼ばれている。男女同権の詳細な歴史についてはフェミニズムを参照されたい。20世紀に入ってからは、男性の側から男性差別の撤廃を求める運動も起こっている(マスキュリズム)。

現代では一部のイスラム教国等を除く多くの国で男女同権は制度上ほぼ認められているが、実質的な男女間の格差は依然としてほとんどの国で見られる。一方で、男女同権を目指す動きに反発する動きも過去から現在に至るまで存在し続けている。

少し、男女同権、男女平等について述べようとwikipediaをまず調べてみたら、その内容に少しびっくり。何に驚いたかというと、内容が男女同権的(ここでは男性と女性の権利を同じにしようというフェミニズム的な考え)にあまりにも偏っていたからだ。もう一つの考え方として、男女平等(権利を同じにするのではなく、全体として男性と女性とが主従関係ではなく、それぞれの権利を有しているという状態を目指すような考え)的な考えもあるだろう。昔のような、男性と女性とで役割が違う社会においても、女性の役割に対しても男性の果たす役割と対等な権利や意義を認めることによって、男女平等は目指すことが出来る。

もう一つ、上の話の続きであるが、男女同権がヨーロッパに始まり、イスラム社会では今でも実現されていないという、お約束の内容にうんざり。まず、男女平等という意味で見ると、イスラム社会においては昔から女性を男性の所有物として見る考えを否定し、男性と女性の双方に社会的な意味を見出して、女性の権利を尊重してきた。これは日本も同じだ。一方で、ヨーロッパは、中国・朝鮮半島と並んで女性の地位が極端に低い社会であった。

つまり、事実はヨーロッパは女性の権利においては歴史的には後進国なのに、それがあたかもヨーロッパがひたすら先進的であるように、男女の権利の問題を恣意的に限定することによって、お約束のヨーロッパ中心史観が炸裂しててびっくり。同時に、日本やイスラムの社会を取り上げないことによって、物事をちゃんと見ることを不可能にしている。って、おもいっきり脱線した。次に続く。

脱線したのを許してくれる人はどうぞ。


多数派が抑圧される社会

2009年01月17日 | 論理

ここ数回の話を補足すると、現在の日本を始め多くの社会において多数派の意見、大衆の考えが抑圧されるということが起こった。それは、上からの権力による抑圧というわかりやすい形を取るだけでなく、全体の意見を尊重するという形でも起こった。

多くの人が支持していることであったとしても(国家を愛することや天皇制のような伝統を考えると良いかもしれない)全部の人がそれを支持していないかもしれない。また、民主主義であったとしてもすべての人のすべての意見に基づくことは不可能だ。だからといって、完全なものを求めればすべてのものが全員の支持を集めていないとして否定される。だから、昔からこのような論法で多くの人が支持している権威や、意見が否定されてきた。

問題は、このような基準で物事を図ればすべてのものが否定されるはずなのに、なぜかある特定の主張は肯定されてきたということだ。古代ギリシャ・ローマにおいては、それまでの権威を否定する一方一部の者だけに選挙権を与える民主制が皇帝されたし、ヨーロッパにおいても国民を平等に扱おうという極右的な考え方は差別主義として否定される一方、一部の外国人や国内の一部の労働者に特権的な権利を与えることは肯定されてきた。

つまり、国内だけを見るということは不完全かもしれない。しかし、それが不完全だとしても、それは外国と国内の一部の者だけを優遇することを肯定したりはしない。もし、世界全体のことを考えて何かをする必要があるというならまだ論理的だろう。しかし、そうではなくて一部の者だけを優遇する政策を取るのであれば、なぜそのようなどの理念にも基づかない特殊な考えが肯定され、特定の理念に基づく主張が否定されるのだろうかと、多くの人が思うのではないだろうかと思う。そして、そこが非常に大きな問題ではないかと考えている。

同じような話で、重複もあって申し訳ないが、少し書いておきたかったので書いておいた。

日本に真のリベラリズムをという方はよろしくです。


少数意見を絶対視するな

2009年01月17日 | 論理

失業者や派遣労働者にも責任がある。日本以外の国の労働者のことも考慮に入れる必要がある。この国には日本人以外の人もいる。日本は単一民族ではない。日本以外の国のことも考慮する必要がある。市場がすべてではない。こういう風に、より高度に、より多面的に、すべての意見を、すべての要因を考慮すべきだ。狭い範囲に閉じこもって物事を考えるべきではないという人は結構いる。

しかし問題は、前回までの記事で書いてきたように、少数意見や他の要因を考慮した結果、もともとの理論や大多数の主張が無視されたら本末転倒だということだ。正社員と非正社員との間に差別が存在し、それが日本社会の労働市場を歪めていることがわかりきっているときに、他の要因を考慮してこの問題を無視することは、ただ単にある特定の特殊な要因を絶対視して物事を判断しているだけだ。また、日本のことを考えるときに国民全体の考えではなく、少数の声や中国や朝鮮半島などの一部の外国の声を考慮して物事を決めるのは、極少数のものの声に絶対的な権利を認めることと同じだ。これは、昔の治外法権と同じ理屈に過ぎない。

つまり、多様性や論理の完全性を装って、一部の人間の特殊な主張に影響されることは本末転倒なことだろう。いろいろな要因や少数意見があるにしても、まず全体として中心的な問題に一定の合理的な結論があるのなら、まずその結論にそって物事を考えていく必要があるだろう。その上で、少数意見や他の要因を考慮することによって、より全体として優れたものへと、政策や進化させていくことがこの社会に必要なものなのではないだろうか。

特殊な意見の押し付けはいらないという方どうぞご協力を。


相関関係と多様な要因

2009年01月17日 | 論理

論理思考力が低い人がよく言うことで、私にとっては意味不明で困ってしまうものに、「何々だけではない」、「何々も一理ある」というのがある。経済において重要なのは市場だけではない、市場だけにすべてを任せてはいけない。多数決で決めれば必ず正しい結果が出るとは限らない。他にも色々あるだろうがこういうのだ。当然、言っていることは単純で市場でも、多数決でもそれがすべてではないと言っているだけだ。その意味では単純明快だ。

民主主義を考えてみて、少数の貴族が物事を決定するよりも、全員で多数決で物事を決定したほうが全体として優れているとしよう。そうしたらこう言う人が出てくるかもしれない。「全員で多数決で決めれば必ずしも正しいとは限らないじゃないか。大衆が愚かで間違う可能性もある。」一理ある意見かもしれない。問題は、少数の貴族が物事を決定するよりも、全員で多数決で物事を決定したほうが全体として優れていることは、わかっているが、大衆を愚かであることを考慮するためには、現在の制度を変えなければならない。しかし、変え方によっては全員で多数決の方向から少数の貴族での方向に制度が向かうかもしれない。というより、向かうだろう。そうしたら、新しい要因を考慮したという点においては、優れているかもしれないが、もともとの観点からは後退したとしか言いようがない。つまり、ある面で進歩したとしても、別の面で致命的に後退すれば、全体としては間違って方向に進んだことになる。

つまり、何々より何々が優れているというのならわかりやすい。優れているほうを採用すれば言いだけだ。しかし、「何々だけではない」と言われても。それを考慮した結果、もともとの優れた点が最大限発揮できないのなら、逆によくないかもしれない。多くの場合、複数の要因は背反する方向で働くことがよくある。性能とコスト削減は同時に成り立たせるのは難しい。製造費用と製品のデザインの多様性は両立できない。つまり、片方を優先すれば、もう一方が犠牲にされる。バランスを取るのが一番良いかもしれないがそれはかなり難しいことだ。

つまり、もともとの問題で民主主義が優れていることや、正社員と非正社員の格差が問題でそれを是正しないといけないということがわかっているときに、「何々だけではない」と言われても、なんとも答えようがない。それも関係しているかもしれないが、もともとの問題の範囲で民主主義を追及することや、正社員と非正社員との格差を是正することを超えるレベルで正しい答えが出てくることを保障してくれない。逆に、「何々だけではない」という主張を聞いて全面的にそれを満たすようにすれば、ただ単にその主張を全面的に受け入れ、元の問題設定をすべて無視しただけのことになる。

問題の本質を突く議論だと思う方はどうぞご協力を。