車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

感情論

2009年01月28日 | 論理

手短に、前の記事を補足。(結果として全然手短ではない記事になっているが・・・)

感情論批判、あるいは大衆は感情的だというような主張がよく行われる。その心は、物事は単純ではないから単純に起こった事件や状況に「感情的」に反応して行動したり、政策を立案したりしてはいけないというものだ。だから、多くの犠牲者が出たとしても、多くの被害者が存在したとしても、そのような人たちの痛みに「情緒的」に反応してはいけないということになる。

このような意見にも一定の真理はあるかもしれないのだが、問題は被害者や犠牲者が大量に存在したり事件の原因としてあるものが大きな要因を占めていることが明らかな場合と、広い範囲にわたってそれが問題であることが明らかではない場合があるということだ。

貸し金の問題とダガーナイフが事件に関与した場合を比較するとわかりやすいだろう。貸し金による被害が日本全国で広がっており大問題になっていることはあまりにも明らかである。だから、それを問題と捉えて対策を取ろうとすることはある意味当然のことだといえる。それに対して、ダガーナイフが関与した事件はいくつかあるかもしれないがダガーナイフがあるからといって事件が起こったという証拠はまったくないといえる。

つまり、片方は事件との関係が明らかなのに対して、もう一方はただ単に一部の人が事件に使われたとして大騒ぎしているだけである。この二つの間には、非常に大きな違いがあるといえる。

大衆が「感情的」に反応するとされて非難されるのは、前者のほうである。つまり、それが大問題であることは明らかであるが、そこから導き出される対策が必ずしも正しいとは限らない場合であろう。確かに、このような反応は不完全で間違った結果をもたらす可能性があるかもしれないが、根本的な時点においてこのような問題意識で物事を考えることは間違ってはいないのではないだろうか。

逆に、ダガーナイフにおける過剰反応のようなものは、たいていマスコミや知識人、政治家が原因となるのだが、単なる根拠のない過剰反応に過ぎず、百害あって一理なしではないだろうか。

だから、「感情的」として大衆がよく非難されるのであるが、より問題性の大きな「感情的」な反応は大衆ではなく、より上の階層において起こっているのではないだろうかと私は考えている。その意味で、知識人が「感情的」に行動した結果、問題が起こったのに、その責任を大衆になすりつけ大衆を非難するのは大きく的外れではないだろうか。

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