車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

手厚いセイフティーネットが強い国を作る

2009年01月18日 | 経済一般

手厚いセイフティーネットが強い国を作る神野直彦(東京大学経済学部教授)より

スカンジナビア諸国は1990年代後半に高成長を実現しました。これは、セーフティーネットが経済成長を阻害するものではないということを示しています。それに、今後、先進国は従来の重化学工業から自然資源を乱費しない知識集約型産業にシフトしていかなければならない。

この知識集約型産業では人間の能力がすべて。セーフティーネットが幾重にも張られていれば、人々は安心して冒険することができる。逆に、最低限の安心がなければ、人は何かに挑戦し、知的能力を高めようとはしませんよね。セーフティーネットを張り巡らせる方が、逆に経済成長すると私は見ています。

セイフティーネットの重要性を指摘する意見。少し違うところもあるが、共感できる部分が多い主張だ。一つ言っておくと、自由競争とセイフティーネットは共存できる。セイフティーネットとヨーロッパの組合員の権利や、日本の正社員の保護は違う。セイフティーネットは落ちてくる人を、下まで落ちないように助ける制度だ。現在の特権を永久に与える制度ではない。

だから、セイフティーネットを整備することは、過保護にる経済の停滞の悪影響は少ないものと考えて良いだろう。逆に、セイフティーネットがあることによるプラスの点を考えると、北欧型の制度というのは非常に優秀だといって良いだろう。北欧型の制度というのは、セイフティーネットや福祉、教育支援は充実しているが、労働市場は柔軟で仕事に対する賃金は平等で、解雇も比較的行いやすい仕組みだ。これが、産業の競争力を支持しつつ、平等を実現している。

セイフティーネットの充実をという方はご協力を。


男女同権の失敗

2009年01月18日 | 政治

気を取り直して本題です。

もうすでに多くの人が指摘していることであるが、日本において行われた男女同権は無残な失敗に終わったと言って良いだろう。失敗に終わったというのは、男女同権が社会的に好ましい結果をもたらさなかったということではなくて、そもそも男性と女性との格差の是正に見事なまでに失敗したということである。

日本において行われた政策は、主として働く女性を支援することを目指した。そして、それが男女平等を達成し、また出生率を高めるものとされた。しかし、どちらも見事な失敗だった。理由は単純で、平等な権利や支援を最も必要としていたのは、働く女性ではなくて、子供を育てた後働きに出る女性や離婚した女性、シングルマザーといった階層だったからである。このような、もっとも男性や他の女性との格差にさらされている人たちを見捨てて、社会的に余裕のある働く女性を支援しようとしたことが失敗の原因だった。

何を隠そう、政策を立案したのは「働く女性である公務員」だったのである。結果、我田引水で自分たちに対する支援や、保障、有利な制度の導入に終始した。そして失敗したのである。

と、ここで右派ブログであると、男性と女性とでは昔から役割が違ってきたのであるから男性と女性を同じように扱うべきであると考えるフェミニズムを批判し、男性は男性らしく、女性は女性らしくという話に進むのであろうが、ここでは少し違う方向に。

日本が失敗した理由は何度もいうが、最も支援が必要な女性を見捨てたことにある。それは、中年で正社員ではない女性である。日本においては、会社を一度辞めると非常に年収や昇進において、不利になるため。出産のために一旦会社を辞めた女性は非常に不利な待遇を迫られた。その意味で、ここの部分での不平等を是正することが一番男女間の不平等を解消するのに役立つのではないだろうか。年功に依存しない賃金体系や、中途採用が普通に行われる雇用システム、このようなものを実現していくことが、最も社会的に権利が阻害されている人たちに同じ権利をもたらすことになるだろう。

フェミニズムではなく男女平等をという方はどうぞご協力を。


男女同権と男女平等

2009年01月18日 | 政治

wikipediaより

男女同権(だんじょどうけん)とは、男性と女性の権利を同等のものにしようという考え。

近代あるいはそれ以前の多くの社会においては、程度の差はあれ一般に男性が圧倒的に多くの権利を持っており、女性の権利は著しく制限されていた。そのような中で、男性と女性の権利を同等にしようとする考えは歴史上しばしば現れてきたが、現代的な意味での男女同権は1792年にメアリ・ウルストンクラフトが執筆した『女性の権利の擁護』始まるとされる。

男女同権を求める運動は19世紀を通して欧米を中心に発展していったが、その目的が部分的にでも実現されるようになったのは、概ね20世紀に入ってからである。

元々女性の権利が制限されていたという経緯から、男女同権を求める運動は主に女性の側から女性差別の撤廃と女性の権利拡大を求める運動として行われてきた。それらの女性の権利拡大を求める運動・思想は、現在ではフェミニズムと呼ばれている。男女同権の詳細な歴史についてはフェミニズムを参照されたい。20世紀に入ってからは、男性の側から男性差別の撤廃を求める運動も起こっている(マスキュリズム)。

現代では一部のイスラム教国等を除く多くの国で男女同権は制度上ほぼ認められているが、実質的な男女間の格差は依然としてほとんどの国で見られる。一方で、男女同権を目指す動きに反発する動きも過去から現在に至るまで存在し続けている。

少し、男女同権、男女平等について述べようとwikipediaをまず調べてみたら、その内容に少しびっくり。何に驚いたかというと、内容が男女同権的(ここでは男性と女性の権利を同じにしようというフェミニズム的な考え)にあまりにも偏っていたからだ。もう一つの考え方として、男女平等(権利を同じにするのではなく、全体として男性と女性とが主従関係ではなく、それぞれの権利を有しているという状態を目指すような考え)的な考えもあるだろう。昔のような、男性と女性とで役割が違う社会においても、女性の役割に対しても男性の果たす役割と対等な権利や意義を認めることによって、男女平等は目指すことが出来る。

もう一つ、上の話の続きであるが、男女同権がヨーロッパに始まり、イスラム社会では今でも実現されていないという、お約束の内容にうんざり。まず、男女平等という意味で見ると、イスラム社会においては昔から女性を男性の所有物として見る考えを否定し、男性と女性の双方に社会的な意味を見出して、女性の権利を尊重してきた。これは日本も同じだ。一方で、ヨーロッパは、中国・朝鮮半島と並んで女性の地位が極端に低い社会であった。

つまり、事実はヨーロッパは女性の権利においては歴史的には後進国なのに、それがあたかもヨーロッパがひたすら先進的であるように、男女の権利の問題を恣意的に限定することによって、お約束のヨーロッパ中心史観が炸裂しててびっくり。同時に、日本やイスラムの社会を取り上げないことによって、物事をちゃんと見ることを不可能にしている。って、おもいっきり脱線した。次に続く。

脱線したのを許してくれる人はどうぞ。