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リバタリアニズム(自由至上主義)【正義と善#4】

2021-10-12 06:10:14 | 哲学の窓

哲学チャンネルより リバタリアニズム(自由至上主義)【正義と善#4】を紹介します。

ここから https://www.youtube.com/watch?v=tHbDCDKebOU

※書籍 これからの「正義」の話をしよう https://amzn.to/3ayv7h6

動画の書き起こし版です。

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こんにちは。哲学チャンネルです。 功利主義の思想は社会全体の幸福度の最大化を目指しますが その場合、全体の幸福のために個人の自由が制限されてしまう可能性があります。 我々の自由はどこまで保証されるべきなのか? これについて、一番自由を重視する立場が【リバタリアニズム】です。 リバタリアンの思想を簡潔に表すと 『他者の身体や、正当に所有された物質的・私的な財産を侵害しない限り  各人が望む行動は基本的に自由である』 と表現できるでしょう。 リバタリアニズムにおいては、社会全体の幸福ではなく 個人の自由を徹底的に重視します。 (もちろん、それが最終的に社会全体の幸福に繋がるという思想です) あくまでも自分の身体や所有物は自分自身に所有権があるため、 例えば自分の身体を国家が強制的に利用する徴兵制に反対します。 また、徴税は私有財産権を侵害していると考えるため 福祉国家にも否定的です。 『リバタリアンは人間の自由という名において 制約のない市場を支持し、政府規制に反対する』 サンデルはこのように表現しました。 リバタリアン的思想にはジョン・ロックが提唱した 自己所有権と労働所有権の原理が根付いています。 ロックの考えを簡潔にまとめると 1,この世界にある全てのものは全ての人の所有物である 2,ただし、自分自身は自分の所有物である 3,さらに、自分自身の労働によって生産されたものは   その人の所有物である となります。 このことからリバタリアンは自傷的行為を行うものを 保護する法律に反対します。 サンデルはこれを 『パターナリズム(父親的温情主義)の拒否』と表現しました。 例えばシートベルトをしていないと罰せられる、 ヘルメットをつけていないと罰せられるなど そうした法律は、自分でどんなリスクを取るかを決める自由を侵害していると考えます。 第三者に危害が及ばない限り、 また自分で医療費を払える限りにおいては 国家にそれを制限する権限はないのです。 また、彼らは道徳的法律も拒否します。 多数派の持つ美徳の概念で自由を制限するのは不当だとし 例えばトランスジェンダーにおける婚姻の問題などには 国家が不当に介入してはいけないと考えます。 また、売春などを取り締まる規制に関しても それが当人同士の合意を含む行為であれば それを阻む法律は正当なものとはなり得ないと考えます。 サンデルはリバタリアンの政治的立ち位置について 『リバタリアンの哲学は政治勢力図の上に きちんとした位置を持っていない』と表現しました。 しかし、アメリカでリバタリアン党を創設したデイヴィッド・ノーランは リバタリアニズムの立ち位置をノーランチャートとして提示しました。 この表を見ても分かるとおり、 リバタリアニズムでは経済的にも個人的にも自由を重視します。 ここでいう『経済的自由』とは市場における国家の介入の度合いのことです。 リバタリアニズムにおいては自由放任主義(レッセフェール)の思想のもと 市場への政府の介入を一切否定します。 自由競争こそが市場の向上に繋がり、 ひいては社会全体の利益に結びつくと考えており 市場で起こる諸問題は政府の介入や規制が引き起こしているとも指摘します。 一般に【リベラリズム】も自由主義と認識されますが リベラリズムにおいては市場への国家の介入を認めます。 つまり市場の自由は軽視される傾向にあるのです。 このことからリベラリズム(自由主義)と混同しないために リバタリアニズムを【自由至上主義】と呼称したりします。 リバタリアニズムの意義は なんといってもその自由の主張でしょう。 確かに私たちは自然権とも呼べる自由の権利を 有しているように思われます。 ときに全体のためにその自由を侵害されることがありますが それが果たして『正しいことなのか?』と問い直すことは重要です。 また、政府に対する考え方の再検討にも役立つように思います。 リバタリアンは政府の介入による自由の侵害を許しません。 それはときに強弁のように感じますが、 一方で政府に頼り切って、その責任を半ば放棄するような姿勢と違い 0から社会がより良くなる方法を考え直す主張だと捉えることも出来るでしょう。 とはいえ、リバタリアニズムは様々な批判にさらされています。 一番わかりやすい批判は社会的弱者についての問題でしょう。 政府には社会的弱者を守る機能があります。 この介入を認めないということは、社会的弱者を切り捨てるということになりかねません。 自己責任論を盾に、社会的弱者は自分自身に問題があるとして 社会全体で助け合うことを放棄しても良いものでしょうか。 また、道徳の観点からの問題も考えられます。 例えばリバタリアニズムの思想に則ると 当人同士が合意した臓器売買、自殺幇助、合意による食人など これらの行為が合意したもの以外の自由を侵害しない場合 第三者がそれを禁止することは自由の侵害であると主張できてしまいます。 しかし『道徳的に』これらは許されるのでしょうか? サンデルはこのような道徳それ自体の重要性を考えるのに カントが提示した道徳論が役立つだろうといいます。 私たちには自由に先立って適応されるような道徳が備わっているのでしょうか? 次回はカントの道徳論について触れたいと思います。 以上です。


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