関心空域 ━━ す⊃ぽんはむの日記

元「関心空間」の日記(引っ越し後バージョン)です♪

嘆きのガラパゴスJAPAN❕ ── 生鮮食品の価格"高騰"基調、その「消費者責任」を糾(ただ)してみる/フルーツ篇

2018年10月30日 | 日記

今夜の↑ヘッダー画像はロシア、サンクトペテルブルクで母娘が営む《くだもの屋台》。実にラブリーな光景ではないか。

いったい、あちらのフルーツは👛いくらで買えるのだろう。と思ったので、同市内のスーパー店頭写真をググってみた。


見てみると、あちらの生鮮売り場は基本、ドンキ方式で山積みだ。ひな壇式で「圧巻の品揃え」を演出するか、仮に平積みでもボウル等に果実や野菜をテンコ盛り状態にしてある。そして(日本のように)1個売り、複数個売り(=皿売り、パック売り)はせず、秤(はかり)売りである。だから売価は全部、「キロ単価」表記。

秤売りのメリットの最たるモノは、野菜や果物の(サイズや色合い、成熟度の)不揃いによる不公平感が出ないことだ。そもそも、規格外で売れないというバカげた消費風習すら生まずにすむ。加えて(掲示単価が日本みたく百グラムでなく)キロ単位だと、実際に支払う金額は値札の数字からイメージし難く、数個なら値札の何分の一しか払わないのだから、感覚的な「高値感」がボカされたり和らげられたりする。高騰の作柄季でも買ってもらいたい商店主には、多少なり助かる販売法と言えるだろう。

たとえば上の売り場写真の場合、トマトがキロ160円

めちゃくちゃ安いじゃん、などと言うなかれ。サンクトペテルブルク市民の平均月収は3万円から4万円。

出費の痛さを(日本人と)揃えるなら、日常食料の場合「6倍にして」考えなきゃ。つまり1キロ、1000円。現地ロシア人市民のブログだと、キロ300円した!との記述もあったから、日本的に2000円近いコトもあるのだ。日本と同様、ロシア地方都市の庶民にとって生鮮食料は安くない。(ちなみにモスクワだと平均月収が3~4割増しになる分、物価も上がるんだそうだ)

でも考えれば、自給率の伸びない「農業ひっ迫国」ほど(食べるのに)贅沢言ってられないのだから、ロシア的な「秤売り方式」になるのが(むしろ理屈から言えば)フツーなのだ。

ところが日本は奇々怪々。1個いくら、〇個一皿いくら、という売り方が圧倒的に主流❕❔と化してる。

こういう掲示価格だと、消費者はプライスを即イメージできるが、生産者や販売者は「つぶを少しでも揃えて規格選別する」という多大な面倒を強いられる。当然それもコストに乗っかるため、店頭に並んだときの「1個の値段」は秤売りに比べてかなり割高に付く。まあ、この人手不足の大手スーパーの経費勘定では、かえって「割に会う」のかもしれない。個売りにするコトで計量要員を売り場に貼り付かせなくていい。対面販売せずに済ますコトで、より少人数の店員で広い売場面積を切り盛りできてる。

人手に日本ほど困らない世界の「農業零細国」では、生鮮売場用に様々な《料金秤 price computing scale》が普及している。事前に単価が打ち込めるようになってて、モノを乗せると(重量と同時に)売価も表示される「3値」表示式。旧い昭和人なら記憶にあるアレだ。今はもう、対面販売方式の残る老舗精肉店くらいでしかお目にかかれなくなった。


規格をキビしく管理して作物を取捨選別、その大半を「1個いくら」で売るという異常さは日本くらいなもんだが、「一皿いくら」の複数個売りは、むしろ(日本などの農業小国より)農業大国で典型的な販売方式である。


カナダや米国、オーストラリアなどで見かけるバケツ売りバッグ(ポリ袋)売り。それらは総て、「個々の出来のムラを均すために、ドンとまとめ売り」という生産者の都合で採用され、消費者もそれを受容してるから成り立ってる。ひとバケツ当たりの個数すら、決まってなんかない。

対して日本の果実販売の「1皿いくら、1パックいくら」は全3~5個くらいのレベル。その数だけは全皿共通で、ただ微妙な色合いやサイズの差を均したいから、3~5個にしてるまで。基底にあるのは「より値打ちに」ではなく「より均質に、見た目を公平に」という発想なのだ。こんな発想を優先して売る国、日本くらいのもんじゃないだろか。

いったい誰が、1個1個がバラつく「不ぞろい果実」の一切合切を秤売り、という「農業小国に適した販売法」を邪魔し、退けてるのか。

少子化のせいか❔ 少子化の被害は生産者も販売者も消費者も「お互い様」なのに、なぜ最終的に「販売者の言い分」が通り、生産者が苦しみ、消費者が高い買い物に付き合わされるのか。それに甘んじ戦後の高成長時代、次第に「対面販売の高い店」を避け「合理化した安い店」を選び続けた、(団塊の世代を軸とする)消費者どもが浅はか過ぎたのか❔ いろんなコトを訝って、キリがなくなる。

少なくとも、生鮮売場の値札を今のようにしてしまったコトに、(同じ値段なら)少しでも良いモノ、粒ぞろいなモノを選り好む消費者側のエゴ心理が「都合よく利用されてしまった」ことは否めない。その点についてだけは「消費者にも(いつしか秤売りの廃れた今の)高値社会をもたらした責任は、ある」…と思っている。
 
 
 
この話題の関連記事:
- 消費者の眼を欺(あざむ)く『現代ニッポンの発泡トレー』─── それは「進化」か、邪悪な「詐欺商材」か❕❔

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« それ、そもそも「外箱」でし... | トップ | ✒️妄想フィクション✒️ 母子... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日記」カテゴリの最新記事