シニアーのふれあいひろば

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華麗な紅葉・黄葉の季節となりました!

2023-12-01 10:46:47 | エッセイ

        

    □□□□□‐‐‐ikiikiclub mail magazine‐‐‐□□□□□

               2023.12.1.第280号

                  「生き生きくらぶ」事務局
                    http://ikiikiclub.sakura.ne.jp/

           華麗な紅葉・黄葉の季節となりました!
 紅葉・黄葉は山海の恵みにも似て、はしり、さかり、なごりの各段階を踏み
ます。緑があせ、紅黄の錦が乱れ、色が散り敷かれます。三段跳びで訪れる落
葉の季節は印象深く、なごりが惜しまれます。
 先般、知人と神戸の有馬温泉に泊まり、2500本のカエデから成る秀吉ゆかり
の「日暮(ひぐらし)の庭」を訪れ、鮮やかな紅葉を楽しむことができました。
後日、家族と神宮外苑の「いちょう祭り2023」に参加し、金色一色に染まる見
事な光景を堪能できました。

 最近の話題として「パレスチナ問題」を取り上げます。イスラエルとパレ
スチナ自治区ガザのイスラム組織ハマスの衝突が始まって1カ月が経過しまし
た。双方の死者数は1万人を超えています。パレスチナ問題について歴史的な
経緯、実情、解決策をコンパクトにお伝えします。

◆ パレスチナ統治の変遷
 <ペルシア帝国支配>  紀元前332年~紀元前63年
・紀元前1003年、ヘブライ人はパレスチナの地に王国を建設し、都をエルサレ
 ムとしました。紀元前332年にペルシア帝国の支配下に入り、ユダヤ人と呼
 ばれるようになり、ユダヤ人はエルサレムにユダヤ教の神殿を建設します。

 <ローマ帝国支配>  紀元前63年~638年
・紀元前63年、パレスチナはローマに征服されます。ローマはユダヤ教の信仰
 は認めるものの、重い税を課しました。ユダヤ人は70年に激しい反ローマ闘
 争を起こして鎮圧され、ヨーロッパ各地に離散していきます。
・イエスキリストは自分は救世主であり、ユダヤの王であると各地を説法して
 回りました。これに対し、ローマの法廷は国家反逆罪と見做し、死刑の判決
 を下します。処刑の日は西暦30年4月7日でした。
・一方、ローマ国内では「神の前での平等」を基底に持つキリスト教は多くの
 人に受け入れられ、キリスト教信者が急激に増え、多民族から成るローマ帝
 国の治安は安定していきます。この結果を受け、コンスタンチヌス皇帝はキ
 リスト教を313年に公認し、392年に国教とします。

 <アラブ支配> 638年~ 1922年
・7世紀にイスラム教勢力が勃興し、638年にエルサレムはイスラム勢力に征
 服されます。更に1517年、オスマン帝国が台頭し、1922年までパレスチナ
 を統治しました。
・パレスチナはアラビア語を共通言語とし、人頭税を払えば、今迄の宗教を守
 ることが許されました。エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の
 聖地として存続してきました。

◆ ユダヤ人迫害とシオニズム運動
 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、欧州各地で反ユダヤ主義が台頭しまし
た。ユダヤ人は安全な避難場所として新天地アメリカとユダヤ教の聖地パレス
チナを選びました。シオニズム運動とはユダヤ人がパレスチナに集結し、国家
を建設する運動です。
 当時オスマン帝国の支配下にあったパレスチナには数世紀にわたってアラブ
人が住み、イスラム教を信仰していました。この地へユダヤ人の移住が本格化
すると当然のことながら、アラブ人との緊張が高まりました。

 第一次世界大戦後、1920年から1948年にかけて、英国はパレスチナを委任統
治します。ナチスドイツのユダヤ人絶滅政策から逃れるため、ユダヤ人の入植
者は急増します。これを阻止するためアラブ人の抵抗運動も大規模化します。
  1947年、国際連合総会はパレスチナ分割案を可決しました。この決議はパレ
スチナ地域の56%をユダヤ人国家に、43%をアラブ人国家に割り当てる内容で
した。そしてエルサレムは国連管理地区とされました。

◆ イスラエルの建国とパレスチナ紛争
 1948年5月、英国の委任統治終了と国連決議に基づき、イスラエルは建国を
宣言しました。アラブ側は強く反発し、建国直後からずっとパレスチナ紛争
が続いております。一つは中東戦争でもう一つはは反イスラエル闘争です。

<中東戦争>  1948年~1973年
第一次中東戦争:1948年にアラブ連合軍とイスラエル軍が交戦し、イスラエル
 が勝利し、国連決議よりも大きな領土を獲得します。70万人が難民化。
第二次中東戦争:1956年にエジプトがスエズ運河国有化を宣言。英、仏、イス
 ラエルがエジプトを攻撃。米ソの圧力でスエズ運河国有化は実現しました。
第三次中東戦争:1967年にイスラエルは緊張が高まっていたヨルダン川西岸地
 区、ガザ地区、ゴラン高原、シナイ半島を6日間で占領しました。
第四次中東戦争:1973年にエジプトとシリアが国土奪還を狙うが失敗。アラブ
 諸国が石油戦略を展開し、シナイ半島のエジプトへの返還は実現しました。

<反イスラエル闘争>  1969年~2023年
 中東戦争によって土地を失ったパレスチナ難民は増える一方、イスラエルは
新領土で入植地建設を進めました。1964年、反イスラエル闘争の中心勢力とし
てPLOが結成され、ハイジャック、爆破などの過激なテロ活動を強めます。
  1993年にイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長の間で交わされた
オスロ合意に基づき、 翌年、ヨルダン川西岸地区とガザ地区は「パレスチナ
自治区」になりました。しかし、イスラエルの軍事支配と入植は続きます。
 一向に変わらない状況への強い不満を背景に、武装組織による反イスラエル
闘争とイスラエル側による激しい報復が繰り返されて戦闘規模が拡大します。
今回のガザ戦闘は、戦争に近い規模に拡大しました。

◆ パレスチナ問題の解決策(ガザ戦闘収束後)  
・紛争の出口は、イスラエル政府とパレスチナ自治政府が共存することです。
 これこそが唯一の選択肢であり、唯一の実現可能な解決法です。まず、双方
 が発想転換をして、視点を土地争いから世界市場に向けるべきです。そして
 世界市場の中で自分達の得意分野を見つけ出し、それを発展させるのです。
 そうすれば、争いをせず、共に豊かになる win-winの関係が築けます。

・イスラエル政府に期待される政策は財政豊かな穏健アラブ諸国との関係拡大
 です。サウジアラビアやUAE、バーレーン等は産業の近代化、多角化を急い
 でいます。それには高度な技術を持つイスラエルの協力が必要なのです。
 反イスラエル感情を生むアラブ諸国との戦争は極力避けるべきです。

・パレスチナ自治政府の独立は2ステップとすべきです。第1ステップは関係
 国の協力の下で国家構造を固めることです。
  領土の確定:イスラエル、国連、米国、EU
  安全保障:  国連、米国、EU、穏健なアラブ諸国(UAE、サウジ、ヨルダン)
   ガザ統治: ハマスからパレスチナ自治政府に移管
   インフラ整備、生活水準向上:資金はUAEとサウジが供与
   統治支援:国連、G7諸国NGO
  第2ステップでは産業発展に取り組むべきです。穏健なアラブ諸国とタイ
  アップするのが良いと思います。

       第280号の目次
    ■1 思 案 投 げ 首  
    ■2 海外出張の思い出:その3
    ■3  クマ被害の増大と対策

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆ 1                 思 案 投 げ 首 

                      ( 千葉県流山市 中楯健二 )
 中国政府は、処理水の海洋放出が始まった8月24日、日本の海産物輸入を全
面的に禁止する処置をとった。翌日には中国の食品業界に対しても、日本の海
産物の調理や加工、販売を禁じた。
 放出後の8月26日、日本政府は福島沖の魚を検査して放射性物質の有無を分
析したが、安全基準の値を超えた例はなかったと発表した。それにもかかわら
ず、中国では連日ニュースで「日本が核汚染水を海に垂れ流している」と盛ん
に取り上げた。

 それを信じた人々が汚染される前にとスーパーで塩を大量に買い込み、日本
へ嫌がらせの電話をする騒ぎとなった。日本政府は、「科学的根拠に基づいた
議論」を求めているが、中国政府はそれに耳を傾けようとはしていない。
 処理水問題は冷え込んでいた日中関係をさらに悪化させており、打開の糸口
は見つかっていない。中国は、日本側に「汚染水を蒸気とした上で大気中への
放出」を検討するよう要求したが、日本政府は「海洋放出の方が環境影響を監
視しやすい」として、その要求を拒否した。

 世界各国は、中国とロシア、そして韓国世論の一部を除いて、国際原子力機
関(IAEA)が「国際的な安全基準に合致している」とする日本の処理水放出に
理解を示している。
 日本に強硬な態度をとる中国にも弱みがある。というのは、中国の公式資料
「中国核能年鑑」で、2021年に中国の原発から放出された排水に含まれるトリ
チウムの量が、17カ所の観測地点のうち13カ所で、福島第一原発からの処理水
の上限を超えていることがわかったのだ。共同通信が8月8日に報じた。

 中国政府はそれについて自国民に一切知らせていない。中国には、かつて高
速鉄道事故で車両を埋めて事故がなかったことにした前歴もある。何事も事実
を隠して公にしようとしない「由 らしむべし、知らしむべからず」の態度は、
中国政府の悪しき習性だ。
 それを糺(ただ)すには、IAEAが持つ世界の原発からの放射性物質の放出デ
ータの公表が必要だ。公表されれば、原発の問題点や日本の置かれている立場
も明白になる。

 香港の新聞は「中国政府は、経済不況への国内の不満を日本の『処理水』に
向けさせようとしたが、むしろ国民の分断を深める皮肉な結果になっている」
と報じている。
 実際、IEAEの判断を信じ、処理水を気にしない中国人たちが、日本食を食べ
に香港に押し寄せているという。「上に政策あれば、下に対策あり」なのだ。
しかし、日本も偉そうなことは言えない。

 かつて、安倍晋三元首相は東京オリンピック誘致の場で、福島第一原発は
「アンダーコントロール」だと言い切った。その「大言(たいげん)」に反す
る今回の放出問題だ。
 ここは中国が反発するのは当然だと考え、日本政府は謙虚な気持ちで中国に
根気よく科学的根拠に基づく対話を促していく必要がある。この問題を政争の
具にする愚かさだけは避けなければならない。

 処理水の放出は今後30年にわたる長期的な取り組みだ。日本政府は定期的な
チェックを怠りなく続け、日本に不都合な事実があってもオープンに発表する
誠実さが求められる。
 それが、不信感を募らせる相手の信頼を取り戻す最善の策であると言える。
己(おのれ)が引き起こした事故を周りが納得する形で解決することほど難し
いことはない。
 だからこそ、日本がこの問題をうまく処理すれば、よい前例として原発を抱
える国々の模範となりえる。原発事故はどこの国でも起こりえる、日本だけの
問題ではないのだから。

 ところで、日本にとって中国の水産物輸入禁止処置は悪いことばかりなのだ
ろうか。いや、そうとばかりは言えない。私の考えでは、いい点が三つある。

 その一つは、中国の漁船が日本近海で漁をしなくなることが考えられる。近
年、中国の漁船団は大挙して日本近海で漁をするようになって、水産資源が荒
らされ、日本側の漁獲量が大きく落ち込んでいる。
 中国政府は「人民の健康を守る」という理由で、日本からの水産物の輸入を
禁止している以上、中国漁船が日本近海で獲った魚も自国民に食べさせるわけ
にはいかない。
 それは構わないとなれば、論理的矛盾をきたし、「自縄自縛(じじょうじば
く)」となって、日本側に説明がつかなくなる。

 二番目は、中国人の魚介類の摂取が減れば価格が安くなり、日本人の口に入
りやすくなる。中国人には本来生のものを食べる習慣はなかった。常に火を通
すことが中国料理の基本である。
 それが、日本料理の普及で、中国人は生魚のうまさを知ってしまったのだ。
しかし、政府の政策によって日本からの水産物が禁止されたわけだから、いく
ら好きでも食べるわけにはいかない。処理水の放流は今後30年続く。
 その間は、獲っても商売にならなければ、中国漁船は日本近海に近寄らず、
海洋資源も守られる。

 三番目は、尖閣諸島に接近する中国漁船が少なくなれば、監視する海上保安
庁の負担も大幅に軽減される。こんなことを言えば、「話を単純化するな」
「冗談もほどほどにしろ」と叱られそうだ。
 しかし、物事には「表」と「裏」があり、こうした側面も考えられるのでは
ないかと思って書いた次第である。少々の皮肉は私の好みなのでご勘弁願いた
い。

 ところで、今回の中国の輸入禁止措置には、経済不況で国民の間にたまって
いる政府に対する不満をガス抜きする意図もあると言われている。ところが、
その不満の矛先が自分たちに跳ね返ってくると察知すれば、中国政府のことだ
から輸入禁止を撤回することも考えられる。
 中国はご都合主義の国だから十分あり得る。そうなったとき、中国はどんな
口実を設けて振り上げた拳を下ろすのだろうか。

 それには、これまで主張してきた「核汚染水」を、「人体に悪影響を及ぼさ
ない処理水」であると認識を新たにしなければならない。弁証法でいう「正・
反・合」の論理を中国政府はどう組み立てるのだろうか。
 今、中国はどうしたものかと「思案投げ首」をしている最中に違いない。は
たしてどうなるか、今後の成り行きを興味を持って見守ることにしよう。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆ 2            海外出張の思い出:その3    

        ( 神奈川県横浜市 山尾 正斌 )
 リマイの幹線道路沿いに清潔そうなレストランがあるのを見つけ、私たちは
そこで昼食を摂ることにした。レンタカーの運転手に「一緒にどうか」と勧め
たが固辞するのでTさんが昼食代相当のチップを渡すと、出発時刻を確認した
のち嬉しそうに立ち去って行った。
  考えてみれば、彼らにとってはレストランで食事をするよりもそこらの一膳
飯屋か屋台で簡単に済ませてチップを浮かせた方がずっと合理的なのだろう。
 昼食を済ませて店を出ると、車の脇にさっきの運転手が待っていた。Tさん
が「充分食べたか?」と尋ねると、笑顔で「サンキュー・サー」と言う。地元
の人には、彼らなりの快適な生活環境があるにちがいない。

 リマイの町を出発して10分ほど走ると海に臨む敷地に変電設備と一部赤煉瓦
造りの発電所の建物が見えてきた。今日の目的地バターン火力発電所である。
運転中なのは1号機で、私たちが今回受注したのは2号機である。
  守衛所で訪いを告げると早速所長室に通され、本社から来たらしい技師らも
集まって、先行工事の打ち合わせが始まった。予め送付しておいた設計図と工
程表をもとに工事概要を説明し、今日これから補助冷却水配管の敷設現場を調
査したい旨も伝えた。
 一連の討議を経て議題をクリアしたあと、同行した他の二人は、工事開始後
の建設事務所・資材置き場などに関する要望や工事期間中必要な水道・電力な
どの打ち合わせで所長室に残り、私は独り屋外の現地調査を行うことにした。

 現場は、茅(かや)に似た腰の高さほどの半分緑半分枯れ色の草が生い茂っ
た一面の原っぱで、海に向かって緩い下り傾斜になっている。私は顧客にここ
には毒蛇が居ないことを確かめた後、ライトブルーの自社作業服に着替えて、
配管ルートの予定地を歩いて見た。
 海辺のポンプ据え付け場所から発電所までの経路上に、事前に顧客から提示
された地形図に記載のない障害物はないか、実際に歩いて踏査するのである。
 配管の屈曲点になる場所の様子を調べていたとき、突然(と私には思えた)
足音も無く茅の間から目の前にヌーッと人影が現れた。ビックリ仰天とはまさ
にこの時の実感である。
 見るとカーキー色(私には国防色といった方がピッタリする)の軍服と戦闘
帽を着用し、カービン銃を携えた兵士らしい人物が立っている。
 思わず相手の顔を見詰めた。陽焼けした浅黒い顔で彼もこちらを凝視してい
る。その眼が難詰しているかのようで思わずタジタジと後退りしたくなった。
ひと呼吸おいて相手がニッコリと表情を緩め「Oh, Japanese engineer」と言
うと軽く挙手敬礼をし、クルリと踵(きびす)を返して立ち去っていった。
 兵士が去ったあと、私は思わずその場にへたり込みそうになった。ホーッと
大きな溜め息が出て、気付くと画板とボールペンを握っていた手がびっしょり
と汗で濡れていた。
 それにしても発電所の機能上は末端組織であるはずの構内保安要員にまで、
今日、日本から技師が調査に来ることを徹底させてくれていた顧客の気配りが
ありがたかった。
 後で知った話だが、発電所など国家的に重要なインフラ施設では、不審者侵
入に備えて軍人やガードマンが武器を携えて警備するのが当たり前とのこと。
日本では日常、小銃を手にした人物を見る機会はないが、世の中にはそれが当
たり前な国もあるのだ・・・。

 調査を終えて冷房の効いた所長室に戻ると、冷たいペプシコーラが待ってい
た。屋外の直射日光とビックリした時の冷や汗で全身汗まみれだったから、部
屋の隅で着替えさせて貰い、コーラをご馳走になった。
 喉に染みわたる炭酸と甘い清涼感・・・予期せぬ驚愕を伴う現地調査の後だ
っただけに、あのときのコーラの旨さは今も忘れない。

 発電所を辞した時、外はまだ明るかったが、午前中に予約したリマイのホテ
ルで一泊した。夜間の長距離ドライブを避けるためである。リマイのホテルは
田舎に相応(ふさわ)しい極めて素朴な佇まいで、窓から見える夜景の暗さが
今も記憶に焼き付いている。
 とにかく辺りが真っ暗なのである。目の前の山の端が僅かに薄明るく、空と
の境界であることがわかり、満天に星が瞬いている。一方で地表は、野原も田
圃も畑も言葉通りの漆黒の闇なのだ。遠くに点々と焚き火をしている明かりが
見えるだけで、民家の灯りもみあたらない。あれほどの暗闇には、その後も今
日まで出遭った記憶がない。
 翌朝Tさんに訊くと、フィリピンでは電力料金が高く、田舎にはなかなか電
気の普及が進まないのだそうだ。焚き火は稲藁を燃やす農作業、この地域のフ
ィリピン人は日本人より暗視力が優れているそうだが、それにしても、あの漆
黒の闇の中を農夫はどうやって自宅まで帰るのだろうか。

 翌朝、前日と同じ経路を逆に辿ってマニラに戻り、前と同じホテルに投宿。
日曜日でもあったから夕食までは各自ノンビリ過ごすことにし、私は夕方、か
ねて話に聞いていたマニラ湾の夕陽を見ようと近くの公園に出かけた。
 海岸沿いの遊歩道の散策は、海風はあるものの、東京横浜の夏よりもかなり
暑い。喉が渇き、飲み物を買おうと園内の売店に立ち寄ると棚一杯に色鮮やか
な飲み物の瓶が並んで居る。
 本当は水かお茶のようなサッパリしたものが欲しかったのだが、商社の人か
ら「安全なのはペプシコーラだけ、しかも世界中何処で飲んでも味が同じ」と
聞いていたので、ペプシにした。
 日本では各社のコーラが出回っていたがこの地にはペプシコーラしかなく、
それも日本のものより甘みがかなり強かった。味は世界中何処も同じ・・と言うのは当た
らないようだ。

 夕暮れ間近な公園は日曜日のせいもあって、カップルや若者のグループが多
く、私のような独りの散策客は他に居なかった。ここで気付いたのが、若い人
たちは遠くにいる仲間同士が呼び合う際に「プスー」とか「プシー」と聞こえ
る歯音を発することである。
 日本ならさしずめ「おーい」とでも言うのだろうか。この音(声?)は遠く
までよく通るようで、この声を聞くと辺りの人たちが一斉に発声した人の方を
振り向く。
 後日、地元の英字紙に掲載された4コマ漫画には “psy!” と表示してあっ
た。こんな言葉は持参した英和辞典にも、帰国後調べたどの辞書にも記載され
ていなかった。
 話題が逸れたが、その後この日曜日を含めて三度ほどマニラ湾に夕陽を見に
出かけたのに、日本で見る夕陽とさほど変わらず、残念ながら絵はがきで見た
り、噂に聞いていた美しい夕陽に出会うことができなかった。

 明日は帰国と言う日の夜、日本商社K社の担当者と私たちで会食をした。広々
としたフィリッピン料理のレストランであった。
 食事半ばのころ突然停電。灯りはテーブルのキャンドルだけになり、あたり
は真っ暗。しかし周りのお客達は騒ぎもせず冷静である。時を置かず廊下の方
から眩いばかりの灯りが近づいてくる。
 見ると給仕が長い竿の先にランタンをつけて入ってきて、ホールの天井に取
付け一件落着。停電前よりむしろ明るく思える程になった。私たちが日本でキ
ャンプの時に持参するホワイトガソリンを使う強力ランタンである。
 商社の人が解説してくれたところでは、マニラは当時電力不足で夜間のゴー
ルデンアワーに屡々(しばしば)停電があるそうだ。それに慣れっこになって
いるレストランでは停電に備えて即応体制ができていると言うことらしかった。

 生まれて初めての海外出張、フィナーレは何と言ってもお土産、それも免税
品の買物である。役務完遂のあとだから、多少良い目を見させて貰っても罰は
あたるまい。
 出発を待つ間、マニラ空港の免税店で家族や会社の同僚にチョコレート、自
分へのご褒美にジョニ黒を購入し、残余の通貨ペソをドルに再両替し終えると
急に飛行機の出発時刻が待ち遠しくなってきた。帰心矢の如し、とはまさにこ
のことであろう。

 東京(羽田)に到着して税関検査を無事通過すると、八日間の海外出張を終
えたという実感が湧き、ホッとして体中の緊張が解(ほど)けてゆくのが判っ
た。
 東京の冬の寒気は思わず首をすくめるほど厳しく、期せずしてブルブルッと
胴震いがきたのは、寒さのせいばかりではなく明日からの上司への報告やミッ
ションのフォローへの新たな緊張感だったのかもしれない。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆ 3       クマ被害の増大と対策

         (東京都小金井市  上田 亨)
 各地の里山や農村地帯から、連日のようにクマによる被害の報告が相次いで
いる。田畑や果樹園が荒らされるだけでなく、人的被害も多い。その原因を探
ると都市型クマ(アーバン・ベア)の存在がある。
 都市型クマは、市街地周辺に恒常的に生息し、一時的に市街地に出没する。
人への警戒心が比較的薄い。白昼堂々、市街地を闊歩する。バス停や庭先、車
庫で人を襲う。庭先の果実や畑のトウモロコシを食べる。

◆ クマによる被害
 本年度の死者数は5人(岩手県2人、北海道、富山県、長野県各1人)と最多
の21年度などに並んだ。死傷者数が最も多いのは秋田県の61人で岩手県の42人
、福島県13人、北海道12人、青森県11人、長野県10人と続く。
 環境省の統計によると近年はクマによる人身被害の発生場所は山林ではなく
人が日常的に滞在する場所(住宅地・市街地、農地)に移っている。
   2016年度は住宅地・市街地、農地での被害は22%、山林での被害は65%
   2020年度は住宅地・市街地、農地での被害は38%、山林での被害は35%

事例1:札幌市東区の住宅街で早朝、ごみ出しの男性4人がヒグマに襲われた。
事例2:宮城県遠野市ではクマがニワトリ小屋を3日間襲い、100羽食べた。
事例3:北海道でヒグマが66頭の乳牛を襲う。射殺体は激やせで骨と皮だった。
事例4:岩手県滝沢市では親子連れのクマが連日牛舎に侵入し、エサを食べる。
事例5:10月に秋田県でクマ3頭が小屋の中に居座り、地元の猟友会が駆除した
と報じると県に抗議の電話が殺到した。秋田県の佐竹敬久知事は「悪質な抗議
電話は業務妨害だ。人命第一だ」と訴える。

◆ 人里に出没するクマが増えたのはなぜ? 
 専門家によると、クマは凶暴で人を襲うというイメージがあるが実際には主
食は野草や木の実、昆虫であり、動物を襲うことはそれほど多くないという。
基本的には警戒心が強く人がいるところに近寄ってくることは殆どない。

 では、なぜクマが里に下りてくるのか。それはやはり、山の中で十分に食料
を得られないからだと考えられる。クマの目撃情報、駆除体から想定されるこ
とはほとんどのクマがやせ細っており、食糧難に陥っていることである。
 それでは食糧難の原因は何か。主食のドングリが凶作で生産量が減ったこと
なのか、ドングリを食べるクマやシカの個体数が増えたことかのどちらかだ。
専門家は盛んに前者と主張するが、私は後者であると思う。

 北海道は従来、「春グマ駆除」を行ってきたが90年度から中止した。その結
果、ヒグマの個体数は90年度の5千頭から20年度は1万2千頭に倍増した。この
間、エゾシカの個体数は約70万頭で推移している。
 秋田県のツキノワグマの個体数は00年度~15年度は千頭前後で推移、17年度
は2300頭、18年度は3700頭、20年度は4400頭と増加している。直近30年弱でシ
カの個体数は8倍に増加した。

◆ 今後の対策
 クマ被害が起きるのは「どんぐり」の出来ぐあいも一因だが、ヒトの居住域
縮小と撤退、クマやシカなどの生息域の拡大が続き、お互いの生活圏が入り組
んでいることのようだ。

 対策の第一はクマと人とが住み分けをする「ゾーニングの設定」が必要だ。
人の生活圏は住宅地・市街地、農地であり、クマの生活圏は山野である。緩衝
地帯である里山の草刈りや間伐を進め、見通しをよくし、心理的障壁とする。
 対策の第二は人間の生活圏に住みつき、人の日常生活に慣れている都市型ク
マを完全駆除する。畑の農作物を食べる、家畜を食べる、住宅に侵入してゴミ
箱や冷蔵庫をあさる、などの悪習を身につけ、子熊に伝授することを防ぐ。

 対策の第三は山野のクマの個体数管理について1990年迄続けていた「冬眠明
けの春グマの駆除対策」を復活する。クマの食糧事情は駆除したクマから推察
し、痩せていれば、駆除を強化し、そうでなければ、駆除は中止する。
 対策の第四はハンターの確保である。狩猟免許等の新規取得支援のほか、射
撃技術の維持・向上のための射撃講習会を開催する。狩猟に参加したハンター
の手当は手厚くする。

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