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  野菊の花が咲く季節となりました!

2021-10-01 09:34:40 | 最近の話題

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    2021.10.1.第254号

     「生き生きくらぶ」事務局
      http://ikiikiclub.sakura.ne.jp/

         野菊の花が咲く季節となりました!
 秋の日を浴びて白色の軽やかなじゅうたんが、緑の河川敷にふわりと浮かん
でいます。野菊は明るく、清純な感じを与えます。山道や渓流から人里まで広
く分布しています。地下茎が横に伸びて群生します。
 野菊というと、小学校唱歌「野菊」の歌詞や映画「野菊の墓」を思い出しま
す。思わず「遠い山から吹いてくる 小寒い風に揺れながら・・・」と口ずさ
みます。つつましく清らかに生きる人の在り方を描いた歌です。

 最近の話題として「2要人の決断と今後の展開」を取り上げます。決断で
日本、或いは世界が変わります。最近、起きた二つの事例を紹介します。

◇ 菅総理が自民党総裁選出馬を断念
 総理は当初、総裁選と衆議院選を一体にして勝利するシナリオを想定してい
ました。然し、横浜市長選で敗北すると、支持率低迷に党内の反発が加わり、
退陣する道を選ばざるを得ない状況に追い込まれました。
 菅総理の功績は長期停滞に風穴を開けたことです。安倍首相は堂々とした態
度とわかりやすいメッセージで途中までは金融緩和と財政出動による経済再生
TPP締結などの成果を上げました。然し、長老・派閥支配が続くと政治がマンネ
リ化し、デジタル化では近隣のアジア諸国にも遅れをとる状況になりました。

 菅内閣は1年という短期間に大きな功績を残しました。携帯電話料金の引き
下げ、脱炭素、デジタル庁設立、原発汚染水の排出、医療費2割負担、ワクチ
ン接種の迅速化とコロナ第5波の終息が挙げられます。
 当初、掲げていた縦割り行政の打破や規制改革、中小企業の構造改革に手が
付かなかったのは残念です。改革には必ず痛みが伴います。菅総理の問題点は
根回し不足、国民への説明不足です。今回、これが命取りとなりました。

 自民党総裁選が実施され、10月4日には新総裁が選出される予定です。間近
に迫る衆院選を意識し、「選挙の顔」を誰にするのか、自民党衆院議員の半数
を占める若手世代と派閥がせめぎ合う真剣勝負が展開されました。
 若手の主張は自民党改革です。・派閥に代えて政策集団を作り、政策を競う
・総裁選の投票は議員の意志を尊重する ・役職任期は長期を避ける ・人事 
は当選回数や男女の区別なく、実力主義で選ぶ、・党の運営を透明化する。

 先の五輪・パラ五輪では日本の若者たちが突破力を見せてくれました。自民
党総裁選の結果を受けて政治が若返りし、突破力を発揮して世界のトップを走
る日本に再生することを願います。
 一連の日本の動きに海外投資家が目を向け、日経平均株価が31年ぶりの高値
を更新しました。国内世論調査では自民党支持率が5%上昇しました。

◇ バイデン米大統領、アフガニスタンを見限る
 20年にわたるアフガニスタン戦争は8月末、米軍撤退で幕切れを迎えました。
2011年、米同時テロの首謀者ウサマ・ビンラディンを殺害したものの、アフガ
ニスタンを民主国家に造り変える作戦は挫折しました。
 バイデン氏は10年前、米国や国際社会が支援してもアフガンの民主化や治安
状況が一向に改善しないのはアフガン政府に広がる腐敗や無能力にあることを
見破り、当時のオバマ大統領に米軍撤退を進言しましたが却下されました。
 10年後、大統領となったバイデン氏は250兆円もの戦費を投じ、2500人の戦
死者を出しても成果の上がらないアフガン政府に、資金と米兵の生命をこれ以
上つぎ込めないと見限り、撤退を実行しました。素晴らしい決断です!

 タリバンは全員タリバンから成る暫定政権を発表したものの、どの国も承認
していません。国家予算の8割を占める国際支援も目下凍結中です。支援再開
の前提は少数派や女性を含め、国全体を代表する包括的な政府の樹立です。
 首都カブールでは、銀行は営業を一時停止しています。具体的な政策づくり
は遅れ、経済はまひ状態です。食料、水、医薬品が大幅に不足し、物価が高騰
しています。更に干ばつとコロナ感染が混乱に拍車をかけています。

 国連によると、このままではアフガンは人口の4割近くに当たる1400万人が
年末までに飢餓に直面するとしています。国連のグテレス事務総長は米など世
界96カ国に1200億円の緊急援助を求めました。
 故中村哲医師は僅かな寄付金を原資として診療所を開設し、砂漠を緑化し、
60万人の農民が帰農しました。高度な機械は使わず、手掘り、200円の日当払
いで農民を動員し、27kmの用水路を完成させました。

 上記の例から分かるように、アフガンの実態に即した開発をすれば、援助額
が従来の1/100になっても国造りは十分可能です。タリバン側に求めたいこと
は人道支援活動をする上での安全確保、女性職員を仕事に戻すこと、すべての
子供に教育を受けさせること、全国民が安全に過ごせること等の実行です。
 故中村哲医師が現地代表を務めていたペシャワール会(NGO)によると、現地
スタッフ全員の安全が確認され、東部カンダハル州で診療所、植樹などの農業
事業、用水路開設事業などは再開しているそうです。

 空港の運営や人道支援で協力しているカタール政府は、暫定政権と包括的政
権の樹立、経済再建、世界との交わり方について会談しました。協議にはタリ
バンだけでなく、旧政府のカルザイ元大統領や旧政権幹部も加わりました。

       第253号の目次
    ■1 ジョセフ・ヒコ 
    ■2 年男の弁 中吉    
    ■3 眞子さまの結婚が提起する皇室問題第2弾 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆1  ジョセフ・ヒコ      

                ( 神奈川県横浜市 山尾 正斌 )
高知を旅した人でなくてもジョン万次郎の名を知らない人はないだろう。天
保12(1841)年14歳の土佐の少年万次郎は炊夫として乗った漁船の初出漁で嵐
に遭遇、難破漂流の後、無人島(鳥島と思われる)に漂着した。
 そこで5か月暮らした後、アメリカの捕鯨船に救助される。アメリカに渡っ
てからは、捕鯨船船員としての経験を積むとともに善意の人たちの援助で英語
に馴染み、先進文明に触れ、専門教育も受けて、嘉永4(1851)年帰国する。
 黒船来航期の幕府方通詞・先進技術者として活躍し、咸臨丸の航海士兼通詞
として再度アメリカに渡るなど、幕末から明治にかけて文明開化の歴史にその
名を残した。

 ジョン万次郎ほどの知名度はないが、万次郎と同時期に数奇な運命に翻弄さ
れながら日本とアメリカの架け橋となったもう一人の男を私は知っている。播
磨の国の海辺の寒村で水主の倅として生まれた彦太郎だ。アメリカでの洗礼名
ジョセフ・ヒコ、帰国後は浜田彦蔵とかアメリカ彦蔵と呼ばれた。
 私が彼を知ったのは、平成21年、横浜開港150周年の年に開港資料館や歴史
博物館図書室をまわって横浜開港にまつわる資料を読み漁った時である。資
料の中に、彦蔵の名がしばしば登場した。

 彦蔵は13歳の嘉永3(1850)年水主見習いとして新造の回船「永力丸」に乗
り組んで江戸へ向かった。その初航海の復路、大阪へ向かう熊野灘で嵐に遭い
難破、太平洋を漂流する。
その後もたびたび嵐に遭遇してさしもの新造船も破船、漂流は2か月に及ぶ。
僥倖と言うべき奇跡に恵まれて太平洋上でアメリカの商船「オークランド」号
に救助され、サンフランシスコに渡る。

 当時、新興先進国だったアメリカには、善良で慈善意識旺盛な市民が多く、
それらの人たちの知己を得て異国社会に順応した。好意と好機を得て、1852年
15名の永力丸漂流民とともに帰国のためハワイ経由香港まで戻る。
 香港で、ペリー提督が率いる予定の軍艦「サスケハナ」で日本へ帰国するの
を待っていた。ペリー提督到着を待つ間に、彦太郎はペリー提督の日本来航の
目的が11隻の軍艦を揃えて日本開港を迫るため赴くこと、その際16人の漂流民
の帰国を交渉材料にすることなどを知る。

 彦太郎は、開港交渉の人質にされたあげく帰国後は鎖国破りの大罪人として
処断されることを畏れて、1852年末マカオ経由、50日の航海を経て再びサンフ
ランシスコに戻る。
 その後、役人や資本家の好意で生活の場をニューヨークやボルチモアに移し
学校教育を受け、英語に馴染むとともに商習慣なども身に付ける。驚くべきこ
とにその間、彼は14代フランクリン・ピアース、15代ジェームズ・ブキャナ
ンの両大統領と面会・握手し、言葉を交わしている。
 当時の新興先進国アメリカが貿易拡大を意図し、世界の国々、とりわけ東洋
の未知の国日本との親善を深めたいと願っていた証のひとつであろう。

 アメリカでの保護者の勧めで米国に帰化した後、彦蔵はアメリカ領事館通詞
として海軍軍艦ミシシッピー号で1859年神奈川に帰国する。帰国後の彼はアメ
リカ領事館が行う神奈川奉行所や幕府要人との折衝をはじめ、横浜を中心に拡
大していた内外の商取引きに、通詞として遺憾なく能力を発揮する。
 当時としては外交・貿易に欠くことのできない人材として重用される。当時
の日本社会は身分制度やヒエラルキー意識が強かったのに、彼が重用され得た
のは英語の読み書きが堪能であったことや広い視野を備え、国際的で的確な判
断力とそれを主張できる自信があったからだと、私には思える。

 冒頭の万次郎は公儀方として、彦蔵はアメリカ領事館職員として、お互いの
存在を殆ど知ることなく黒船来航時期の政財界で活躍していたことは極めて興
味深い。両者の邂逅はやがて歴史的な舞台で果たされることになる。
 1860年、幕府は米艦ポーハタンで遣米使節団を送り込むことになり、それに
勝海舟を艦長とする幕府海軍軍艦「咸臨丸」を随行させた。その際、咸臨丸の
水先案内人として米国海軍ブルック大尉らを搭乗させた。
 ブルック大尉を咸臨丸に送り届けるアメリカ領事館関係者のなかに彦蔵が居
た。彦蔵は咸臨丸上で万次郎とともに通詞を務めた。この時、彦蔵は咸臨丸艦
長勝安房(海舟)とも面談している。

 彦蔵はその後、国内に跋扈する尊攘派の暗殺を回避するとともに自分の将来
に備えて、米海軍の兵站管理の資格を得るため、1861年再びアメリカに渡る。
この時期のアメリカは南北戦争の渦中にあり、世界に展開している海軍力を戦
争要員として呼び戻そうとしていて、彦蔵の初期の願いは潰える。
 それと同時に、彼が嘗て体感したアメリカの自由で慈善の心溢れる風潮が失
われ、とげとげしく疑い深い風潮に変わっていることに失望している。次善の
策として正規領事館員の資格取得を目指す際、16代大統領エイブラハム・リン
カーンと面談し、握手している。

 1862年8月、香港・上海経由で神奈川に帰国した彦蔵は正規のアメリカ領事
館員となるが、公使も領事も入れ代わり、彼らが国の為よりも立場を利用した
利己的な行動を見せることに失望し、領事館を辞して民間人となる。
 当時は井伊直弼をはじめ英国公使館通詞伝吉、米国公使館通詞ヒュースケン
の暗殺など尊攘派浪人らによる蛮行が続く。
 彦蔵もその標的にされる恐怖を味わいつつ、1865年には商人や開国推進派の
武家のために、木綿・石炭の海外相場や内外の物価相場、社会情勢などの情報
を翻訳して、日本語の新聞として発行している。

 その後の彦蔵は、長崎で米国人友人から譲り受けた商社を経営し、グラバー
商会傘下に入る。幕府や各藩が入手を競った武器や艦船の輸入に奔走する。南
北戦争が終焉して多量の武器・艦船が余剰になり、片やわが国では幕軍と新政
府軍とが戦のさ中にあって新式の銃器を必要としたため事業は隆盛を極めた。
 しかし 新政府による治世が進むにつれて、盛んだった戦時需要は消滅し、
グラバー商会は破産に至る。彦蔵の晩年は、善意の人たちに包まれた在米時代
や帰国後の政財界第一線での活躍が華麗だっただけに、穏やかに過ぎる余生は
彼にとって寂しいものだったようである。

 私が本稿の憑拠にしたのは巻末に記した2刊の小説である。厳密な意味では
歴史的な事実とは言い難いかもしれない。
 しかし、両書の著者は当人や関係者の日記をはじめ、色々な文献を精査し、
当事者の子孫らへのインタビューも行って執筆しているので、二書に登場する
歴史的出来事の描写は真に迫っている。ベテラン執筆者の筆致は力強く、読み
物としてとても印象的であった。

参考: 津本 陽著「椿と花水木 万次郎の生涯」 読売新聞社 平成6年刊
    吉村 昭著「アメリカ彦蔵」 読売新聞社 平成11年刊

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆ 2       年男の弁 中吉          

  ( 千葉県船橋市 藤井 仁毅 )
 最近、急に体力が落ちてあちこちに支障をきたすようになった。体力ばかり
でなく知力の衰えも馬鹿にならない。人名や地名が想い出せないのはまだしも
漢字の忘れようが酷い。日本の文字が出て来ないのはいかにも虚しい。
 七巡目の年男で84歳になり、他人(ひと)様からは「お元気ですね。しっか
りしておられる」などとお世辞を言われることも少なくない。

 実情は当の本人が一番よく知っている。今までは年男の弁として「如何に生
きるべきか」「如何に生きてきたか」で12年過ごしてきたが、今年から先は
「如何に逝くか」「どんな逝き方をするか」が命題となる。
 人や社会に貢献する能力の低下を自覚する時、「なぜ生きる」を問うことに
なる。今後は同輩、先輩、友人、知人の訃報が頻繁に知らされることになるが
全てを受け入れて我が身を処することになる。

 ピンピンコロリが理想だとすれば、処し方はただひとつ、「元気で長生きす
ること」に尽きる。百歳を過ぎれば長患いはしないだろう。となれば、「如何
に死ぬか」は「如何に生きるか」に等しい。
 健やかに生きることことだけを専心に考えれば良い。健康に留意し、自力で
健全に生き抜くことに他ならない。

 柄にもない言い草になったが独り身で迎えた正月はいかにも所在なしだった
が、悲観しても始まらない。苦楽も気の持ち様であろう。

       めでたさも 中くらいなり おらが春

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆ 3   眞子さまの結婚が提起する皇室問題第2弾       

          (東京都小金井市  上田 亨) 
 政府の有識者会議で論議されている「皇位継承問題」を第1弾とすれば、結
婚問題は第2弾である。皇室問題は「民主派」と「伝統派」の相克である。民
主派は天皇を民主憲法の下に機能する国家機関としての役割を負った人間と見
做す。伝統派は天皇を千数百年続いてきた伝統を引き継ぐ人間を超えた存在と
みなす。

◆ 眞子さま年内結婚へ・・・経緯と今後の予定
 お二人は「キャンパスでの恋」がみのり、17年9月に婚約が内定した。だが
同年12月に小室さんの母・佳代さんと元婚約者の「金銭トラブル」が報じられ
ると18年2月、結婚が延期になり、小室さんは18年8月に米国に留学する。
 秋篠宮さまは18年11月に「多くの国民が納得し、喜んでくれる状況にならな
ければ納采の儀を行うことはできない」と述べ、金銭問題について国民に説明
するよう求めた。

 20年11月にお二人は「結婚は2人が生きてゆくためには必要な選択」との文
書を公表し、強い結婚の意思を示す。21年4月に小室さんが金銭問題の経緯を
説明する文書を発表した。これで秋篠宮様と宮内庁への説明責任を果たす。
 小室さんは7月末にニューヨーク州の司法試験を終え、現地の法律事務所へ
の就職のメドが立った。結婚への環境は整ったが新型コロナウイルス禍の中で
儀式を行うのは難しいとの宮内庁の判断で結婚の再延期は必至となった。

 眞子さまは30歳の誕生日前の結婚を強く希望され、宮内庁もこれ以上の先延
ばしは困難と判断し、年内結婚で調整が進んだ。眞子さまは10月下旬に「婚姻
届け」を提出し、小室さんとニューヨークを拠点に新生活を始める予定だ。
 多くの障壁やトラブルを乗り越え、数々の誹謗中傷の嵐にもめげず、よくぞ
愛を貫かれた、心からお二人の門出を祝福したい。毎日新聞の世論調査結果で
はお二人の結婚を「祝福したい」が38%、「祝福できない」が35%という。

◆ 小室バッシング
 発端は秋篠宮家の親子ゲンカである。眞子さまが小室さんとの結婚を希望し
たことに対し、親である秋篠宮ご夫妻が破談を強く求めた。妹の佳子さまは姉
の眞子さまのご意志を一貫して支持された。
 秋篠宮ご夫妻の気持ちを忖度する皇室ジャーナリストが3年間、週刊誌、ネ
ット等を介して「頭がわるい」「詐欺師」「ジゴロ」「母子ともクズ」等罵
詈雑言の限りを尽くして小室叩きをし、眞子さまの翻意を期待した。

 バッシングの内容はこうだ。母親の元婚約者は母親に渡した400万円は貸金
で返せと言う。母親は譲渡金であり、返す必要はないという。元婚約者は最近
は返金不要としている。
 ただ、母親に会って感謝の言葉だけを欲しいと言う。ところが母親の弁護士
はトラブルの拡大を警戒して両者の話し合いをストップしている。
 皇室ジャーナリストの批判が続く。無能な小室は言葉巧みに眞子さまに近づ
き、結婚までこぎつけた。結婚したら税金を原資とする支度金1億5千万円が支
給される。この中から400万円を返済するつもりだ。親子ぐるみの詐欺師だと。

 小室氏はスーパーエリートである。米国の法律専門誌に英語の論文を投稿し
準優勝と高い評価を受けている。東大やハーバード大の学生でも論文を法律専
門誌に掲載される人は滅多にいないという。クズと言われるいわれはない。
 また、バッシングの期待とは裏腹に眞子さまの結婚の意志は一層固まる。眞
子さまは結婚に伴う諸行事は行わず、結婚支度金の支給も辞退される意向とい
う。

◆ 民主派の意見
・憲法24条、婚姻は両性の合意のみに基づくと規定している。秋篠宮ご夫妻が
 親であっても結婚に介入する権利はない。
・昨今、著名人の自死が相次いだことにより、ネット上では「誹謗中傷はいけ
 ない」といった機運が盛り上がっている。これを受けて上川法相の主催する
 法制審議会はネット上の誹謗中傷、名誉棄損などの侮辱罪に対し、懲役刑を
 導入する方針を固めた。
・今回の皇族ジャーナリストによる「小室バッシング」はいじめであり、侮辱
 罪の適用対象になる。このいじめに対し、宮内庁、言論界、法曹界はなぜ見
 て見ぬ振りをするのか。「ダブルスタンダード」だ。
・三笠宮様の意見書・・・昭和21年11月3日
 「市民社会が自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であっ
 て皇族は別だ」と言う意見に対して、「民主主義が肯定されている現代日本
 において、皇族にだけ市民社会に与えられている権利や尊厳が与えられない
 のは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである」と述べられている。

◆ 伝統派の意見
・皇室とは公的な存在であり、関係を持とうとする人には一定の品格が求めら
 れる。残念ながら、小室さん母子はその基準を満たしていない。
・儀式をすべて取りやめることは問題だ。皇室の存在意義は伝統を守ることに
 ある。世論や皇族の意思で儀式をやめてしまうと、その伝統はそれほど重要
 ではないと見られてしまう。長い目で見て皇室の屋台骨を揺るがすことにな
 るのではないか。

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