2014年8月まで朝日新聞を購読していた私は渡部昇一氏が本物の大学者であることを全く知らなかった。
朝日新聞を購読していた殆どの人も同様だったはずである。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
p223-p233
●日露戦争後、アメリカにとって日本は、やがて滅ぼすべき国となった
その後の歴史を見ると、日露戦争の勝利は、世界に大きく三つの変化をもたらした。
第一は、当時迫害されていた世界の有色民族のリーダーたちに独立の希望を初めて与えたこと。
これは第二次大戦を経て続々と独立を達成した国々のリーダーたちの言葉によって証明されている。
第二は、日本が世界的に大国として認知されたこと。
ロシアに勝利したことで、日本は押しも押されもせぬ強国になったといってよいだろう。
第三は、アメリカが日本を敵視するようになったこと。
日露戦争は日米戦争へと向かうきっかけとなったのである。
なぜアメリカが日本を敵視するようになったかといえば、アメリカは世界史をよく知っていたからである。
世界の歴史では、小さな陸軍あるいは弱小な陸軍が奇襲攻撃を用いたりして大きな陸軍に勝ったことはしばしばあった。
それは珍しいことでもないし、世界の大勢に影響を与えることもあまりない。
ところが、海上の戦いは文明の戦いであり、その勝敗が後の文明のあり方を決するのである。
古くは紀元前四八〇年に行われたサラミスの戦いである。
このときペルシャの海軍がアテネの海軍に滅ぼされ、ペルシャは地中海に出てこなくなった。
その後、イスラムが地中海に力を持つ中世の時代になるが、一五七一年のレパントの戦いでトルコ海軍がベニスやスペインの連合艦隊に大敗して、地中海はキリスト教の支配する海になる。
それから、植民地争奪戦の時代、一五八八年にイスパニアは無敵艦隊を失い、植民地競争からずり落ちる。
一八〇五年のトラファルガーの戦いでネルソンに負けたナポレオン、すなわちフランスは、植民地競争でイギリスに追い落とされてしまう。
そしてアメリカの独立を妨げようとしたイギリスは、アメリカ海軍を滅ぼすことができなかったために、ついに独立を認めざるを得なかった。
その後、アメリカは独立してスペインと戦い、スペイン海軍を打ち破ってカリフォルニアを含む南部のいくつかの州とフィリピンを手に入れる。
すべて海軍の戦いの勝敗で時代が大きく動いている。
それだけに、日本海海戦で日本の連合艦隊がロシア艦隊を撃破したとのニュースはアメリカに衝撃を与えた。
それまでは無視してもいいような小国で、むしろ同情さえしていた日本海軍がロシアの戦艦を何隻も沈め、自分のほうの軍艦は一隻も沈んでいない。
この結果にアメリカは恐怖を覚えたに違いない。
文明の変化が起こると感じたはずである。
また、日本の勝利はアメリカ建国の基盤が緩むということも意味していた。
アメリカにとって建国の基盤とは人種差別である。
もし本当にアメリカに人種差別の意識がなかったとしたら、インディアン(ネイティブ・アメリカン)から土地を取り上げることはできなかったはずである。
また、黒人を奴隷にして農業を発達させることもできないし、ヒスパニックを酷使して仕事をさせることもできなかっただろう。
ゆえにアメリカの建国の基盤には疑いなく人種差別があった。
ところが、アジアの片隅の有色人種が白人最大の帝国を海上の戦いで破った。
それを聞いたアメリカのいちばん奥の院にいて政治的な知識のある人々の間に、日本は滅ぼさなければならない国になったという合意ができたと思うのである。
それから日米間の亀裂は少しずつ広がっていくことになる。
まず明治三十八年(一九〇五)、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋でロシアとの間にポーツマス条約を締結した直後、アメリカの鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、南満洲鉄道の共同経営を申し入れてきた。
このとき、維新の元勲である伊藤博文や井上馨、あるいは渋沢栄一などは、この話に乗り気だった。
そういう人々の意見を聞いた桂太郎首相も、その線で行きましょうと、奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマンの仮協定を交した。
ハリマンは喜んで船に乗って帰っていった。
ところが、サンフランシスコに着いたら、「あの話はなかったことにしてくれ」という思いもよらぬ電報を受け取る。
ハリマンが船で太平洋を進んでいる間に、ポーツマス条約を締結して帰国した小村寿太郎が政府の意見をひっくり返してしまったのである。
日本が血を流して勝ち取った南満洲鉄道の権利なのにアメリカと共同経営するとはなんたることか、と。
ハリマンは怒った。これは当然であろう。そしてアメリカの財閥と政界は一致しているから、政界も怒ったのだろう。
その後間もなくして、カリフォルニア州において日本人の差別運動が起こった。
これは学童差別からはじまって、だんだんエスカレートしていった。
また、ポーツマス条約のときは、日本にどちらかといえば好意的であるように見えたセオドア・ルーズベルトも、日本をいい気にさせないようにということか、ホワイト・フリートといわれる大艦隊を日本に送り込んだ。
しかしこのとき、日本はアメリカの真意がわからず、かの艦隊を大歓迎しているのである。
●石炭から石油へ、エネルギー問題に敏感だった海軍と鈍感だった陸軍
日露戦争が終結して十年もたたないうちにヨーロッパで第一次世界大戦が起こる。
そして、このわずか十年ほどの間に、とてつもなく大きな変化が生じた。
それはエネルギーが石炭から石油に変わったということである。
白人世界、つまり西ヨーロッパが世界を支配するようになったのは産業革命以後のことといっていいだろう。
産業革命とは、簡単にいえば石炭の新しい使い方をイギリスが発見し、それを自然科学と結びつけた結果として生じたものといっていい。
日本の明治維新にも、石炭の問題が大きくかかわっている。
江戸幕府の中頃までは、外国船が日本にやって来るのを止めるのは簡単であった。
「来るな」といえばよかったのである。ところが幕末に黒船が来たときは止めることができなかった。
なぜならば黒船は石炭で動く全く新しい船で、幕府の警告など軽く聞き流すばどの圧倒的な力を持っていたからである。
明治維新にはいろいろな改革があったが、経済・工業の面においては石炭の使い方をマスターしたということが大きな変化であった。
幸いにも当時の日本には石炭が豊富にあったため、軍艦用に無煙炭を少し買うことはあったが、むしろ石炭については輸出国であった。
それが三井財閥などのできた一つの理由にもなった。
日露戦争は日本海海戦で終わったが、敵も味方も軍艦を動かすエネルギーは石炭であった。
つまり、日清・日露戦争に勝利した頃までは、日本はエネルギー問題を気にすることなく戦っていたと思われるのである。
ところが、それからわずか数年で風向きはがらりと変わった。
重油で動く軍艦が建造され、陸軍の華といわれていた騎兵に代わって戦車が登場した。
また全く新しい兵器として飛行機が現われた。
これらの新しい軍艦、戦車、飛行機等はすべて石油によって動くのである。
第一次大戦には日本の陸海軍から観戦武官として優秀な将校が出かけているが、彼らは戦い方の変化に愕然とする。
それについて書き残したものは数少ないのだが、その一つとして日本海海戦のときの参謀であった秋山真之の講演の記録が残っている。
そこで秋山真之は二つの重要なポイントを指摘しているのである。
第一に、日露戦争までは人間が主として戦争をしていたが、第一次大戦を見ると七割は機械が戦争をしている。
そしてその七割の機械を動かすのはすべて石油である。
第二に、フランスなどを訪ねてみると、男はみんな戦場に行って、鉄砲や砲弾をつくっているのは女性である。
それにもかかわらず、男の職人がつくっていたものと比べても質が劣っていない。
それほどまでに西洋では工場組織が進んでいる。
翻ってみると、日本には石油もなければ進んだ工場組織もない。
これは日本がもはや戦争のできない国になってしまったことを意味しているのである、というような趣旨の話を秋山は縷々述べている。
日露戦争以来、日本には帝国不敗という神話が成立していた。
そういう時期に、「日本はもはや先進国とは戦争ができない」ということは勇気のいることだったと思うが、秋山はそれを講演ではっきり指摘しているのである。
第一次大戦直後、西欧世界では軍縮が盛んにいわれるようになった。
日本も軍縮には賛成をし、1921年(大正10)にワシントンで開かれた第一次の軍縮会議には加藤友三郎や幣原喜重郎といった人たちを代表として派遣している。
この会議の結果、造りかけの軍艦を沈め、保有艦の数も減らすことになったが、とくに世論の反対もなくスムーズに行われた。
しかし、この会議の翌年に重大な世界史的事件が起こった。
第一次大戦中の1917年(大正6)に始まったロシア革命の結果、ロシアがソヴィエト社会主義共和国連邦という独立国になったのである。
これは全世界に大変な衝撃を与えた。
下層階級が国家をつくるという、それまでとは全く概念の違う国が出現したからである。
このソ連の誕生によってワシントン会議後の十年間で世界の雰囲気は一変した。
ソ連に対して軍備を調える必要が唱えられ、いつの間にか、どこの国も次の戦いに備えるという方向に進んでいくのである。
しかし、その一方で軍縮はさらに進み、1930年(昭和5)にはロンドンで海軍軍縮会議が開かれた。
このとき日本からは若槻礼次郎、加藤友三郎内閣で海軍大臣を務めた財部彪(たからべたけし)などが代表として出席し、軍縮案に賛成している。
ところが、国内では軍縮に反対する勢力が台頭してくるのである。
海軍の中に建艦派(艦隊派)といわれる一派が形成され、石油の問題を考慮する前に、とにかく艦船を造らなくてはならないと主張した。
この建艦派が条約を重んじて軍縮しようとする条約派を押さえこんで力を持つようになり、世論もこれに同調した。
石油がないのに船を造るというのはおかしな話だが、当時の人の頭には、まだ石油の問題が具体的なものとして浮かばなかっかようである。
また、秋山真之が指摘した体制のほうも変化していった。
秋山のいうように女性でも鉄砲がつくれるような工場組織をつくるためには、国全体の仕組みを変えて全体戦争に備えるような体制にしなければならないという考え方が起こってきたのである。
後にも述べるが、陸軍では永田鉄山をはじめとする統制派といわれる人たちが日本を国家社会主義の国に変えるための計画を水面下で着々と進めていた。
この永田は秀才として知られていたが、陸軍内で対立する皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭を目論んだとされ、それに反発した相沢三郎中佐によって暗殺されてしまう。
ここに統制派と皇道派の対立は最高点に達し、ついに皇道派の青年将校たちが決起して、二・二六事件を引き起こすのである。
この二・二六事件以降、統制派の流れをくむ東條英機らの陸軍が政府を支配するようになっていく。
陸軍は石油に対する関心が海軍ほど切実ではなく、むしろその関心は国の体制を変えるほうに向いていた。
日独伊三国同盟の話も陸軍から出て、陸軍が支持したものである。
これに対して海軍は、「石油のない国と同盟してはいけない」と反対するが、「石油がないと戦争はできない」とはいえなかった。
「毎年莫大な予算をもらっているのに戦争できないとは何事か」と糾弾されてしまうからである。
そのため、石油の有無は戦争にとって最重要問題であるとわかっていても、それがいえない状況にあった。
そして結局、陸軍に押し切られる形で三国同盟が成立するのである。
対米開戦が話し合われたときも、海軍は戦争ができないことはわかっていた。
しかし、そう主張する軍令部総長も海軍大臣もいなかった。彼らは「一、二年ならできる」とごまかしのようなことをいい、その結果、日本は対米戦争へ突入していくことになった。
このようにして日本は、石油の当てもないのに軍艦を造り、国全体としては国家社会主義に邁進し、ついに米英と対立して戦争を始めることになるのである。
以後の日本の運命は、すべてアメリカとの問題とともにあった。
アメリカも最初のうちはそれほど露骨には出てこなかった。
事実、第一次大戦のとき、日本は連合国の一員として戦っている。
だが、すでにそのときアメリカは日本と戦争をする決意を固めていたように思う。
余談だが、第一次大戦に負けたドイツ参謀本部のエーリヒ・ルーデンドルフが日清戦争後の三国干渉について、「あんなばかな話はなかった」といったという有名な話がある。
三国干渉などせずに遼東半島を日本の領地としておけば、日本との友好関係は保たれたはずだ。
ところが、日本に遼東半島を返還させ、山東半島をドイツの租借地にしたのはいいが、第一次大戦で連合国に加わった日本に負けたために、ドイツは結局アジアのすべての権益を失ってしまった、というわけである。
そしてこれ以降、ドイツは日本を憎むようになった。
日本を憎んでどうしたかというと、徹底的にシナに軍事援助を行うのである。
それから、これは日本の外交の失敗ともいわれるが、第一次大戦中の1915年に当時の大隈重信内閣が中華民国の袁世凱政府に対して21ヵ条の要求というものを申し入れたことがあった。
シナという国は条約を守らないので、きちんと履行するように、という内容だったのだが、本来は14ヵ条でよかったところに「第5号中国政府の顧問として日本人を雇川すること、その他」として余計な7ヵ条を付け加えてしまった。
これが非常に問題になったのである。
この部分については日本国内でも評判が悪く、議会の反対もあって、あとで撤回しているのだが、これが徹底的に反日運動に利用され、今でも日本が非常に悪いことをしたようにいわれているが、本来は、すでに締結した条約は守ってほしいということが主旨だったのである。