以下は、本日発売された週刊新潮の掉尾を飾る高山正之の連載コラムからである。
本論文も彼が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストであることを証明している。
掘墓鞭屍
日本の歴史学には日本史と支那史に西洋史しかない。その中間は語られない。
支那の王朝史は分厚く語られるが、長城の向こう側は往々無視される。
それは違うと岡田英弘は言った。
支那も含めたあの辺の歴史はむしろ長城の向こうが原点で、そこに興った民族が西に東に勢力を張って文化を生んだ。
彼らはたまに漢民族の地・中原に入り、例えば殷王朝を建て、青銅器文化をもたらした。
支那はむしろ文化的には辺境の地だった。
殷の次に西戎がきて周を建てた。
このとき支那人がちらり歴史に登場する。
司馬遷の「史記」が伝える呉王夫差や越王勾践だ。
呉の軍師、伍子胥の話も出てくる。彼は楚の平王に父を殺された。
その恨みを晴らすべく呉の軍勢を使って楚を攻め滅ぼす。
しかし平王はすでに身罷っていた。彼は王の墓を暴き、屍を引き出して「鞭打つこと300回」とある。
「史記」にはそういう非常識と奸計と誣告と残忍さが山とある。支那人の生き様がよく出ている。
そんな連中の争いだから結果はまた外来の東夷の秦に持っていかれる。
それでも無頼漢、劉邦が泰のあと、支那人として初の王朝を建てた。
ずっと外来王朝の奴隷だった支那人は喜び、王朝の名「漢」を自分たちの民族名とした。
彼らはそこで異民族はさて置いて漢民族を飾り立てた正史を書いた。
越王勾践と美人の西施を書き、劉邦を称える。司馬遷の「史記」と班固の「漢書」がそれだ。
ただ、永遠のはずの漢王朝はすぐ倒れ、またぞろ外来王朝が続く。
再び漢民族の王朝が立つのは1100年後の明まで待たねばならなかった。
自分の国の主にもなれないどころか奴隷にされる。悔しさをどう紛らわすか。そこは姑息の民だ。
ホントは何の文化もない、辺境の地だけど、ここを文化の中心地、世界の中心地と思い込もう。
その上で「夷狄は力こそあっても文化を持たない人間以下の存在」で、「漢民族は優れた人間で本当の文明を持つとする中華思想を生みだした」(岡田英弘『皇帝たちの中国』)。
岡田はそれを「自尊心を傷つけられた漢民族の病的な心理から出た悔し紛れの言い訳」(同)と言う。
そして今、漢民族としては明に次ぐ三度目の共産党王朝を樹立している。
習近平は「偉大な中華民族」という「言い訳」を繰り返すが、その中華民族が昔の「嘘つき漢民族」と変わらないことを周恩来が身をもって示している。
彼は毛沢東を30年支えながら、膀胱がんの治療も許されず憤死した。
遺言は一言「散骨しろ」だった。墓を作れば、現代の伍子胥が必ず出てくる。掘墓鞭屍の屈辱だけは御免蒙りたい。鄧小平も同じ。遺骨は海に撒かれた。
二人は今の支那人の虚言癖から誣告好きから残酷さまで、漢民族と名乗ったあのころから何の進歩もないことを確信していた。
外来民族の文化を「わが民族のもの」に改竄して恥じない習近平も「変わらぬ漢民族」を証明する。
驚くのはそんな支那人に迎合する日本人が多いことだ。
例えば偽りの歴史の創始者、司馬遷を崇めて「彼には遠く及ばない」という意味の名を名乗る者もいた。
ニトリの会長は「日本人の祖先は支那人」で「支那人の血を引くから知能が高い」(テーミス2月号)と言う。
「日本は支那なしで生きていけない」とも。
遺伝子はその説を嘘と証明しているし、支那人はいない方がむしろいい。
ウイグルのジェノサイドで名指し批判を避けた岸田文雄は「苦しいときに手を差し伸べてくれた」と東京タワーを赤く照らして春節の祝辞を送った。
支那は偽りの歴史を振り回して日本にたかり、日系企業の焼き討ちもやった。
国民の89%は彼らの意図を知り、嫌っている。
石原慎太郎も「支那で儲けようと思うな」と遺言したじゃないか。