家康殿、うむ。 関ヶ原の戦いの前哨戦は、石田光成の西軍に言わば完敗して伏見城は陥落したのじゃったよのぉ。 御意。
以下はウキペディアからじゃ。
養源院の寺名は浅井長政の院号から採られた。…文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政の供養のために秀吉に願って成伯法印(長政の従弟で比叡山の僧)を開山として創建。その後、元和5年(1619年)、火災により焼失する。元和7年(1621年)、徳川秀忠の正室・崇源院(江)の願により再興された。以後、徳川家の菩提所となった。
豊臣秀吉が病死したのは 慶長3年(1598年)であった。秀吉の正室である北政所(ねね、出家後は高台院湖月尼)は秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願し、当初は北政所の実母・朝日局が眠る康徳寺(京都の寺町にあった)をそれに充てようとしたが、手狭であったため、東山の現在地に新たな寺院を建立することになった。
秀吉没後の権力者となった徳川家康は、北政所を手厚く扱い、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命した。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂には直政の木像が祀られている。…ウィキペディアより。
全く、これはしたり。近日中に何が何でも行って参るぞ。…行ってじゃ、秀吉殿、ねね殿、そして貴殿を、心から偲びたいと思っておるのじゃ。
いやはや、全く、芥川殿は、「なんとかと何とかは紙一重」、の典型の様な人じゃのぉ。まさに、1.2億人の中に、おみゃーさんの様な粗忽者は、何処さぎゃーしても、おらせんぞ。(笑)
これは恥ずかしい話かも知れぬのじゃが…わしは、これまで、所謂、案内パンフレットの類は全く読まずに、とにかく自分の目で見尽くすと考えて、この4ヶ月間に40回超の京都行を為して来たのじゃが。
昨年錦秋に、ニュース・ステーションが源光庵を生中継した時に血天井の話をしていたのじゃが、わしは何故か皿天井とどっちなんだろう等と考えておったのじゃよ。1月30日に強烈に秀吉殿を感じた時に、これまた何故か、この事が蘇って来たのじゃ。
それでネットで調べている内に、近々に、或る寺に行かなければと思ったのじゃ。問題は、その流れでじゃ、高台寺に調査が向かった時なのじゃ…わしは、この寺の前は何度も通っているし、内、2回は境内に入ったのじゃが、一回はトイレを借りた。もう一回は、入口に在る土産物屋でゴマ餡の八橋を土産に買っただけで、一度も中に入らなかったのじゃ。 あいやー。これはしたり。
わしは、勝手に此処が維新の志士達の墓の在る場所と決め込んでいてのぉ、そんなもの観てもしゃーない、つまらん、と決め込んでおったのじゃ。 あちゃー。
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/syoubougenzou.htm さんの労作から、以下を引用します。黒字は芥川。
「不立文字」(ふりょうもんじ)とは、文字や言葉を伝えるものではなく、「行」のありかたを伝えるべきとして示されます。「以心伝心」の仏法とは、釈尊の仏法に還り、釈尊の仏法の心髄ををそのまま今日に伝えるという意味です。
「不立文字」の仏法を伝える いろいろな説話があります。その代表的な話しです ・・・ ある日のこと、釈尊は霊鷲山(りょうじゅせん-古代インドのマガダ国の首都、王舎城郊外にある小高い山)の山頂で説法の座に着かれました。でも説法を慕って集まった大衆に向かって釈尊は一言も語らず、ただ黙って一輪の金波羅華(こんぱらげ)を目の前にささげ拈(ひね)って微笑まれたのです。それがどういうことなのか理解できずに呆然としている人々の中で、摩訶迦葉という弟子だけがにっこりと微笑したのです。 すると、釈尊は「私の悟りの内容は、言葉では表現できないものである。その正法眼蔵を今摩訶迦葉に伝えた」といわれたということです。言葉に示すことの難しいところを、拈華微笑として表現されているのは誠に意味深いことだと思います。
生い立ち等、伝説が多く、諸説ある。
彼の諸説あるうちの一つによれば、マガダ国の王舎城付近の摩訶波羅陀(マハーハーダラ)村のバラモンである尼拘律陀羯波(ニグローダ・ゴーパ)の子で、畢鉢羅樹(ピッパラ=菩提樹)の下で生まれたので、幼名を畢鉢羅耶那(ピッパラヤナ、ピッパリ)といった。
八歳でバラモンに入門し修行してすべてを得たが、さらに出家して求道したいと考えていた。二十歳の頃に家系が途絶えるのを恐れた両親は、彼に結婚をすすめたが、清浄な生活を送りたいと一度断るも断りきれず、彼は工巧に金の美しい女人像を造らせて、これと同じならばその人と結婚しようと条件を出した。困った両親は八人のバラモンに探すように頼んだ。
彼らがマッダ国のサーガラ川岸の沐浴場で像を載せた台車を置いて休んでいた所、跋陀羅迦毘羅耶(バッダー、バドラー・カピラーニ、漢訳で妙賢)の乳母が、その像を見て彼女と見間違えたことから縁談がまとまった。しかし彼女はまだ十六歳で、彼女自身も出家したいと考えていたので、迦葉も彼女も使者に手紙を遣わして結婚を断るように要請したが、お互いの使者が道で出会い、後々の事を考え破り捨てた。
迦葉は浮浪者に身をやつして彼女の家に行き、互いに同じ出家の意志がある事を確認すると、それを承知の上で結婚した。彼らは床も離れて寝たので12年間、子供もなく過ごしたが、迦葉の両親が亡くなったある日、畑仕事を見ていて土中から出てきた虫が鳥に食べられる光景を目撃し、世の無常を感じた。彼女も同じく胡麻を乾燥していると多くの虫がおり、このまま油を絞ると殺生すると思い、共に出家を決意した。
多くの人が引き止める中、剃髪して粗衣に着替え鉢を持って出家したが、ある分かれ道でこのままでは私情に流されるとして、迦葉は右へ、彼女は左へと分かれたという。
迦葉は出家してもバラモンの修行をしていたが、王舎城と那茶陀(ナーダダ)村の間にある一本のニグローダ樹下に坐していた釈迦と出会い、ついに仏弟子となり名前を正式に迦葉と改め竹林精舎に到った。
仏陀に入門したとき、すでに32相中、7相を具えていたとされ、8日目に阿羅漢となったと伝えられる。
摩訶迦葉、摩訶迦葉波、迦葉、迦葉波とも呼ばれる。なお迦葉は古代インドではありふれた名であったといわれ、仏弟子中には三迦葉という三人兄弟や十力迦葉という名前も見受けられるが、摩訶迦葉とは別人である。
名称の意味は「祇陀(ジェータ)太子の森(Jetavana)」と、「身寄りのない者に施しをする(Anathapindada)」という言葉を並置した物であり、以下の由来による。
インドのシュラーヴァスティーにスダッタ(須達多)という、身寄りのない者を憐れんで食事を給していたため、人々から「給孤独者(anathapindada)」と呼ばれていた富豪がいた。
ある日、スダッタは釈迦の説法を聞いてこれに帰依し、彼に説法のための寺院を寄付しようと思い立った。
そして見つかった土地が、ジェータ太子の所有する森林であった。その土地の譲渡を望むスダッタに対して、ジェータ太子が「必要な土地の表面を金貨で敷き詰めたら譲ってやろう」と戯れで言った。しかしスダッタが本当に金貨を敷き詰め始めたため、ジェータ太子は驚いて、そのまま土地を譲渡し更に自らも樹木を寄付して、寺院建設を援助した。
これ故、この僧園はジェータ太子と給孤独者スダッタ両者の名を冠して祇樹給孤独園と呼ばれ、そこに建てられた精舎を祇樹給孤独園精舎と称するようになった。…ウィキペディアより。
『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰(じょうじゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、唯(ただ)春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ』
出自不明の習合神牛頭天王は、祇園精舎の守護神とされる。そのため、牛頭天王は別名「祇園天神」と称す。祇園天神を祀る神社を祇園神社(八坂神社が一般的。天王神社などとも)という。八坂神社の祭礼を祇園祭という。総本社の京都八坂神社の門前町祇園は、花街として有名である。…ウィキペディアより。
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)、正式名称祇樹給孤独園 精舎(ぎじゅぎっこどくおん しょうじゃ、サンスクリット:Jetavana
Anathapindadasya-arama)は、中インドのシュラーヴァスティー(舎衛城)にあった寺院で、釈迦が説法を行ったとされる場所。天竺五精舎(釈迦在世にあった5つの寺院)の一つ。
江戸幕府三代将軍・徳川家光は、長崎のオランダ語の通訳・島野兼了に仏教の聖地「祇園精舎」の視察を命じている。
その頃カンボジアのプノンペンの日本人町の人達は、アンコール・ワットが祇園精舎であると誤認していた為、その誤った情報が日本にも伝えられ、大勢の日本人が祇園精舎の参詣としてアンコール・ワットへ出かけていた。
島野兼了もその誤った情報により、そこが天竺(インド)の「祇園精舎」であると思い込んだままアンコール・ワットを視察し、一枚の「見取図」を作成した。
それが当時の長崎奉行・藤原忠義によって正徳5年(1715)に模写され、その後所有者の変遷はあったものの『祇園精舎図』と題された古地図は、今も彰考館(茨城県・水戸市)に保存されている。
明治末期になって、建築史学者の伊東忠太がこの見取図を鑑定した結果、全体構造から推してアンコール・ワットの見取図であることが判明した。…ウィキペディアより。
…前略
1月24日から開幕した通常国会は、のっけから大荒れの気配が漂った。たちあがれ日本を離脱し、経済財政相として入閣した与謝野馨氏が登壇すると、野党のみならず与党からも、「変節漢!」「議員を辞めろ!」などとヤジが飛び、不穏な空気が議場に充満した。
与謝野氏を一本釣りしたのは、「三顧の礼で迎えた」とまで言い切った首相自身だ。ところが、党の内外から非難の声が上がっていると聞いた首相は、「だって、オレが決めたんじゃないんだけどな」と、耳を疑う愚痴をこぽしたという。与謝野氏の入閣には、財政再建論者の大手マスコミ幹部ら、複数の人間の推薦があったと言われる。つまり首相にしてみれば、「やれって言われたからやったのに」という、驚くべきことに被害者の気分なのだ。
しかし、組閣まで「オレのせいじゃない」と言い訳する総理など、見たことも聞いたこともない。菅首相の、"保身術"は、もはや常軌を逸している。
…後略
以上は、今週号の「週刊現代」からの超抜粋、引用です…昨日、編集部に了解を頂いています。
…前略
まるで連合赤軍
菅政権の中に、「粛清」の嵐が吹き荒れている。民主党の小沢グループ中堅議員の一人がこう漏らす。「これが菅さんや仙谷さんの本性です。自分たちの身が危険に晒されれば、たとえ仲間でも容赦なく。"総括"し、粛清する。みんな陰で囁いています。『典型的な左翼の発想じゃないか。まるで連合赤軍みたいだ』つて」
…中略
民主党議員は、菅首相や仙谷由人代表代行ら、現執行部の容赦ない「粛清」に対し、たとえ中間派の議員であっても、うすら寒い思いを抱いている。「菅政権がやっていることは、まさに、かつての極左過激派集団の手法です」そう語るのは、「あさま山荘事件」の際、警察の現場部隊を指揮した佐々淳行氏(初代内閣安全保障室長)である。
「私は警察庁時代、機動隊を指揮して、菅首相の母校・東京工業大学に出動したことが3回あります。菅さんは当時、東工大の闘争委員長でした。あの当時、菅さんはいつもデモ隊の4列目にいた。私たちは、暴れる学生を3列目まで取り押さえましたが、4列目の菅さんは、いつもうまく逃げていた。私はその光景をよく覚えています」
"逃げ菅"、"ズル菅"と、総理就任後の半年間ですっかりその保身家ぶりが定着した菅首相だが、「仲間を切り捨て、自分だけは助かる」という行動原理は、40年以上も前から。"筋金入り"だったということだ。
「仙谷氏にしても、60年代に彼が属していた集団は、警察の監視対象にすらならない小さなものでしたが、彼は同志から『自分たちが捕まったら弁護してくれ』と言われ弁護士になった。
その同志たちは実際に警察に逮捕され、その後の人生が完全に狂ってしまった。取り締まった側の警察官も、重傷を負っていまだ後遺症に苦しんでいる人たちがいる。でも仙谷氏は、そんな彼らに対し、まるで無関心のようです」(同)
…以下略。
同時に、現代人の庭ではないことも痛切に思った。…本当の意味で常在戦場の中を切り抜けてきた、家臣や領地の民衆を抱えて=その生存を=終に、この国の統治者に成った信長秀吉殿の心がどんなものであったかを、あの庭は一瞥で、芥川に教えてくれたのじゃ。
さらに話は変わるのじゃが、家康殿は、石川丈山と本阿弥光悦を、言わば密使として京の入口に配置しておったのではござらぬか。 うむ。
豊臣氏と戦うことに成ってまで統一した天下…もうこれ以上の戦乱は終わりだと、…完全にピリオドを打ったのに、…またぞろ、朝廷に取り入って内乱を企てるような大名が現れない様に、京の東と北に、ただものではない者たちを配置したと読む歴史家がいるが、…わしも同感しておるのじゃ。 うむむ。
そもそも為政者とは、国の隅々まで目を凝らし、直接訪れ、民の暮らしを知り、諸外国の動静に対して間違いのないアンテナを張り続ける…国の備えも怠らない。そういうものではなかろうか。家康殿。 御意。
小沢一郎の秘書軍団が、民主党候補の当選=民主党の大躍進に大きな力を発揮したのは衆知の事実。
話は変わるのじゃが、家康殿よ。 うむ。 秀吉殿は、正に類稀なる個性の持ち主、いな、偉人だったと言っても全く過言ではないことを、わしは醍醐寺・三宝院の秀吉殿が設計した庭を見て即座に思ったのじゃ…特に、池のない方の庭じゃった…あれは、ただものに作れる庭ではない。…秀吉はただものではない、と。(笑) そりゃ、そうだぎゃ、芥川殿、ただものが天下人に成れるわけはなか。
わっはっはっ。はっはっはっ。今の日本とはそこが全く違うようじゃがのぉ。