『イデオロギーとユートピア』 毒書会覚書3

2023-04-02 11:30:00 | 本関係

「別の極に分かれているというだけで、じつは同じ世界を代表しているにすぎない党派同士の抗争は、それほど徹底したものではなかったし、同じ王朝と王朝、貴族と貴族同士の闘いは、それほど徹底的な破壊にまで行きつくことはありえなかった。それにたいして近代社会では、社会的に決定的に分裂した二つの極が、根本的に異なった世界意志によって支えられている。だからこそ、精神の次元で、これほどの闘いの深化と解体とが可能になったのである。ますます先鋭化の度を深めていくこの解体過程を通じて、素朴な不信感はまず、前に述べたような、意識的に方法として適用されてはいるものの、まだ心理学的平面にとどまっている部分的イデオロギー概念に転化し、やがてはついに、精神論ー認識論的平面へ移行していくことになった。」(106P)

 


この部分の直後に市民階級とプロレタリアートの話が続くことから、「極」はもちろん資本家階級と労働者階級を指すと想定できるわけだが、もちろんそこから「資本主義と共産主義」、「信仰と無宗教」、「民族社会主義(ファシズム)とコスモポリタニズム」といった対立軸を想定することもできる(例えばヴァイマル共和国において、カトリックの中央党が宗教否定の共産主義との対立から、ナチ党に接近するような状況を思い出してみるのもよい。とはいえ、例えばアメリカは1920年代にフォード式のもと資本主義の繁栄を謳歌しながら、同時に排外主義や差別も強かった点など、図式的な理解になりすぎないよう注意は必要)。

 

今やこの状況はさらに多極化しているが、ここにAIというものへの態度によって大きな対立軸と分断が生まれる可能性を指摘したい。それは(労働と人間性などを含む)単に技術や便利さの問題だけでなく、今のグローバリゼーションが生み出す格差拡大の中で、近代民主主義的なリベラリズム(いやリバタリアンもか)を称揚するなら、言わば「~への自由」(センの言うケイパビリティ)が大きく制限され、困窮やルサンチマンの中に生きる人々を包摂するにあたり、単に人道的な意味合いだけでなく、「生ー権力」つまり社会を安定的に維持するというアーキテクチャ構築の視点からも、「AIを生身の人間のオルタナティブとして認めるか否か」は極めて重要な問題となりうる、と私は思うのである(コスパ重視の思考もその傾向を加速させる。もちろんルターとエラスムスの論争にもあったような、「自由意思」の問題も等閑視できないが←アルゴリズム検索と自由意思、あるいはその帰責性)。


重要なことは、SF的世界観にありがちな「全てがシフトチェンジする」のではなく、未だ一部の国では中絶の合法化の是非が議論されていたりするように、それを肯定する人間と否定する人間が出てきて社会のモザイク化が進む、ということだ(だから新しい技術から距離を置けばそれで済むという問題ではない)。

 

肯定するのにはリバタリアン的な価値観もあれば、「ガス抜き」つまり一種の「必要悪」として導入することを認める者もおり、否定する側についても、それを人間の家族形成を本源的な行為とみなす視点から非人間的と評する人もいれば、一種の阿片の代用として抑圧装置と化すことを非難する人もいるだろう(まあ否定する場合、「では逃れがたいルサンチマンを社会的にどう手当てするのか?」という問題が必然的に惹起するわけだが→その一つの短絡的な答えが新反動主義)。さらに、これがパブリックなレベルとプライベートなレベルでも分岐する(リベラルアイロニズム)。


こうして社会のモザイク化がさらに進む結果、(某メンタリストではないが)遠い世界の困窮より近い世界の猫を大事にするような仕方で、さらに人間同志の関係性は共通前提を失い、よりいっそう従来型の民主主義社会は存続が難しくなっていくのではないだろうか。

 

まあそんな兆候は、すでにポストトゥルースやらオルタナティブファクト、あるいらそのような言説の背景の一つでもあるサイバーカスケードとエコーチェンバー効果でかなり可視化されてはいるのだけど。

 

ところで、マンハイムは客観的世界認識(中世)→一般的主観による世界認識(カント的なるもの。言わば間主観性)→歴史意識(ヘーゲルや歴史学派)といういう流れで説明している。これを「全体的イデオロギー」という表現の仕方をしていることから、それは「知のパラダイム」と言い換えることができるが、このような流れからは、思想の背景を分析する知識社会学という視点が必然的に生じてくる、という展開なのだろう。

 

しかし、こういった理解にはいささか疑問の余地がある。というのは、デリダも指摘しているように、そもそも「西洋哲学」に限定したとしても、そこにはプラトンーアリストテレスという二つの対立軸(前提)があり、前者は確かに普遍的・演繹的であるが、後者は個別具体的・帰納的であって、それを「客観的世界認識」とすることはできないだろう(例えば国の形態一つとっても、前者は『国家』という形で国の理想形一般を論じたのに対し、後者は『アテナイ人の国政』という形によりあくまで一つのパターンとして著述したのである)。

 

なるほど確かに「中世」という世界をキリスト教が覆っており、それを近代以降の対立軸として持ち出すのは話としてわかりやすいが、この部分はやはりいささか単純化しすぎという誹りを免れないだろう。12世紀ルネサンス、普遍論争、ロジャー・ベーコン、マイスター・エックハルト、ウィリアム・オッカム、ピエール・ダイイetc...


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