自己責任論が蔓延る理由・ビスマルクの政策意図・連帯の不可能性

2023-03-06 11:56:56 | 歴史系

最近書いた記事の補足。

 

1.自己責任論が蔓延る理由とその危険性

「自己責任」とは非常にわかりやすくて便利な言葉である。というのも、当人の意思が全く介在していないケースは少なく、ゆえに外部の人間には何となくそれらしく聞こえてしまうし、またそうやって簡単に問題(相手と自分)をシャットアウトすることができてしまうからだ・・・とか何とか言っていると、またぞろまだるっこしい話になるので、いくつか参考になる文献を挙げてみた。

・マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房)
・橋本健二『新・日本の階級社会』(講談社現代新書)
・ジャン・ロティール『良き社会のための経済学』(日本経済新聞出版社)
・國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)

 

どれも自己責任論とその問題点を考えるのに有益だが、特に日本のそれを考える場合には、まず橋本健二のものを読むのがわかりやすいだろう。データを用いて日本人の階層意識や格差肯定・否定の変化を炙り出すだけでなく、自己責任論がどうして危険性を持ちうるのか(言い換えれば、しばしば思考停止の正当化であるのにそれがもっともらしく聞こえるのか)を端的に説明しており、取っ掛かりとしてよいだろう。

 

その上で、その自己責任の概念が本質的には世界理解のレベルまで及ぶことを述べたのがサンデルの著作で、またそういった観念の国際比較や現実の政策としてどうあるべきかを述べたのがロティールの仕事だと大まかには言えると思う。なお、サンデルのような視座をもう少し抽象化・原理化すると、最後に挙げた國分功一郎の本になるが、そこでは自由意思とそれへの認識の変化、またそれに基づいた帰責性の問題について書かれている(この自由意思に関しては毒書会の覚書として別の機会に書く予定)。

 

他にも、神を軸にした人間の必謬性の意識(宗教的バックグラウンドの有無)、狭いコミュニティ意識(ムラ社会的なメンタリティ)と社会の複雑性への無知etc...といったことも考えられるが、ここでは深くは触れない。

 

 

2.ビスマルクの政策についての言及

「社会保険や国民年金の整備によって社会主義運動に大きな打撃を与えたビスマルクに学べ」と二度ほど書いたが、これも若干の誤解を招きそうなので補足しておく。これを書いたのは、「ビスマルクは弱者に優しいからそういう政策をやったのではなく、社会を機能的に回すための戦略的措置として行ったのですよ」という話で、要は「同情できる・できない」をそのまま社会政策に直結させるのは無能のやることではありませんか?と言っているのである(ま、そう書いてはいるものの、実はそれが一般大衆にはスゲー重要な判断ポイントにどうしてもなりがちなんだよね、と述べたのが「『共感』という病」について触れた記事。ちなみにこれはとある二つの誘拐事件とその報道のされ方の違いという視点でもいずれ書いてみようと思っている)。

 

ちなみにマルクスは、政府のやる社会福祉に飼いならされるな!的なことを言って運動の継続を鼓舞したりもしていて、それが政権の戦略的措置であることを理解していた人もいたと補足しておきたい(なお、マンハイムの『イデオロギーとユートピア』絡みで近日中に書くかもしれないが、マンハイムが1929年にそれを著した頃の世界情勢にはロシア革命も深く影響しており、漸進的社会主義の社会民主党が、ミュンヘン一揆を行ったナチスのような右派や、スパルタクス団のような左派の動静に振り回されながら、シュトレーゼマンの辣腕などもあって何とか政権を運営していたのがヴァイマル共和国であった)。

 

で、次に社会主義運動の話。
私は現在の日本においては当時のドイツで見られたような運動はもちろん、共産主義革命など起こりようがないと考えている(もちろん何事も100%とは言えないが)。その理由は、こちらも度々書いていることだが、「孤立化が進んでいて理念もバラバラなので、連帯のしようがないから」である。このことは、今の日本で自殺が増え、また「無敵の人」による拡大自殺=ローンウルフ型の犯罪しか目立たないことを想起すれば十分だろう(そしてその最たる例が、安倍晋三を暗殺した山上徹也である)。

 

逆に言えば、大きなうねりは生まれないがゆえに、既存の仕組みを変える潮流とはならず、ズルズルと誤魔化しながら(マイナーチェンジをくり返しやってる風は出しながら)今のシステムで続けていくことになると予測している。これが、日本社会について「半世紀は大きな変化は無理」「膵臓がんのような激痛を味わい続けることになる」と私が言う理由である(ちなみに自己責任論は、若者に対して指摘されるゼロリスク志向なども相まって、既存システムへのしがみつきを促進してむしろ社会変化を阻害する可能性が高いと申し添えておきたい)。

 

まあ念のために言っておくと、世を騒がせたフランスの「黄色いベスト運動」などは結局どのような益をもたらしか不明であるし、「民衆の運動=絶対善=善き方向に社会を変える」ような発想は歴史的無知にも程があるというものだが、とはいえそのような現象からは、Iain Maclean and Rida Laraki “What does Brexit mean? ’Majority judgement’ can solve the puzzle,” のような問いや提案が生まれるのも事実だ(とはいえ、「AIの進化」と「人間の劣化」というテーマでしばしば述べているように、ここからさらに社会のリゾーム化が進むと、「そもそもなんでこいつと同じ社会を形成して同じ基準で投票し、さらにその社会的決定に服さなければならないのか」という問いがさらに前景化し、民主主義の継続自体が危うくなる可能性はすでに現在でも観察されている。まあ不完全で必謬性を負った人間が、その決定に従えるのかという問題もあるのでそう話は簡単ではないのだけど)。そして問いが生まれて(個人や狭い共同体は別として)社会レベルに影響を与える可能性が今の日本には皆無と言っていい、という話である。

 

 

というわけで以上。「合理的選択と就活・婚活」という話も書こうと思ったが、結構な分量になったのでこちらは稿を改めることにしたい。


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