「生身のネコを飼いたいのなら、金持ちになりたまえ」

2022-08-22 11:48:48 | 生活

 

 

道端でネコを見かけると時間が停止してつい戯れたくなるワイにとって、ネコ自身になってネコと戯れたり、世界を探検する「Stray」の破壊力は相当なものである(*´ω`*)ポロリにとって天敵なはずのネコを見続けてホッコリするなんて、病膏肓に入るとはこのことだろう(。∀ ゜)きっと俺の遺言は、「ねこ☆かわ」であるに違いない・・・

 

「拡張現実と熟議型民主主義の黄昏」なんて話をしたかと思えばいきなりネッキー大好き発言かい!と思われた方がいるかもしれないが、これはお堅い話の次に柔らかい話でバランスを取ろうとか、まして人気を取ろうとか画策してる(笑)わけではなく、「多様化・複雑化の中で人間関係の難易度が上がり、実りを感じにくくなる」+「大量消費とコスパ志向の蔓延」+「技術革新が進んでそこに耽溺する快適さが増していく」→「もうbotでええやん的発想の人間が増える」という話は、さすがに図式的過ぎ&飛躍しているように思えるやろうから、一つのたとえ話としてネコの事例を持ち出してみたということですワ。

 

さて、猫をペットとして飼うには、当然お金がかかる。「好き=飼う」と短絡させると、多頭飼育崩壊はもちろん、一匹でも適切な住環境を用意することができなくなり、人間・動物とも不幸になってしまうわけで、当然経済環境はペットを買い控える要因となる。だとするならば、収入が現状維持もしくは減少し、一方で税金が上がって物価が高くなれば、当然猫を飼える余裕のある人の割合は減る(要するに、中間層が崩壊しアンダークラスが増加する影響。誤解を恐れずに言えば、これは結婚や出産も同じだ。「人間はつがいを見つけて子を設ける=自然」という固定観念にも似た規範意識が論理的思考を妨げるかもしれないが、生活をともにする以上は経済的要素が一切関係ないというケースがむしろ特殊なのである)。

 

そこに例えば、動物の保護のような要素が絡んでくるとどうなるだろうか?なるほど「ペットを飼う=絶対悪=法規制」というのはさすがに飛躍しすぎであり、そういう発想の人間が一定数出てきたとしても、それがすぐに社会通念となることはないだろう。とはいうものの、飼い主に条件が設けられたり、それが厳しくなることは十分にありうる。その結果として、資本主義的発想で大量に「在庫」を用意せねばならないペット業者は大幅な規制を受け(殺処分を必然的に生み出す仕組みなので)、里親制度のような形で経済状況や生活状況といった厳しい条件をクリアしなければそもそもペットを譲り受けることができないような仕組みになるとしたらどうだろうか(日本の里親制度においては、現状でもすでにそれなりの厳しい要件が課されている)?

 

それはすなわち、表題にもあるような「ネコを飼いたいなら、金持ちになりたまえ(ギゾー並感)」という状態を実質的に作り出すわけだが、その際に生身のネコという選択肢しかないのならともかく、「Stray」で見られるような拡張現実、すなわちメタバース空間で猫と戯れたり、猫になったりできるようになれば、そちらに流れる人間が増えていくのは驚くべきことではない(まあペット云々で「革命」が起きるとは思えないし)。

 

つまりこういうことだ。生身の猫を飼うには極めてハードルが高い。それでも猫をペットとして求める人はいなくならないが、それを実現できる人の割合は減る。さらに、それと並行して現実という天然モノの養殖=オルタナティブでしかなかった(メタバースなど)拡張現実の質が、徐々に上がっていく。ならばそちらで代替しようという人間の割合が増えるのは必定ではないか?そしてこういう論理構築がなされる。「医療費やエサ代がかからないのはもちろん、家具も破壊しないし、事故で死ぬ心配もないし、子猫を産んだらどうしよう・・・なんて懸念をする必要もない。メタバース空間で子猫が生まれれば、楽しめる範囲がただ広がるだけである。生身の猫を飼うと付きまとう『ノイズ』を一切引き受けなくてよいし、動物の権利を抑制することもないのに、どうして苦労して生身のペットを求める必要があるのか!」と。

 

「金持ちになりたまえ、生身の猫を飼いたいのなら」とある者は言い、またある者は「ペットが死んで哀しい?だったら始めからメタバースでネコ飼えばいいじゃん」と言う(まあ「電脳コイル」じゃないけど、拡張現実内の存在が必ずしも不死とは限らないが)。どちらも他人への想像力が欠落した「戦争」しか生まない発言だが、こうしてペットを飼うという点について、深刻な価値観の分断と対立が生じるわけである(今のような資本主義社会の仕組みが続いたとすれば、こういった形の分断はペットに限らずアンチエイジング=所得が目に見える形で寿命に影響するなど、様々な分野でも起こると思われる)。

 

・・・とまあいう感じで猫とペットを題材にあれこれ想像を巡らせてみたが、重要なのは、「生身のペットじゃなくていい」といった価値観の変化単体によるものではなく、経済や社会通念、制度設計(の変化)といった複合的要素の組み合わせにより、社会全体ではなく部分的で、かつ0-100のような形ではなく漸進的に変化していくのではないか、ということだ(例えば価値観の変化は、経済的に生身のペットが飼えなくなった環境に順応・正当化するためのロジックとして事後的に形成されるかもしれない)。

 

どうしても耳目を引くのはシンギュラリティのような話だし、あるいは作品で触れるのは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『順列都市』のようなすでに変化した後の世界なので、その過程がどのようなものであるかはあまり想像する機会がないかもしれないが、先に触れたような生身のペットを飼いにくくなる要件などは、割とありえる話に思えるのだがどうだろうか(もちろん、中間的存在として、束縛の厳しくない生身の存在に触れあう機会として動物園やら猫カフェがあるわけで、これも0-100で語りすぎるのはミスリーディングだろう)。

 

そしてこういった変化が、人間同士の関係性にも及ぶという話である。まあ「セックスはもはや贅沢品」というのは現段階でいささか極論にしても、そういう傾向(そうせざるをえない要因)が進展して、それがさらに様々な変化を社会に及ぼしていくことは十分ありえるだろう、と書いたところでこの稿を終えることとしたい。


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