「陽キャ」・「陰キャ」カテゴリーのバカバカしさ

2023-01-28 11:16:16 | 生活
昨日は「小森めと」というVtuberの事務所移籍について触れたが、配信からは、普段底抜けに明るく見える小森めとにも様々な苦悩や葛藤が長らく存在し、また今回の移籍を決断・発表することに際してもヘイトを買うことへの強い恐れがあったことがうかがえる。
 
 
ところで、私が「陽キャ」や「陰キャ」という言葉をこのブログでも日常生活でも使わないし、もっと言えばそれらを嫌っているのは、その言葉が自己や他者を過剰に単純化しているからだ。
 
 
例えば同じ774inc.の「宗谷いちか」については、その豪快な笑いやイージーゴーイングな雰囲気からいかにも「陽キャ」の典型に見えるかもしれないが、ストレスなどのために大きく体重を落とし、ソロ所属になる話はその時に出たと自分でも述べている(2022年にソロ所属になった時と違い、とにかく「あにまーれ」から切り離して活動するという応急処置的な意味が強かったらしいが)。
 
 
あるいはホロライブの中でもその明るさがわかりやすい「大空スバル」というVtuberは、周りからしばしば「陽キャ」と言われるが、それに対してしばしば否定的な反応を見せている。これはその言葉にどのような意味合いを込めているかが周囲と彼女で違っていることが大きいと予測するが、要するに周囲は「明るい人」ぐらいのニュアンスで、スバル自身は「何も考えずに明るいだけ」という言葉だと理解していると思われる(ただし、前者にも「何も考えず」の含みが時と場合によってはあるだろうが)。要は、言葉のカテゴリーがあまりに曖昧なのに加え、それは大空スバルが明るいながらもその発言が周囲の状況観察と言葉選びに裏打ちされていることを等閑視するものとなっており、それをスバル自身が否定しているという状況だろう(大空スバルのキャラクター性は、自身が話している就学前・小学校・中学校の体験でかなり説明ができるように思えるが、それはまた別の機会に)。
 
 
以上要するに、「陽キャ」というカテゴリーもその対概念としての「陰キャ」というカテゴリーも、人を二項志向の中に無理やり単純化して押し込める極めて乱暴な言葉であると言う事ができるだろう。さらに言えば、Vtuberという演者がいわば「仕事」である(完全な素ではあり得ない)という要素も見逃すことができない。例えば飲食店でニコニコ接客している店員がいたとしよう。それはその当該の店員が根っからの明るい人で、常に笑顔でいることを意味するのだろうか?もし仮にそう認識しているのだとしたら、恐るべきナイーブさである(こういう発想は、「お笑いをやっている人間はプライベートでもそのようなパーソナリティだ」と錯覚するのとも似ている)。
 
 
人間というものは、笑顔でいたのに突如失踪したり自殺したりして、その時に初めて「そんなことをするようには見えなかった」などと言われることが少なくない。要するにそれは、他人を理解できているはずだという思い込んでいるなのだ。いや、他者認識だけではない。人は自分ですら気づかぬうちに心身のダメージを蓄積させ、ある日突然起き上がれなくなることもある。以前書いた「六不治」にも通ずるが、自分のことは理解できている(から大丈夫)という認識もまた、しばしば思い込みに過ぎないと言えよう(私がよく言う「人間を信用していない」という言葉は、こういう意味合いを含んでいる)。
 
 
以上が、「陽キャ」・「陰キャ」という言葉を人間の複雑性を暴力的に単純化するものとして、「共感」と並んで私が使う気になれない理由である。なお、馬鹿げた党派的思考=レッテル張り民族差別とも親和性があるとともに、こういう思考様式は複雑性・多様性と分断が進んでいく社会においてはますます深刻化していくであろうと述べつつ、この稿を終えたい。

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