なぜ「共感」の称揚は危険なのか?:ムラ社会的メンタリティの中では排除を促進・正当化するだけ

2022-01-14 12:10:00 | 生活

ネットの記事を読んでいて印象的なことの一つは、自分に関係ないことで口汚く非難したり攻撃したりできるのに(わかりやすい例としては著名人の被災地などへの寄付を「売名行為」と罵るなど)、人の生き死にに関わるような問題、特に生活苦や困窮については、「知らんがな」とばかりに自己責任論を叫んではばからない人間がそれなりの割合を占めている、ということだ。

 

 

もちろん、ラウドマジョリティが目立っている可能性もあるし、そもそもまったく同じ人間の発言でない可能性もあるわけだが、全体として見た場合、些事には口を挟み、重大事には無関心というのは、一体どのような精神構造なのかと思っていた(先の著名人の寄付について言うなら、[明確に違法行為ならともかく]仮にそれが一部売名を目的としていようが、それによって被災地にプラスがあるなら、社会にとってもプラスであり、回り回ってプラスである。だから個人的・感情的にこの人間は嫌いだが、ここはそこ行為を否定しないことが得策だ、とするのが公共的なかなかの機能主義的態度と言える。百歩譲って何かを批判するなら、そういう行為をした人間を100%の善人と盲信するナイーブな姿勢であり、間違っても寄付そのものではない)。

 


しかしよくよく考えてみると、前者の状況は相手を自身と同質的な人間と盲信するから赤の他人の些末事に口を挟まずにいられないのであり(何でこいつだけ美味しい思いをするのか?なぜ自分と同じでないのか?)、一方後者は社会からドロップアウトした存在=もはや同じ人間ではないから捨て置けという発想になのではないか?この見立てが正しいなら、(浅ましくさもしい精神性として)非常に納得できる対応の変化だなと思った次第である。

 


いきなりこんなイントロで始めてみたが、これは私が何度も「共感を称揚するのは危険だ」と繰り返してきた理由である。「経済衰退と社会関係資本の枯渇が同時信仰する日本社会の病理」で書いたように、日本において共同体は急速に崩壊しているが、他者への距離感はいまだに変えることができていない(だからこそ、「安心社会から信頼社会へ」のシフトもできない)。そして今、実態は複雑化・多様化しているのに同調圧力(抑圧の構造)は残り、他方で共同体の包摂機能は衰乏の一途を辿るという状況にあると言える(それによる不安から、既存のシステムが仮に時代遅れと感じても、それにしがみつかずにはいられない)

 


というのも、他者を「自分とは様々な点で異質だが、自分と同じ人間ではある」と認識し、その上で相手の固有性を尊重する(注:全肯定とは全く違う)という構えを持たない人間、すなわちムラ社会的メンタリティで生きる者たちに向けて共感の重要性を説いたところで、それは自分を無限に拡大させて他者に適応する傾向を促進し、かつそれができない(と思う)相手は排除してよいと自己正当化の材料を与えるだけだからだ。

 

 

他者との絶対的隔絶の認識(違って当たり前+他者理解の困難さ)、それでもどこかで繋がっているという認識からしか、他者理解のための思考・想像の旅は始まりようがない。(いかにも西洋的発想に聞こえそうなので東洋的タームを使えば)そういった仏教的な意味での「諦め」にも似た断念を持ち合わせない人間に「共感」なぞ説いたところで、せいぜい「以心伝心」や「阿吽の呼吸」のような「分かり合いの妄想」を加速させ、矮小な自己を無批判に拡張させるだけの輩を量産するだけである、と述べつつこの稿を終えたい。

 

 



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