「六不治」の件:あるいはAIが発達しても民主主義は終焉しないと思われる理由

2023-01-22 11:14:14 | 歴史系

君は、「扁鵲」という名の名医を、知っているかね?

 

・・・と第四の名前を持つ男風な導入で始めてみたが、扁鵲とは春秋戦国時代の伝説的名医の名前である。そしてここで彼の名前を持ち出したのは、前に書いた「認識論と実証主義」(あるいは人間の必謬性)の文脈で彼のエピソードは非常に興味深いからだ。

 

彼の記録は『韓非子』や『史記』など様々な史料に見られるが、それらを総合すると都合300年を生きたということになる。これが額面通り受け入れられるものではないことは論を俟たないが、一方でこの異常さの意味を考えてみるのはそれなりに有益だろう。すなわち、「仙人的存在として箔をつけようとした」という解釈や、「様々な無名の医師の記録が扁鵲に仮託された」という解釈である。特に後者は、中華地域において著名人にその名を託した文献はありふれており(日本中世にも類似の現象が見られたことは『偽書の精神史』などを参照)、またホメロスについても同様の指摘がなされているなど、洋の東西を問わずこういう現象は見られるため、ある程度説得力を持った説と言えるのではないだろうか。このように、歴史において「実証主義」と言っても、「史料=事実」とできないのは当たり前のことで、ゆえに史料批判や修史編纂学が必須となってくるわけだ。

 

もう一つ興味深いのは、彼が唱えた「六不治」である。死亡したと思われた人物が仮死状態であることを見抜き、そこに適切な処置をすることで「蘇生」すらさせたエピソードもある彼をして、「決して治せない病」と唱えたものは一体何だったのだろうか?

1:驕り高ぶり道理を弁えない病

2:財を重んじて我が身を大事にしない病

3:着衣や飲食の調整をしない病

4:陰陽が乱れてバランスを欠き、血気の安定しない病

5:身体が瘦せ衰え体力を消耗し、薬を服用することもできない病

6:巫術(まじない)を信じて医者を信用しない病

彼はこのように述べた上で、病人にこのうち一つでも当てはまるものがあれば、治すのは困難であると唱えたのである(読者の中には「縁なき衆生は度し難し」といった言葉を想起する人もいるだろう)。なお、「六不治」の件は突然差し挟まれたものではなく、例えば彼が斉の桓公に幾度も早期の治療を訴えたが疎ましがられるだけで受け入れられず、時を経ず桓公は亡くなった逸話などを踏まえたものと考えられる。

 

この六不治の内容を見ると現代社会にもそのまま通じると感じるが、なぜこれが認識論と実証主義の文脈で興味深いか、また副題にどうして「AIは発達しても民主主義は終焉しない」と書いたかと言うと、「事実を積み上げて蓋然性の高い・有効な結論を出したとしても、それを受け入れるかどうかは別ということを端的に表している」からである。

 

すなわち、人間という必謬性を負ったレセプターは、しばしば誤りを犯す。しかも合理的・論理的思考の上でだ(それは我々が完全情報に触れることができないゆえ、判断材料自体が偏るからでもある。ちなみに合理的思考や善意の集合による悲劇的結末を端的に表現した傑作の一つがソフォクレスの『オイディプス』と言える)。

 

そのような人間より、判断のブレないAIを政策決定の軸に据えるという発想(極端に言えばAI独裁主義)は当然惹起するわけだが、その実現はおそらくほぼ不可能だろう。その理由は、可能性が見えすぎるがゆえに「千日手」がごとき状況になるという難点以外に、妥当な結論を人間が妥当なものと認識できるか、いな妥当と認識したとて受け入れられるかというのはまた全く別の話だからである(この点はミルトン『失楽園』における天使と堕天使の対比を読むのが一番わかりやすい。率直に言えば、前者の非人間性と後者の人間臭さを見比べた時、人はどちらにコミットしたいと思うかだ)。例えば「平等」という観点に照らして先進国の富を途上国に配分して財の平等を達成すべしとAIが唱えたらどうだろうか?あるいは地球人口がこのままのペースで増え続ければカタストロフが生じるので、人口が多い国+人口増加率の高い地域の人間を「間引く」という政策を唱えたら?おそらく合意する人間は少数だろうし、合意があったとしても実行は極めて困難なのではないだろうか(これは「シンウルトラマン」の感想で述べた話ともリンクする。ほとんどの人間は自分[たち]の存在に論理的必然性などないということに耐えられないのである)。

 

とまあわかりやすく極端な例を挙げてみたが、要するに問題解決のための論理的妥当性と実行可能性は同列には語れない、ということだ。そして、結局は様々な組織や人間同士の微調整の中でAIの提言が「骨抜き」にされていくのであれば、人間による民主主義と大して変わらなくなるでしょうよと。繰り返しになるが、これが副題に書いた「AIが発達しても民主主義は終焉しないと思われる理由」である。

 

以上、人間の認識論と実証主義、そして人間の必謬性に基づくAI独裁主義の成立不可能性について述べたところでこの稿を終えることとしたい。


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